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学芸員レポート
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没後50年  内田巌 ―猪熊弦一郎・小磯良平とともに―
倉敷/大原美術館 柳沢秀行
 岡山県北でも、すでに鳥取県との県境に近い中国山地の山間の街、新見市で内田巌のこれまで最大規模の回顧展が開催された。内田巌
 内田巌と言えば、第二次大戦直後に結成された美術家達の連携組織である日本美術会の初代書記を務めるなど、戦時下の美術界のあり方を糾弾し、その後のそのあるべき姿についての様々な激しい議論や模索の中枢にあった存在。その立場ゆえ藤田嗣治の戦争責任追及の矢面に立ったことや、また作品も東宝砧撮影所での労働争議を主題とした《歌声よ起これ(文化を守る人々)》(1948年作 東京国立近代美術館蔵)といった、当時の左翼陣営の典型的なスタイルでイメージされることが多い。
 逆に言えば、1953年に亡くなるまでの戦後の数年だけで強いイメージが形成されてしまい、その影に隠れて様々な実態のディテールが見えにくくなってしまった画家とも言える。
 思いつくままに、内田の生涯におけるいくつかのトピックスを挙げてみても、まずは明治の評論家、随想家内田魯庵の長男として生まれたこと、1921年に東京美術学校へ入学し1920年代の様々な西欧からの美術思潮の流入の中で学生期を送ったこと、1925年に帰国直後の前田寛治と出会い強い影響を受けたこと、1936年いわゆる松田改組による動乱から猪熊弦一郎、小磯良平、脇田和らとともに新制作派協会を旗揚げしたことなど。まさに1920年代から1950年代に至る日本の美術界の動向と深く切り結んだ存在なのである。
 しかしながら戦後の内田が取った政治的な立場もあり、その作品をまとめて展観する機会も、また出版物を通じての紹介も必ずしも進んでこなかったのが実情である。
 私も、わずかに風間道太郎が1963年に著した『憂鬱な風景 人間画家・内田巌の生涯』(影書房)に頼る程度で、特に、その作品をまとめてみる機会を得ることがなかった。 
 もっとも内田が妻の郷里である岡山県北の刑部町(現在の大佐町)に疎開して、やはり近在の勝山町に疎開中の谷崎潤一郎の肖像を描き残し、その勝山出身で疎開中の難波香久三や、新見市在住で1920年代から創作版画運動に携わった段塚魚郎、そしてその創作版画運動の主導者で津山市に疎開していた小野忠重と交流を持ったことを断片的には聞き知っており、昭和戦中期における岡山県北中国山地周辺の美術家ネットワークには、いささかながら関心をいだいていた。それゆえ1992年に、開館から間もない新見美術館において開催された『内田巌展−奥備中・新見・大佐時代』において、疎開先周辺に残されていた、思わぬ数の作品に驚き、また当時の同館館長逸見芳春氏が伝える地元での動向を興味深く拝見していた。
 そして、100点あまりの作品(展覧会への出品総数は117点。適宜展示替が行なわれる)が公開される今回の企画となったのだが、作品たちは実に雄弁に様々なことを語ってくれた。
 思った以上に美術館への収蔵作品数が多いのが意外であったが、ほとんどの作品が保存状態もよく、それだけに画家の材料への理解と、残された作品への所蔵者の愛情が感じられた。
 まず生涯を通じて、風景画の小品にはそう大きな変化がなく、タッチの表現力を生かした良質なものばかりで、この画家の本領を示した見ごたえのあるものであった。
 1920年代後半から、1930〜32年の渡仏を挟み、新制作協会旗揚げの頃までは、まさに時代の空気をぞんぶんに吸った画業の変遷であり、特に折々の色には、前田寛治から新制作派協会に集う友人たちとの共通の特徴がよく現われていた。
 興味深かったのは、人物像のポーズ。
 1920年代前半のパリに学んだ前田寛治の場合、豊かな体躯の女性がしっかりと腰を下ろした姿を、その上半身だけをやや斜めから捉える場合が大半。またその体躯は腰から頭部までほぼ直線を描き、せいぜい小首を傾げる程度の身振りである。そして、それは前田のみならず、同じようにピカソやドランなどの新古典主義に感化を受けた、中山巍や児島善三郎にも共通のものであった。
一方、渡仏時以来の内田は、同じく腰をおろした人物ではあるが、頭頂から足先まで全身を描くことが多く、それも体の中心線が大きく傾き、手も様々な組み方をした動きのあるポーズがほとんどである。この違いが何に起因するかは、ただちには明らかにし得ないが、小磯良平が典型的に示すような、動きのある人物をスナップショット的にその一瞬を捉えたポーズが、早くも内田の画面で1930 年代初頭に準備されていたことは新しい発見であったし、おそらくそれは他の同世代の画家をそのつもりで見れば、もっと多くの同じような例を見出すことが出来るのだろうと言う見通しをもった。
 またこのことは1930年代半ばからの群像表現の流行にも関わりを持つ。
 1920年代パリでの、新古典主義の動向の中で群像表現が盛んに行なわれ、それが中野和高や、槐樹社に集った熊沢美彦、斉藤与里、牧野虎雄などによって日本国内でも盛んに取りあげられることとなる。やがてそこで蓄えられた画面構成力が戦争記録画へと援用されるわけだが、その前段階として、1930年代後半に小磯や猪熊、あるいは伊勢正義や大沢昌助がそれぞれ異なるタイプの群像表現を試みており、内田にもそうした作例を見出すことができた。
 もちろん、そうした群像作品の画面に描かれた一人一人は、それに先立つ時期に描き取られた人物達のパッチワークでもあり、実は群像表現の成立のためには、人物を量感ではなく、動勢の一面の中に捉えての描写のレッスンが大きく役立っていることを確認できた。
 このように、なによりも作品たちがまとまって提示されたことにより、新たな確認や発見も多く、そして内田巌という作家の存在が大きくイメージを変えて立ち現われることとなった。
 もっともここまではその履歴からすれば、ある程度察しのつくことではあったが、さらに内田の新たな一面を示したのが、1924年から翌年にかけて、夫人となる静子に宛てた葉書に描かれた絵である。会場にはその全ては展示されていなかったが、図録『内田巌 青春譜 巌から静子へのラブレター』(2004年刊)には、その多くの図版が収められている。
 この時、内田は東京美術学校の学生。
 時代はと見渡せば、デルスニスやヴィルドラックなどがフランスから実作を招来することで、ピカソなど同時代の新傾向の作品を目の当たりにすることが可能となり、あるいは村山知義などが今日では大正期新興美術運動と称される前衛的な活動を活発化させていた。
 この静子宛の葉書を見ると、そこにはピカソのキュビスムやローランサンのスタイルが満ち満ちている。
 形態や陰影の幾何学的な処理、片ぼかし、造形要素としての文字の使用。これらが手馴れた筆致で用いられたうえ、文面を見ると「飛んだ甘いド(デ)ュフィが出来た」「少しマチスにしてはセンチメンタルだが」「ローランサンをおくる」「時代後れのブラックのキュービスト的心理」といった言葉が次々と飛び出してきて、内田のアンテナ感度と、当時の日本の状況がうかがえる。さらに葉書の中には、再現描写を完全に離れ、色面構成のなかに新聞や雑誌の活字がコラージュされたものもあり、そうした作品について「どうやら三科アンデパンダンの風下にあたりそう」と村山知義らによる当時の国内最前衛の動向に言い及んでもおり、展覧会図録所収の年譜には実際に三科出品という記述もある。
 村山たちの活動が美術界で孤立したものではなく、東京美術学校の学生にも十分な認知をなされていたことがうかがえ、またそしてこうした関心をもった青年画学生が前田寛治と出会い、強い感化を受けるにいたった内的心理の推移も関心を引く。
 このように作品たちが姿を現したことにより、いくつもの興味深いトピックスも浮上するが、同時にこの展覧会図録には、内田の既存のイメージを作り上げてきた象徴的なシーンである、藤田嗣治への戦争責任ゆえの活動の自粛勧告のドキュメントに対して、笹木繁男らの最新研究成果を取り入れ、その真偽にまで踏み込みつつ、内田の存在を再検討する藤田一人のテキストが掲載される。いわばこの藤田の論考は、内田の既存のイメージを内側から食い破るようなものだが、この他にも図録には、開催館学芸員から新見美術館の藤井茂樹が生涯の手際良い内田の生涯の通覧、神戸市立小磯記念美術館の廣田生馬が、新制作派協会を焦点にした論を寄せ、また前出の逸見氏が疎開先での内田のありようを伝えており、目配りのきいたバランスよい論文集ともなっている。そのうえ、現在では所在が確認できない作品の写真図版もまとめて掲載されており、この展示と図録によって、内田巌の今後の研究の本格的な礎が築かれたと言ってもよいだろう。
 近年、近代日本を対象とした展覧会で見るべきものが極めて減ったと思っていた矢先、岡山でも山深い街の小さな美術館が手がけた展覧会に、展覧会の意義というものを改めて教えられ、本当に満足させてもらった。
 さすがにこちらにまで足を運べる方も少ないだろうから、ぜひ次なる神戸で実見していただきたい。
会期と内容
●新見美術館
会期:2004年7月24日(火)〜9月26日(日)
休館:毎週月曜日
会場:新見美術館 岡山県新見市西方361番地
URL:http://www.city.niimi.okayama.jp/art/
Tel. 0867-72-7851
●神戸市立小磯記念美術館
会期:2004年10月2日(土)〜11月28日(日)
休館:毎週月曜日(月曜日が祝休日の時はその翌日)
会場:神戸市立小磯記念美術館 神戸市東灘区向洋町中5丁目7
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/koiso_museum/
Tel.078-857-5880
学芸員レポート
 実は、丸亀での、やなぎみわ展にも立ち去りがたい感動を受けた。
 そう、やなぎみわ展で感動したのだ。
 でも、前号で尊敬する毛利さんが書かれるべきことは簡潔に全て書かれていたので、私がだらだらと何かを書くのはやめた。

 大原美術館では、眞板雅文さんを招き周辺の街を挙げての『倉敷花七夕祭り』を皮切りに、8月の下旬には『工芸館・藤本由紀夫・大原美術館』(河井寛次郎の器に花を活け、人形をこしらえてしまった!)に、1000人以上が立ち会う日本の美術館最大の教育普及企画『チルドレンズ・アート・ミュージアム』、そして新潟県立万代島美術館での大原美術館展、そして現在、VOCA展の10年分の受賞作品を全公開する『VOCA 1994−2003 10年の受賞作品展』を開催中。
 10月11日(月・祝)には歴代VOCA賞受賞者8名に、酒井忠康、建畠晢、本江邦夫の選考委員が集い、高階秀爾館長が司会となってのシンポジウムも開催される。
そう、おそろしく忙しいのだ。
[やなぎさわ ひでゆき]
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