artscape
artscape English site
プライバシーステートメント
学芸員レポート
北海道/鎌田享|金沢/鷲田めるろ|香川/植松由佳福岡/山口洋三
キム・ドンウォン「送還日記」/アトリエ・ワンと粟津潔
金沢/金沢21世紀美術館/鷲田めるろ
キム・ドンウォン「送還日記」
キム・ドンウォン「送還日記」
 北九州国際ビエンナーレ'07の関連上映でキム・ドンウォン監督のドキュメンタリー映画「送還日記」に出会った。この映画は2003年に制作され、昨年、金沢を含めた日本各地で公開されていたらしいのだが、私はこれまでこの映画のことについてまったく知らなかった。
 北朝鮮のスパイが韓国で逮捕され、長期服役のあと出所し、韓国で生活を経て最終的には帰国するまでを撮ったこの映画が今回上映されたのは、朝鮮半島に近い北九州の門司という場所を意識した地勢学的な選択であったようだ。キム監督も出演した上映後のシンポジウムでも、この作品をグローバリゼーションや冷戦という文脈のなかで捉える内容であった。しかし、私にとって興味深かったのは、このドキュメンタリーが転向の問題の複雑さを丁寧に描き出していることであった。そのことによって、ある政治的、地域的なテーマを超えて、自分よりも圧倒的に力の強い権力に対する行動の仕方という普遍性を獲得しているように思えた。カメラに写っている人たちは、鍛え上げられた戦士というよりは、ごく普通のおじさんたちだ。どうして目の前にいるこの普通の人たちが、あれだけのひどい拷問に耐えて、信念を貫き続けたのか。監督にとっては奇妙とも思われるその信念をどうして持つようになったのか。この疑問に突き動かされるように、監督はカメラを回し続ける。監督のとまどいが見る者にもよく伝わってくる。
 映画を見ながら思い出したのが、オウム真理教を扱った森達也の「A」や「A2」である。このドキュメンタリーにも、地下鉄サリン事件を起こした集団が、一人一人を見ればごく普通の人たちであるということの不思議さが現われていた。何かを信じるということの異様さと、目の前の人の普通さとのギャップは、自分たちもまた「異様な信念」を無意識のうちに持っているのではないかと不安にさせる。その不安から眼を背けない点で、「送還日記」も「A」に共通するものがある。
 また、「送還日記」に登場する人物たちの証言から、冷戦時代、転向の問題がリアリティを持っていたことが改めて感じられた。そのとき想起されたのは、遠藤周作の『沈黙』である。転向の複雑さを扱った『沈黙』は1966年に刊行されているが、これまで私は、江戸時代を舞台とするこの小説を、それが書かれた時代背景と結びつけて考えてはいなかった。だが、この映画を見ながら私は、その頃に転向の問題が切実であったこと、そして、転向を即、悪と捉える見方を考え直そうとしていた時期にあたることを再認識した。この小説で宣教師は、棄教するか、信者が一人ずつ殺されてゆくのを見殺しにするかを迫られる。棄教は悪、信念を貫くことが善という単純な二分法ではなく、複雑な心の揺れと葛藤を描いている。この視点は「送還日記」にも引き継がれている。映画の中で、キム監督は、転向して韓国で暮らす人物にもインタヴューを続けている。その人物の話にゆっくりと耳を傾けるカメラの映像から、複雑さに寄り添う監督の姿勢が十分感じとれる。
 今日の日本においては、『沈黙』が描かれた時代のように、思想に対する暴力的な弾圧はリアリティを失っているかもしれない。しかし、森達也が描くように、マスメディアの生み出す大きな世論の流れが、気づかれないうちに人々の思想を隅々まで統制している状況にある。その状況に抗しながら、体制と異なる信念をもつことの困難さに向き合うことが重要であるとするならば、「送還日記」の問いは今日の日本でこそ重要だと言えるだろう。北朝鮮に戻ったスパイが、ふつうのおじさんから英雄に祭り上げられてしまうことに、さびしさを感じさせる監督の目線を大切にしたい。
北九州国際ビエンナーレ'07
会期:2007年9月28日(金)〜10月31日(水)
会場:北九州市門司港地区
学芸員レポート
荒野のグラフィズム:粟津潔展
荒野のグラフィズム:粟津潔展
 8月1日号の学芸員レポートでお伝えしたアトリエ・ワン「いきいきプロジェクトin金沢」も終了し、現在は11月23日(金・祝)から始まる「荒野のグラフィズム:粟津潔展」の準備をしている。展覧会と同時にフィルムアート社より刊行される同名の書籍に、「粟津潔とメタボリズムの思想」と題する文章を書いた。これは、1960年代を中心に、川添登、菊竹清訓などメタボリズム・グループの建築家たちの活動と、同グループのメンバーでもあった粟津潔の作品や思考を比較しながら、彼らのアクチュアリティについて考えようとするものである。文中でアトリエ・ワンに言及してはいないが、執筆にあたって、半年間アトリエ・ワンのプロジェクトを通して考えたことが反映されている。アトリエ・ワンの考えのうち、私が面白いと思ったことを、粟津も考えていたりするのである。
 そのひとつは、アトリエ・ワンが都市の「ざらつき」と呼んだものである。「ざらつき」とは、個々の家が、かつて町家だった細長い敷地割りを共有しながらも、そこに住む各個人によって思い思いに改造されたり、建て替えられたりして、町並みとして一貫性や統一性に欠ける不揃いの状況を指している。金沢の町並みが、専門家による俯瞰的な都市計画によってではなく、個人によって形作られているという意味で、アトリエ・ワンは、この「ざらつき」を重視した。一方、粟津は、都市の建築群を流れとして捉え、その流れを一本の線にたとえたうえで、その線の凹凸が重要であると書いている。両者は同一のことに着目していると私は思う。
 もうひとつは、リズムの交錯点に着目する視点である。粟津は、都市はさまざまな波のリズムが交錯する場所であり、そのリズムの交錯点に自由が生まれるとしている。その交錯点を捉えることが建築家の重要な役割と粟津は考えているが、アトリエ・ワンもまさに、この交錯点を追い続けてきた建築家であると言えるだろう。「メイド・イン・トーキョー」では、例えば高速道路とデパートが交錯している点に着目していたし、「ペット・アーキテクチャー」では、拡張された計画道路とそれに斜めに交差する既存の道路の間にできた三角の小さな敷地や、川の流れと直線的な道路との間の不定形な敷地などを、そこに建つ異様に小さな建物を通して読み取ろうとしている。金沢の町家調査においても、町家の分析を通じて、都市のリズムの交錯を捉えている。アトリエ・ワンは、街に共有された細かい敷地割りや、町家の型を原型として、各個人が建物を変形させる、その変形の仕方にいくつかのパタンが見られることを指摘し、そのパタンを24に分類し、それぞれに名前をつけた。このように変形のヴァリエーションが生まれるのはさまざまな要因(自動車の普及、道路の拡張、火災、法律の改正、建物保存の動きなど)が複雑に絡み合っているためである。こうした都市の異なるリズムが交錯している様子が最もよく現われているのが、金沢の場合、旧町人町のエリアだったわけである。
 ガイドマップを制作するにあたり、調査範囲を決定しなければならない場面があった。結局、旧町人町という範囲に定めたのだが、この決定は単に「面白いから」という直感的な判断で決められたように、その時の私には思われた。だが、この判断はよかったと今では理解できる。その場面がこのプロジェクトにおいてひとつの重要なポイントであったことは、粟津や川添登の文章を読んでいて気がついた。都市が構造を変身(「新陳代謝」でなく、「メタモルフォーゼ」)させるポイントは、異なるリズムを持った波の交錯点にあり、そのポイントを、その時と場所を逃さずに的確に捉えることが重要なのだ。粟津の重要性は、そのことをしっかりと理解していたことにあると私は思う。
 完売後、絶版となっていたガイドマップを先日再版した。粟津展と書籍の刊行はもうすぐである。ご期待いただきたい。

荒野のグラフィズム:粟津潔展
会期:2007年11月23日(金・祝)〜2008年3月20日(木・祝)
会場:金沢21世紀美術館
石川県金沢市広坂1-2-1/Tel.076-220-2800

●『アトリエ・ワンと歩く――金沢、町家、新陳代謝』
第2版発行:2007年10月10日
定価:700円
販売場所:金沢21世紀美術館ミュージアムショップ

● 『荒野のグラフィズム:粟津潔』
発行日:2007年11月23日(予定)
発行:フィルムアート社

[わしだ めるろ]
北海道/鎌田享|金沢/鷲田めるろ|香川/植松由佳福岡/山口洋三
ページTOPartscapeTOP