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学芸員レポート
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ヒロシマ アート ドキュメント 2008──国内外の作家による現代美術展
第7回ヒロシマ賞受賞記念「蔡國強 展」準備中
広島/角奈緒子(広島市現代美術館
 昨年のこの時期、学芸員レポート内で紹介した「ヒロシマ アート ドキュメント」が、今年も開催されている。第15回目を迎える今年の会場も昨年同様、広島に残る被爆建物のひとつ、旧日本銀行広島支店。この建造物の詳細は、昨年のレポートで紹介したのでそちらを参照していただきたい。今回の参加作家は、日本、イギリス、レバノンからの5名であった。

 イギリスの作家、ジェームズ・ホプキンスは、インスタレーションを2点発表している。そのうちの1点、《時の砂(The Sands of Time)》と題された作品は、いくつかの木彫が組み合わされたインスタレーションである。円形や矩形など大小いくつもの穴が穿たれた棺桶とその横にはテーブルがある。このテーブルの上には、木彫りのヴァイオリン、書物、ワインボトル、インクつぼと羽ペン、蝋燭、パイプ、コップ、砂時計、十字架が置かれている。この木彫が実に絶妙な仕上げのためか、かなり不思議な印象をかもし出すこの作品、どこに着目してよいのやらとためらいながらもじっと眺めつづけた。ほどなくしてこれが、「静物画」の立体ヴァージョンであることに気づく。「静物」のモチーフのうち、砂時計とろうそくが時の経過を、なにも入っていない空のコップは文字通り「空ろ」を示す。楽器であるヴァイオリンや嗜好品のためのパイプは、短い現世での楽しみを、書物はこの世でしか役に立たない知識の虚しさを意味するのであろう。このように「ヴァニタス」が表わされているわけだが、さらに、死と容易に結びつく棺桶は、「メメント・モリ」という警句ともなる。キリストの血を思わせるワインボトル、十字架といったアイテムは、静物画の伝統を尊重したゆえのモチーフなのか、はたまた全人類の罪を背負った贖罪のキリストを意味するのか。ホプキンスのこの作品は、すべての人は例外なく死すべき存在であることを思い起こさせ、人間の奢りをしずかに戒めているようにも感じられる。
呉夏枝《不在の存在》
呉夏枝《不在の存在》
 在日韓国人3世である呉夏枝は、民族衣装やテキスタイルを用い、自らのルーツやアイデンティティーをあらためて問い直す作品を発表してきた作家である。このたびの作品は、布素材を用いたインスタレーション。薄く透けるオーガンジーのような生地と綿で、完全ではないが衣装らしきものが形作られ、それらがまるで浮遊しているかのように天井から吊られる。床に平らに置かれた衣装は、まるでふかふかのおくるみにくるまれた新生児のように見える。床面すれすれの低い位置に吊るされた小さな衣は、歩くことをちょうど覚えたばかりの子どもだろうか。向かい合った2着の衣装は、なにかおしゃべりしている男女に、ノースリーブのワンピースは、おしゃれを楽しむ年頃の女性のように見えてくる。丈の長いローブのようなドレスは、齢を重ねた初老の女性のようだ。《不在の存在(Being of Emptiness)》と題されたこの作品は、衣装と呼ぶには不十分な衣に、見えないはずの「存在」を見ることを可能にするが、不在の存在を在らしめるその方法は決して強制的ではなく、実に見事である。いつまでも物質として存在しうる衣(布)と、死して肉体が朽ち果ててしまえば形として残ることのない人体とを対比させ、人間という「存在」のはかなさを提示しているようにみえる。
Ziad Antar《Ein al Hilwx 難民キャンプでのヴェール》
Ziad Antar《Ein al Hilwé 難民キャンプでのヴェール》
2007年6月、サイダ(レバノン)
 レバノンの作家、ジアッド・アンタールは、写真作品《Ein Al Hilwé 難民キャンプからのヴェール》を展示。アンタールは、サイダという都市の難民キャンプに暮すイスラム教の女性たちに、普段着用しているスカーフを持ってきてもらい、布を留めるためのピンとゴムを彼女たちに渡し、スカーフをおのおの好きなように成形してもらう。そして、思い思いに形作られたスカーフを、写真におさめ、作品として発表する。これは、プロジェクトとその記録写真としての作品であるといえるだろう。実際、アンタールは、この展覧会「ヒロシマ アート ドキュメント」への参加オファーがあった際、「ドキュメント」としてのこの作品が展示に最もふさわしいと考えたと話す。彼の着眼が「ヒロシマ」ではなく「ドキュメント」にあった点は興味深く、注目に値する。スカーフの色や形そのものはなんの意味も持たないこの作品で重要なのは、スカーフがイスラム教徒の女性が使用するものであるという事実であろう。9.11以降、ヴェールを着用するイスラム教徒の女性が急激に増えたこと、公立学校での非宗教性を法律で守るフランスでのヴェール着用禁止問題などを想起させるこの作品は、日常に潜む宗教と政治の問題を非常に冷静に、客観的に露わにする。
 沖縄出身の山城知佳子は、写真と映像の3作品を出品している。作家自身が老人たちに取り囲まれるようにして写ったパネルと、作家の頭部が、深いしわと斑点のように広がるしみに覆われた複数の老人の手に包み込まれているパネル(カラーとモノクロの2点)で構成される写真作品《バーチャル継承》は、先人からの継承をテーマとしている。残酷な選択を強いられた先の戦争を経験した者から、われわれが継承すべきことは少なからずあるはずだが、その受け継ぎ方は、経験者(=老人たち)の手が未経験者の代表である作者の表面を覆うように、皮相なものにすぎないのではないだろうか、と問いかける。実体験のともなわない継承が、所詮はバーチャルでしかありえないというメッセージにも取れる本作品の真意は、冷静な現状把握なのか、それとも諦念なのだろうか。
 小野環と三上清仁のユニット「もうひとり」は、「窓」に焦点を当てたインスタレーション2点を発表。被爆を期に、銀行としての機能を奪われ、惨劇を伝えるモニュメントとしての新たな役割を付与されたこの建造物に、廃墟的な一面を見出した彼らは窓を利用して再生の兆しをもたらそうとする。
もうひとり《Wind-ow》 もうひとり《Wind-ow》

以上すべて
©HIROSHIMA ART DOCUMENT 2008
 各作品はいかようにも解釈できる。ここで筆者があえて避けた「ヒロシマ」という文脈での解釈さえも。なぜこの解釈をあえて避けたのか? それは、「ヒロシマ」という語がはからずも持ってしまう権威について、いまいちど考えてほしいと思ったからである。この展覧会からは、上に挙げた作家が出品作家でなければならない理由が伝わってこないように感じた。これにはいくつかの理由が考えられるが、キュレーションの意図が見えてこないことが一番大きな理由ではないだろうか。人はとかくわかりやすい命題にたよりがちで、クリシェにすぎないとわかっていながらも、都合のよいタームの存在に気づくと、それを便利なツールとして利用してしまう。広島における「ヒロシマ」は、その危険性を大いに孕んだタームであることはいうまでもない。「ヒロシマ」を利用することが悪いといいたのではない。ただ、形骸化した「ヒロシマ」にのっかるだけでは、積極的にヒロシマを語ることはできないのではないだろうかと、感じざるを得ない。
 「ヒロシマ アート ドキュメント」を15年の長きにわたり、毎年開催してきたことには尊敬の念を抱いてやまない。しかしながら、15年という年月の経過は世界にさまざまな変化をもたらしてきたはずである。63年前の広島での惨劇は変わらないものの、そのヒロシマへのアプローチは、世相を反映し、いかようにも変化するものではなかろうか。アーティストたちはそれを敏感に感じとり、作品に表しているかもしれないが、キュレーションする側も世相の移り変わりを察知し、その時々にふさわしい作家を選ぶべきであろう。そして、はなぜこの作家が選ばれなければならなかったか、ということを明確にしなければならないのではないだろうか。こう記しながら自分の首を苦しめているような気もしているが、この展覧会を通じて素直に感じたことを肝に銘じながら、学芸員としての仕事に取り組んでいきたいと改めて思った。

ヒロシマ アート ドキュメント 2008
会期:2008年8月16日(土)〜8月30日(土)
会場:旧日本銀行広島支店
広島市中区袋町5-16

学芸員レポート
 世界で初の被爆都市となった広島が、平和を希求する「ヒロシマの心」を現代美術を通して広く世界へとアピールすることを目的として、3年に一度、美術創作活動により人類の平和に貢献した作家の業績を顕彰していることをご存知だろうか。ヒロシマ賞と呼ばれるこの賞は、1989年に創設され、これまでに、三宅一生(デザイン)、ロバート・ラウシェンバーグ(美術)、レオン・ゴラブとナンシー・スペロ(美術)、クシュシトフ・ウディチコ(美術)、ダニエル・リベスキンド(建築)、シリン・ネシャット(美術)が受賞している。
 第7回を数える今年の受賞者は、蔡國強。蔡は、先日まで世間を賑わしていた北京オリンピックの開閉会式アーティスティック・ディレクターの一員を務め、世界三大発明のひとつ、火薬を駆使し、メインスタジアム「鳥の巣」だけでなく北京市内をも火花でもって煌々と照らしだし、4年に一度の祝祭にふさわしい、賑々しい演出を披露した。蔡は、自身の作品においては、中国の思想哲学や独自の宇宙論などの視点から、さまざまな問題を孕む現代社会や世相を鋭く捉え、壮大なプロジェクトや火薬絵画で表現する。1986年から1995年まで日本に暮らし、同じ東洋に位置する中国と日本との類似や相違を見出しながら精力的に作品を発表した。1995年から活動拠点をニューヨークに移した蔡は、東洋と西洋との差異を体験することとなるが、彼のアイディアは尽きることなく、世相を反映した作品を発表しつづける。10月25日より広島市現代美術館で開催される本展覧会は、蔡の日本での本格的な回顧展の様相を見せることとなるだろう。世界初の被爆都市となった広島の鎮魂と再生への祝賀をこめて1994年に行なった爆発プロジェクト《地球にもブラックホールがある》、アメリカに移ってから最初に手がけたプロジェクト《キノコ雲のある世紀》など、これまでのプロジェクトを火薬ドローイング、写真、映像で紹介するとともに、いわき市民たちとの交流をとおして完成させたインスタレーション作品《いわきからの贈り物》の広島ヴァージョン、さらには、新作も発表する。蔡の宇宙規模の作品を概観できるよいチャンスとなるこの展覧会を、ぜひお見逃しなく。なお、オープニングの翌日には、蔡と浅田彰氏との対談を予定。
Cai Guo-Qiang Cai Guo-Qiang, The Earth Has Its Black Hole Too:
Project for Extraterrestrials No. 16
1994.
Photo by Kunio Oshima, courtesy Cai Studio

●第7回ヒロシマ賞受賞記念「蔡國強 展」
会期:2008年10月25日(土)〜2009年1月12日(月・祝)
会場:広島市現代美術館
広島市南区比治山公園1-1/Tel.082-264-1121

[すみ なおこ]
北海道/鎌田享福島/伊藤匡愛知/能勢陽子大阪/中井康之|広島/角奈緒子
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