ミュージアムIT情報:影山幸一 04年3月
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掲載/歌田明弘|掲載/影山幸一
1,000億のニューロンに宿るクオリア「茂木健一郎」
影山幸一
茂木健一郎
クオリアを探求する脳科学者、茂木健一郎氏
 今から10年前、1994年2月、勤務していた理化学研究所から自宅へ帰る途中、茂木健一郎(以下、茂木氏)氏は人生最大の驚きだったという“クオリア”*1の問題に気がついた。自らを何事も本質に行く原理主義者と呼ぶ、1962年生まれの気鋭の脳科学者である。
 現在ソニーコンピュータサイエンス研究所でクオリアをテーマに研究をする。話は10年前に戻る。いつものように電車の中でノートに思いついたことを書いていた。車両と車両の間の連結器の上で、ガタンゴトンという電車の走行音を意識の縁で聞き流していた時、突然音の質感に注意がゆき、周波数で分析してもその音自体に決して到達できないことを、茂木氏は悟った。この体験がクオリアを研究する契機となった。それまでは、脳は物理的法則、化学的法則に従って時間発展する物質系であると考えていたのだ。そのクオリアとは、質を表わすラテン語からきているそうだが、赤の赤らしさ、薔薇の花の香り、水の冷たさ、ミルクの味など、人々が感じられる質感をいう。

 「朝の森の中を歩くと、多種多様なクオリアが私の心の中に感じられる。草の緑色。草の上の朝露につやつやした感覚。足の裏から、しっかりと私を支えてくれる大地の感覚。しっとりと冷たく私を包む空気の気配。木漏れ日が地面につくる斑(まだら)の明るい模様。鳥のさえずり。そして、その中を歩く私自身の体の感覚。「私」がここにいて、世界を感じているという意識。これらすべてのクオリアが、それぞれユニークな感じられ方で心の中に立ち上がってくる。」(『心を生みだす脳のシステム』P.39より)。哲学でいう、私の赤色とあなたの赤色は同じか、という概念に近いものである。質感であるクオリアを生み出すのは、脳の中の1,000億の“ニューロン”
*2神経細胞が、それぞれ数千の“シナプス”*3結合を通して結び合う関係性にあると言う。ここに美が宿る。ニューロン一つひとつにクオリアは生まれない。また、「私が○○を見る」という主観性と一体の関係上、同一のフレームワークの中でクオリアを理解しなければならない点、たいへん難解なわけであるが、解明できれば、茂木氏が小学校の頃憧れていたアインシュタインの相対性理論以来、最大の科学革命となるのだそうだ。

 東京・五反田の研究所に同世代である茂木氏を訪ねた。ソニー本社にほど近い研究所は、セキュリティーが整備された静かで落ち着いた空間である。初対面の茂木氏だが、どこかでお会いしていたような親しい印象があった。研究者というよりアーティストの雰囲気があり、難解な専門用語をわかりやすく解説して頂いた。茂木氏はこの研究所だけでなく、東京工業大学大学院の客員助教授と東京芸術大学の非常勤講師も務めている。東京・中野に生まれ、中学校まで埼玉県の春日部市に暮らしていたという茂木氏は、子供の頃、蝶フリークで昆虫図鑑を見ては蝶を採取していた。ある日お気に入りの蝶を捕まえたのに逃がしてしまった。しかし、ここに居ない好きな蝶の存在感というものに気付いたと言う。その後、東京大学理学部と法学部を卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士となり、理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現在に至る。

 最近茂木氏は、コンテンポラリーアートに関心が出てきたと言う。以前はフェルメールなどの古典的絵画を鑑賞していたようだが、ジェームズ・タレル(James Turrell)や内藤礼の作品など、新しい世界を見せてくれる作品、価値観を変化させる作品が触媒の役割を果たしているようで、認知科学的にも楽しめるとのことである。現代作家ではないが日本画の伊藤若冲も、好きなアーティストの一人で白い巨像が描かれている《鳥獣花木図屏風》(六曲一双)が好きだそうだ。脳は美をいかに知覚しているのか、脳はいかに美を生み出すか、デジタル画像による知覚の変化などを茂木氏に伺いたいと思った。また、“脳からみて美とは何か”という東京芸術大学で行なわれている美術解剖学の前衛的、実験的な授業を通して、若い美大生に新しい芸術表現や価値が生まれてきてほしい。茂木氏の芸術論に期待したい。美に対する考えを美術史や美学だけではない、物理化学の理系的側面からとらえることは、新しい観点ではないだろう。しかし、「私はどのように美を創造しているのか」という客観的態度に、芸術が科学に学ぶことは多い。芸術作品の強度を増すためには、今後益々この文系と理系、あるいは男性と女性、大人と子供、東洋と西洋、古代と現代、そして茂木氏のいう“主観性”
*4と客観性の往復で鍛えられた知力・感性的技術を伴った表現が求められるのだろう。

(a)カニッツアの三角形 (b)実際の三角形
(a)カニッツアの三角形 (b)実際の三角形

 図(a)はカニッツアの三角形といわれる錯視図形である。見ていると三角形を知覚してくるがそこに色のクオリアは感じられず、三角形があることのみを感じる。一方、(b)の実際の三角形は、三角形を構成する色のクオリアが、背景の色のクオリアとは異なるものとして知覚される。これは茂木氏の解説によるものだが、錯視図形は2つのクオリア、感覚的クオリアと志向的クオリアの間にずれが生じている場合に起こるらしい。感覚的クオリアである外界の性質が鮮明で具体的な形で感じられるときの質感(言語化される以前の原始的な質感)と、志向的クオリアの心の中に立ち上がる質感(言語的・社会的文脈の下に置かれた質感)の2種類があるとされている。ここに“志向性”*5が無意識に役割を果たし、感覚的クオリアか志向的クオリアかどちらかが立ち上がる。三角形を構成する感覚的クオリアの欠けている部分を、脳が能動的に補って志向的クオリアを作り出していると言う。臓器の一つである脳については、科学の発達により、入り口と出口のところは仕組みや働きが明らかになりつつあるらしいが、全容は解明されていないそうだ。ただ、心脳問題が解けないからこそ、人間の芸術行為が成立しているのかも知れないと、解明されてしまうことに少し不安も伴うが、脳の全容解明から美の構造が明らかにされようとしていることは確かである。最近ではオートポイエーシス(自己創出システム)という20年ほど前に神経生理学者マトゥラーナとヴァレラが提案した知が、生命哲学、社会学など各分野でクオリアと同様注目されてきたようだ。

 バーチャルリアリティの性能が向上してくることで、現実とバーチャルの区別がなくなる可能性もあると茂木氏は言う。危機感と共に価値観の拡大が予感される。若い世代が益々CGによって現実を超えた理想的CG美人画像を製作していくことで、油絵や日本画とは異なるCG世界の美人画が確立してゆくのではなかろうか。脳の中で起こる物理的、化学的過程は、クオリアを除いて原理的にはほぼすべて数量化できるものと、自然科学の専門家の間では信じられているとのこと。しかし、数量化できないものに美という神が宿る気がする。無意識に作品画像(デジタル画像等)を見て記憶、脳内アーカイブを構築し、浮かんでは消える想念となって、心が作られていくのかも知れない。脳を考えると心の存在が意識されてきた。美を探る脳の旅は心にたどり着く。



*1. クオリア(qualia) 「赤い色の質感」、「ヴァイオリンの音の質感」など、感覚を特徴づけるさまざまなユニークで鮮明な質感を指す。脳の中のニューロンの活動という物質的過程から、どのようにしてこのような質感が生まれてくるかが、心脳問題の本質である。
*2. ニューロン(neuron) 脳の構造単位となっている神経細胞。細胞体と、樹状突起(dendrite)、軸索(axon)からなる。興奮は、樹状突起から細胞体を経て、軸索へと伝わる。軸索では、シナプスを通して、次のニューロンに、情報が伝えられる。
*3. シナプス(synapse) ニューロンとニューロンの間にある接続部位。シナプスにおける隙間(シナプス間隙)に、神経伝達物質が放出されることで情報が伝達される。シナプスの「結合強度」の変化が、学習に関係すると言われている。
*4. 主観性(subjectivity) 認知的には、「自分が自分であることの認識」を指す。
*5. 志向性(intentionality) オーストリアの哲学者ブレンターノが、物質にはない、心に特有な属性とした、「○○へ向かう」という心の働き。明示的な視覚情報の表現は、私たちの心の中で、クオリアではなく、志向性として成立していると考えられる。
(『心が脳を感じるとき』「用語解説」より引用 1999. 講談社)


■もぎ けんいちろう 略歴
ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー、東京工業大学大学院客員助教授(脳科学、認知科学)、東京芸術大学非常勤講師(美術解剖学)。1962年10月20日東京都生まれ。1981年東京大学理科I類・理学部物理学科入学、1987年法学部卒業後、1992年東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。1992年理化学研究所入所。ケンブリッジ大学生理学研究所を経て1997年より現職。脳科学、認知科学の研究に従事。主な著書に『脳とクオリア』(1997, 日経サイエンス社)、『生きて死ぬ私』(1998, 徳間書店)、『スルメを見てイカがわかるか!』(養老孟司氏との共著, 2003, 角川書店)など。論文多数。「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究している。出井伸之氏の提唱するソニーのQUALIAプロジェクト・コンセプターとしての活動も行なっている。

■参考文献
茂木健一郎『心が脳を感じるとき』1999. 講談社
養老孟司・村上和雄・茂木健一郎・竹内薫『脳+心+遺伝子vs.サムシンググレート』2000. 徳間書店
茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム』2001. NHK出版協会
茂木健一郎『意識とはなにか──〈私〉を生成する脳』2003. 筑摩書房
[ かげやま こういち ]
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