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再び都市を思考するために
柄沢祐輔
[からさわ ゆうすけ/建築家]

 現在、私たちは再び都市について思考する時期に差しかかっているのではないのか。建築史・都市論のフィールドにおいては、1950年代後半から60年代後半にかけて、さまざまな都市に関するラディカルな議論と提案が世界的な水準で加速度的に展開し、日本でのメタボリズム運動とイギリスでのアーキグラムなどの活動を頂点として、60年代末から70年代初頭にかけて文化革命の挫折と成長の限界論などを経由して、その動きは徐々に衰退していった。日本においては磯崎新の「都市からの撤退」という言葉がその当時の状況を端的に物語る。当時の日本のリーディングアーキテクトであった磯崎のこの発言は後続世代に圧倒的な影響力を及ぼし、建築家が都市について思考することが半ば忌避され、都市に対して防御的・内向的な建築を生み出す安藤忠雄、伊東豊雄ら「野武士の世代」が台頭していったことは広く知られている。

 今年の初頭に出版された東浩紀+北田暁大による『東京から考える』を読んだ時、都市論においては建築家が遥かに取り残された後、より広義の文脈を扱う社会学のフィールドにおいて、建築家による都市論からは決して生み出されることのない知見の数々が指摘されていることに驚きを覚えた。すでにその一昨年前にマーケティングプランナーの三浦展が『ファスト風土化する日本』のなかで語った〈郊外化〉という議論を全面的に受け継いだものとはいえ、本書ではその概念をさらに発展させて「人間工学化する風景」という言葉を生み出したことは特筆すべき出来事として記憶されていいだろう。「人間工学化する風景」とは、単純に説明すれば社会や風景を構成する論理が人間の生活を維持するために特化した不可視のインフラストラクチャーによって支配され、その圧倒的な論理のもとで人間的な情緒的風景や、趣味や価値観を体現する街並みなどが潜在的に制御され、実体を欠いたシミュラークルと堕してゆく状況を指している。私たちが目にする郊外の風景も、都心の風景もひとしなみに不可視なインフラストラクチャーの上に構築されたテーマパークに過ぎないということだ。おそらく、それは私たちが普段目にする都市風景の本質でもあるだろう。本書ではそれらの問題系があくまで問題提起としてのみ提示されている。しかし、今後の都市における議論とさまざまな実践はこのような視点を抜きにしては語れなくなるのではないだろうか。

 そのようなことを考えながら、ふと磯崎新が60年代の前半に行なった都市のフィールドワークをまとめた『日本の都市空間』を読み返して衝撃を覚えた。この本は磯崎新がまだ建築家としての大規模な実作をものしておらず、まだ事実上無名の頃に書かれたものだ。しかしここで語られている都市に対する思考の精度の高さは端倪すべからざるものだ。まず彼は当時興隆を極めていたメタボリズム運動や丹下健三のメガストラクチャーへの志向を「構造論的段階」と一言で捉え、それがモダニズムの興隆期におけるCIAMでの「機能論的段階」と、その前段階である19世紀的、カミロ・ジッテ的な都市を空間として捉える「実体論的段階」に切り分ける。そうして、その抽象度の段階的な上昇を指摘したうえで、都市を視覚的な記号と看做すケヴィン・リンチの当時最先端の研究を紐解きながら、今後の都市は記号化した状況をどのように再構成するかという「象徴論的段階」に至るだろうと述べる。当時は、クリストファー・アレクザンダーの「パタン・ランゲージ」やロバート・ヴェンチューリの「ラスベガスから学ぶこと」など、都市を記号に変換したうえでその記号的状況を再構成するための方法論が都市計画の最先端の問題系だったのだ。しかしその問題系は、ついに有益な知見をもたらすことなく、70年代における都市論の衰退とともに退潮していった。その帰結は磯崎自身の「都市からの撤退」という言葉に端的に集約されるのだが、私たちは都市における思考が磯崎の指摘した「象徴論的段階」で停止しているという事実に気がつかざるをえないだろう。私たちは、都市を構成する方法論に再び息吹を吹き返し、歴史の歩みをその先へと進めることができるのだろうか。本書を紐解きながら、そのような感慨に捉われた。

 都市を構成する論理。歴史を遡れば都市に対する大胆な提案は20世紀の初頭のアヴァンギャルド達の提案にその嚆矢を見ることができる。未来派アントニオ・サンテリアの「新都市」しかり、ル・コルビュジェの「輝ける都市」しかり、構成主義者イワン・レオニドフの「線状都市」しかり、ルードヴィヒ・ヒルベルザイマーの「高層都市計画」しかり。彼らは都市を構成する新しいタイポロジーの数々を生み出し、都市を「構成」の水準からまったく新しい位相へと刷新しようと試みた。それらは形を変え、その後の各国政府やデベロッパーの計画思想へと換骨奪胎されつつも概ね実現しているといってもいい。このような20世紀初頭のアヴァンギャルド達が展開した都市のタイポロジーの刷新に、21世紀の初頭における極めて近い試みと言いうるものとして、セシル・バルモンドの『インフォーマル』が挙げられるだろう。この本は都市について言及したものではない。しかし、レム・コールハースや伊東豊雄、ダニエル・リベスキンドなど現在の世界の建築界をリードする建築家達の事実上の形態や空間の創造において、構造設計家として深く関与している彼の方法論は、20世紀初頭のアヴァンギャルド達がめざしていたものと軌を一にしていると言えるだろう。それはとりもなおさず、建築に限らずあらゆる造形物の構成の方法論、その論理の刷新を図っていることによる。通常私たちは構成の方法論として無意識に幾何学的な構成を敷衍するが、セシルが対象とするのはその幾何学それ自体である。ピタゴラス派やプラトンなどギリシア時代以来前提とされた幾何学に対して、彼はそのさらに起源に遡り、古代唯物論の思想に基づくオルタナティヴな幾何学による構成を探求している。その試みの全容はまだ明らかにされてはいないが、本書のなかではその思想的な核の部分と方法論が詳細に記されている。私たちは本書により、都市と建築を構成する方法論、その同時代的なツールが誕生したことを、高らかに告げ知らされるのだ。おそらく、この書物に影響を受けた同時代の建築家たちが、新しい都市の構成の方法を見出し、21世紀の都市風景を変化させてゆくのではないだろうか。

 最後に、「人間工学化する風景」に対する実践として、ブルース・マウによる『Massive Change』という本を挙げたい。この本は、現状のグローバリズムのなかでどのような変化が起こり、どのような変化が起こせるのかという可能性についての真摯な議論を集大成したものである。それは現今の社会的言説を取り巻いているグローバリズムに対する批判ではない。アンチテーゼではなく、グローバリズムにおける潜在的な可能性を明らかにして、その可能性を利用しつつ、現在のグローバリズムの諸問題をどのように解決することができるかという議論を、政治・経済・都市・エネルギー・軍事などのさまざまな領域の研究者達を招いて行なったものだ。私たちを取り巻く都市風景も、おそらくはグローバリズムの論理が潜在的なものとして作動していることだろう。そしてそれが「人間工学化」として顕在化しているのが現状だとして、その潜在的な論理をどのように利用して、その問題を解決できるのか。私たちが今後議論をしなくてはいけないのは、おそらくはその部分に尽きるのではないのか。「都市から撤退」の後の長い忘却の期間を経て、私たちは再び都市に対する視線を獲得しつつある。その都市に対する眼差しが実践へと交差する地点において、現状の都市風景の背後にあるメカニズムを読み解き、その可能性を最大限に利用することに、私たちは都市を再び考える眼差しの視座を据えるべきなのかもしれない。
柄沢祐輔
1976年生。建築家。文化庁派遣芸術家在外研修制度にてMVRDV(蘭)在籍後、慶応大学大学院研究員。設計事務所主宰。論文=「グローバリズムに関与するデザイン」(『Design Quarterly』Vol.4、翔泳社、2006)、「アルゴリズムにより深層と表層を架橋せよ」(『10+1』No.47、INAX出版、近刊)など。
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