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ヴェネツィア・ビエンナーレ2005 レポート
村田真
ウケねらいのタワケた作品
ジャルディーニ会場入口
ジャルディーニ会場入口
ジャルディーニ会場入口
 いつになくタワケた作品が多いなあ、というのが今年のヴェネツィア・ビエンナーレの第一印象だ。タワケた作品とは、ウケをねらったり笑いをとろうとする作品のことであり、永続的な感動より、センセーショナルな刺激や一瞬の快楽に賭ける態度のことだ。そのような作品の登場はいまに始まったことではないのだが、とくに今回、筆者が最初にまわったジャルディーニの国別展示においていくつか目についた。
 たとえばロシア館。地階では、雪のなか赤い服を着た4人の男女の静止画像が映されている。入口のセンサーによって観客が出入りするたびに4人の画像が徐々に近づいてくる仕掛けだ。どんどん近づいてきて最後はどのようなオチになるのかと思ったら、全員ガチョーンて感じでズッコケてゲームオーバー。ただそれだけなのだ。あとは再び近づいてきてはズッコケるという繰り返し。
 上階は暗い通路状になっていて、両側にうがたれたダクトから風が流れてくる。風に誘われてつきあたりの部屋まで行くと、もっと大きなダクトがあって大量の風が吹いてくる。この時期のヴェネツィアはとても暑いので気持ちがいい。が、ただそれだけ。観客はみんな思考停止状態で涼んでいる。
 前者は4人のグループによる《逃げるには遠すぎる》、後者はふたりのユニットによる《バカ風》という作品。どちらもなにか政治的な比喩とか社会風刺の意図があるのかもしれないが、あってもなくても作品がバカバカしいことに変わりはない。
 しかしバカバカしさで金獅子賞ものだったのは、なんといってもドイツ館だ。パビリオンに観客が入るたびに、3人の監視のおじちゃんとおばちゃんが「コンテンポラリ〜、コンテンポラリ〜」と歌って踊ってはやしたてるのだ。初めはなにが起きているのかつかめず当惑するけれど、やがてあまりのバカバカしさに笑うしかなくなる。これはティノ・セーガルという、いつも人を使うアーティストの作品。
 もともと国際展というのは、世界中から数百点もの作品を集めて並べ、数千数万人もの客が押し寄せる一種のお祭り騒ぎ。1点1点ゆっくり時間をかけて鑑賞するような雰囲気ではないのだ。いきおい「目立てば勝ち」みたいな風潮も生まれてくる。
 今回15人ものアーティストを送り出した韓国は、まさにお祭り騒ぎ。ひとりひとりのアーティストの紹介や、一つひとつの作品鑑賞を犠牲にして、韓国館全体の「目立ち勝ち」をめざしたのかもしれない。屋上や野外にも展示し、にぎやかなことこのうえない。
韓国館、外観
屋上(左上)、屋外(左下)、テラス(右上)と、パビリオンの内外を使った韓国館
Choi Jeong Hwa

逆に印象に残った日本館の石内都
 さて、はからずもこのロシア、ドイツ、韓国の3館に包囲された日本館はどうだったのか。今年の日本代表は石内都で、その作品は亡母の遺した下着や化粧品、毛のついたブラシなど身のまわりの日用品を撮った写真。カラーや映像作品も交えて淡々と見せていて、外部のお祭り騒ぎとは一線を画す凛とした雰囲気が漂っていた。欲をいえば、たとえばモノクロ写真に絞るとか、さらにシンプルに切りつめればいっそう周囲の喧噪との対照が際立ち、逆にもっと目立ったのではないかと思うのだが。
 ほかのパビリオンもいくつかのぞいてみよう。アメリカ館はエド・ルシェ、イギリス館はギルバート&ジョージ、フランス館はアネット・メッサジエと、それぞれ巨匠クラスをひとりずつそろえた。
 エド・ルシェは記号的な風景にアルファベットを盛り込んだ作品で、ちっともおもしろくないけれど、国別展示ではおそらく唯一の絵画。ギルバート&ジョージは例の組み写真のシリーズだが、過激な内容と効果的な照明で印象的だった。ただし、どちらもそれほど話題にならなかったのは、作品が平面で、ウケや笑いをねらわなかったからではなく、作者が男だったせいかもしれない。
Annette Messager France
Hans Schabus
Annette Messager(フランス館)
Hans Schabus(オーストリア館)
 一方、女性作家のアネット・メッサジエは、フランス館に「CASINO」のネオンを掲げ、館内を暗くして床にはわせた幕を風でなびかせたり、ぬいぐるみを入れたネットをポーンとはじいてみせるなど、妖しげな世界を築いていた。そのシアトリカルな演出が功を奏してか、フランス館は国別の賞を受賞。これは納得。
 しかし、今回の国別展示で筆者がもっとも感心したのはオーストリア館だ。とにかくすごい、ひと目見てアゼンとした。オーストリア館は四角いモダンなパビリオンなのだが、その四隅を残してハリボテの山でおおってしまったのだ。裏にまわって館内に入ると内部は材木が張り巡らされ、迷路状に組まれた足場や階段をたどっていくと、てっぺんまで昇れるようになっている。てっぺんにはひとりだけ顔を出せる窓がついていて、周囲を睥睨できる仕掛け。アーティストはハンス・シャブス。
 これもタワケ、ウケねらいといえばいえなくはないけれど(実際ぼくにはバカウケした)、でもウケねらいだけでこんなテマヒマかけた壮大なプロジェクトができるか?
 これはパビリオンそのものを素材にしつつその空間的限界を超えた作品であり、同時に、高い塔のないジャルディーニに対して新しい視野を提供してくれる装置でもあるのだ。
Autoni Muntadas(スペイン館)
Shahryar Nashat(スイス館)
上左から:
Antoni Muntadas(スペイン館)
Shahryar Nashat(スイス館)
上右から:
Honoré d'O(ベルギー館)
Guy Ben-Ner(イスラエル館)
Honorx d'O(ベルギー館)
Guy Ben-Ner(イスラエル館)

「アートの経験」vs「つねに少し先へ」
ジェスティニアン・ロリン宮
サンタ・ルチア駅前
ヴェネツィア市内の展示会場
ジェスティニアン・ロリン宮
サンタ・ルチア駅前
 ジャルディーニの国別パビリオンは計30館ある。うち20館はヨーロッパで、5館は南北アメリカに偏っている。館数は微増しているが、韓国館ができてからここ10年間は変わらない。たとえば、中国がないし、インドもない。なぜかウルグアイとベネズエラはあるのに、アルゼンチンやメキシコはない。アラブおよびアフリカ勢はエジプトを除けば全滅だ。
 このようにパビリオンはないものの、参加する意志のある国はヴェネツィア市内の建物を借りて展示することになる。今回参加した国はジャルディーニを含めて総数70カ国。しかし迷路のように入り組んだヴェネツィアですべてを探し当てるのは不可能に近い。
 またそれとは別に企画展示がふたつあり、ジャルディーニのイタリア館の内外と、アルセナーレと呼ばれる造船所跡で開催されている。妙なことに、ふたつとも今回ディレクターを務めるのはスペインの女性キュレーターなのだ。ジャルディーニのほうはマリア・デ・コラール、アルセナーレのほうはロサ・マルティネス。そのため、どちらもスペイン、ポルトガル、中南米のアーティストが多い。
 しかし違いも大きい。マリア・デ・コラールの掲げたテーマは「アートの経験」、ロサ・マルティネスのほうは「つねに少し先へ」というもの。こういう大規模な展覧会ではテーマなどあってないようなものだが、このふたつの場合そのまま受け取ってもかまわないようだ。
 「アートの経験」のほうは、フランシス・ベーコン、アントニ・タピエス、アグネス・マーティンといった巨匠クラスの絵画から、トーマス・シュッテやレイチェル・ホワイトリードらの彫刻、バーバラ・クリューガーやジェニー・ホルツァーら言葉を使う作品まで、比較的評価の定まったアーティストによる安定した作品が多い。つまり「アートの経験」が蓄積されているのだ。個人的にはベルナルド・フリーゼによる絹の糸のような筆触の絵画がすばらしかった。
Barbara Kruger Miroslaw Balka
Dan Graham Maider Lxpez
Joxo Louro Perejaume
ジャルディーニでの企画展出展作品
左上から:
Barbara Kruger
Dan Graham
João Louro
右上から:
Miroslaw Balka
Maider López
Perejaume

Guerrilla Girls Joana Vasconcelos
左:Guerrilla Girls
右:Joana Vasconcelos
 それに対して「つねに少し先へ」のほうは、会場に入ったとたんゲリラ・ガールズによる男性中心主義を批判するポスターが目に飛び込み、ホアナ・バスコンセロスによる14000個のタンポンをつなげた巨大なシャンデリアが出迎えてくれる。そのあとも、体毛をそって真っ裸でヴェネツィアの街を闊歩するレジナ・ホセ・ガリンドや、世界中の街で群集の動きに抗って背を向け続けるキム・スージャの映像といったように、挑発的・攻撃的で、フェミニズムむき出しの作品が多いのだ。
 ちなみに森万里子はここに真珠色に輝くUFOみたいな巨大カプセルを出品し、観客のドキモを抜いた。ここまでやればタワケを突き抜けてもはやアッチの世界。たしかに彼女は「つねにかなり先へ」イッている。
Regina Josx Galindo Mariko Mori
Paloma Varga Weisz Blue Noses
Louise Bourgeois Loura Belxm
アルセナーレでの企画展、出展作家作品
左上から:
Regina José Galindo
Paloma Varga Weisz
Louise Bourgeois
右上から:
Mariko Mori
Blue Noses
Loura Belém

中村敬治さんならどう見たか?
 最後に蛇足。
 今回ビエンナーレ会場を歩きながら、3月に亡くなった美術評論家の中村敬治さんのことを思い出していた。中村さんだったらどう見ただろう、と。
 別にぼくは中村さんととくに親しかったわけではないし、師事したこともない。展覧会場でしばしば顔をあわせ、言葉を交わす程度だった。にもかかわらず中村さんのことを思い出したのは、亡くなる1カ月ほど前に開かれたヴェネツィア・ビエンナーレの記者発表の席にいらしたからだ。昨年末から深刻な病状は聞いていたのだが、記者発表のときはもうすでにげっそりとやせられ、顔も土色をされて、声をかけるのもはばかられるほどだった。
 おそらくそのときはもう2度とヴェネツィアの土を踏めないだろう、いや、ビエンナーレが始まるまでもたないかもしれないと覚悟されていたのではないか。にもかかわらず、中村さんはなぜ記者発表に出てこられたのか。いったい、行くあてのないビエンナーレの記者発表に出てどうされるつもりだったのか?
 執念、ではないだろう。知的でダンディな中村さんには執念など似合わない。中村さんはおそらく歩けなくなるまでいつもと同じように出かけられ、その日常のひとコマに記者発表があったというだけなのだろう。そしてビエンナーレが始まるはるか手前でその日常が途切れたのだ。だからといってぼくは別に中村さんの代わりに見てやろうと思ったわけではなく、ただ、中村さんだったらどう見ただろうと気になったのだ。
 中村さんはけっこうタワケたものが嫌いではなかったと思う。ただし、気が狂うほどタワケたものでなければならなかったはずだ。そんな中村さんのお眼鏡にかなう作品がはたしてあっただろうか。
[ むらた まこと ]
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