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〈粧〉と〈美〉の顛末──格差と消費の社会を解剖する
清水知子
[しみず ともこ/メディア・文化研究]

 梅雨の合間の強い陽射しに、去年サイゴンの街角ですれちがったアオザイの女性たちを思い出す。シクロやバイクにまたがった彼女たちは、顔に色とりどりの布を纏っていた。ベトナムでも、色白志向が強まっているという。
 街に出ると、色白化粧品や健康飲料などについつい手が伸びてしまう、という人も多いはず。いかに美の価値が相対化しようと、「色白は七難隠す」の神話は根深い。
 皮膚の色の境界線(カラー・ライン)は、デュ・ボイス以来「人種主義」の防衛線だったが、女という位置どり、その身体をめぐるセクシズムやフェティシズムにも、白への憧憬、あるいはコンプレックスがある。でも待てよ。それって一体どこからきたのか?
 ということで身体、あるいは美をめぐる最近の著書をふり返ってみると、いくつか興味深いものがある。まずは、栗山茂久・北澤一利編著『近代日本の身体感覚』。この本は、身体と健康をめぐるさまざまな感覚が近代日本においてどのように形成されてきたのかを多角的に分析し、丹念に論じたものだ。冷え性、頭痛、過労、栄養ドリンク、鬱、ストレスをめぐる考察も興味深かったが、なかでも、夏目漱石、谷崎潤一郎といった近代日本のエリートたる文学者たちが西洋人の白い肌を目のあたりにし、それを「美しい」と感じ、そしていかに自分の「黄色い」肌に深い身体的欲望と劣等感を抱いたのか、その人種的ジレンマの系譜をたどった真嶋氏の論は、現代社会における白さへの憧憬とコンプレックスを考える重要な手がかりを与えてくれる。当時、人種問題は「身体的優劣」の問題、とくに「肌の色」をめぐる美醜の問題として解釈され、それが近代日本の翳として抱え込まれていくことになるという。
 思えば、これまで「人種」について論じた著書は、欧米を中心に、人種差別を視野に入れながら、マイノリティとしての「人種」について論じたものが圧倒的に多かった。しかし、ここに来てもう少し別の角度から「人種」に着目した書物が目を引く。
 たとえば、竹沢泰子編『人種概念の普遍性を問う』は、人種の生物学的実在性が否定され、それは社会的構築物にすぎないとしながらも、なぜこれほどまでにリアルに私たちの生活のなかに根を下ろしているのか、という観点から、人種を包括的に理解するために人種概念を歴史的に徹底的に洗い直し、再検討することを目論んだ画期的な書物である。
 一方、「白さ」をめぐる問いに、文字通り「人種」という観点から切り込んだのが藤川隆男編『白人とは何か』である。これまであたかも自明のことであるかのように存在してきた「白人」と「白人性」を研究の対象に据える、という独自の視点から展開した本書は、人種をめぐる類書とは一線を画し、これまで見えてこなかった「白人」をめぐる人種の構造的差異と権力の形成を浮き彫りにする。「白人性」は、「そうではないものによって否定的に定義」され、「完成度の基準(尺度)であって、それとの差異によって、他の人種や国民、民族は区分され、階層化される」。「白は無色で、しかもすべての色である」──といった指摘にも見られるように、これまでつねに「白人」が普遍主義という形態をとって現われていたことを思い起こすと、このホワイト・スタディーズの意義は大きい。
 ところで、白さと身体美をめぐる探求は、実はアメリカ的な「中流」階級のライフスタイルの拡大という現状とも密接に結びついている。
 バーバラ・エーレンライク『「中流」という階級』が日本で翻訳されたのは、もう十年も前のことになるが、振り返ってみると、その文化はますます加速しているように思う。ここでいう「中流」階級は、アメリカの白人の生活スタイルを意味するが、著者曰く、「中流」とは、単に中くらいの所得階層を指すわけでも特定の集団を指すわけでもない。「中流」階級の唯一の資本は、知識と技術、そしてそれがもつ信用なのだという。そしてこの資本は、財産より短時間に消え去ってしまうし、個人の努力と献身で刷新されなくてはならない。
 つまり、「中流」階級の人びとは、つねに自己鍛錬と自己管理を要する仕事から逃れられない者たちである。「中流」であるという階級や階層についての自覚のありようは、どれほど身体を使おうとも、誰もがかつての「知的・精神労働者」の位置を占めるように促している社会と政治の編成を指しているといえる。スポーツクラブで時間とお金をかけて肉体労働を再現し、美容整形によって顔や表情の歴史と痕跡を消す。爆発的な健康食品ブームしかり。消費文化の拡張はとどまるところを知らない。つまり、「中流」が所有し、また流通させるのは「情報」であり、またそれを扱うことのできる「身ぶり」や規律化された「習慣」(ハビトゥス)なのだ。
 こうしてふり返ると、アメリカ的「中流」階級のライフスタイルが深化するなかで、身体は生活レベルにおいて大きな転換期を迎えていることに改めて気づく。
 それにしても気になるのは、こうした白さの市場を支えているのが、「セレブ」と称される擬似的な富裕層、そして主に20代後半から30代の働く女性であるということだ。白さとは、人種的憧憬なのか、あるいは今や消費される美なのか、それとも自己改造志向の行く末なのか。
 三浦展は、『「自由な時代」の「不安な自分」』と題する著書のなかで、消費社会の進展は、ある時期まで「確かな自分」という観念と結びついていたが、ある時期以降はむしろ「不確かな自分」という観念の広がりを促進しているという。二十年代のアメリカに起を発する大量生産、大量消費の行きつく先は、もはや統合された「自分(アイデンティティ)」ではありえない「複数の自分」だったという氏の指摘は興味深い。そこで喪失されてきたのは、物語化され、広告化され、カタログ化された消費主義的「らしさ」から脱する想像力と構想力である。とすれば、私たちは、ますます「自分らしさ」や「自分探し」の神話に耽溺している場合ではない。
清水知子
筑波大学大学院人文社会科学研究科講師、博士(文学)。共著=『文化の実践、文化の研究──増殖するカルチュラル・スタディーズ』(せりか書房、2004)、『越える文化・交錯する境界』(山川出版社、2004)、翻訳=『ジジェク自身によるジジェク』(河出書房新社、2005)、『9.11以後の監視』(明石書店、2004) など。
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