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マシュー・バーニー──拘束のドローイング展
前田恭二
 金沢21世紀美術館を訪ねたのは、昨年10月の開館以来のこと。館内に入ると、石川県いけ花文化協会の「総合花展 金沢展」が開かれていた。金沢市内の小中学生を無料招待するなど、開かれた美術館たろうと努めてきたと聞いていたが、なるほど妹島和世・西沢立衛設計の“空飛ぶ円盤”は地元に着陸しているようだった。けれど遠路足を運んだのは、それが目当てではなく、「マシュー・バーニー展」を見ようと思ったからである。1990年代のアートシーンに登場したスターの本格的な個展であり、最初期の1987年から続くシリーズ「拘束のドローイング」(Drawing Restraints=DR)の新作「DR9」がここ金沢の地で初公開されるという。2002年、壮大な映像作品「クレマスター」5部作が完結した際は、日本でもそれなりにブームのような感じにもなったのだが、試写会の記憶をたどると、あちこちで静かな寝息が聞こえていたのも事実。それもやむを得ないことで、これまで国内でバーニーの作品を見られる機会は少なかった。DRシリーズも、個人的には偶然ニューヨークで「DR7」を見ていただけで、あとは図版で知る程度。「クレマスター」の不思議さ加減を思い返しても、正直わかるのかな、おれ……という不安感を抱いていたことを打ち明けておこう。

DRシリーズを支える錬金術的論理展開
Drawing Restraint 9
Drawing Restraint 9
Drawing Restraint 9
映像作品「Drawing Restraint 9」
Matthew Barney
Drawing Restraint 9
2005
Production Photograph
Copyright2005 Matthew Barney
Photo: Chris Winget
Courtesy Gladstone Gallery, New York
 その意味では、今回の展覧会はDRシリーズを回顧するパートをちゃんと組み込んでいて、参考になる。よほどのバーニー通でなければ、まずは「DR1」から「DR6」を紹介したパートをじっくり見ておくのが得策だろう。ゴムバンドに体を引っ張られ、苦心惨憺しながら壁にドローイングを描く、といった行為を記録した映像、そこで使用された道具などで構成した作品が出品されている。おおまかに言えば「拘束のドローイング」というタイトルの通り、身体/精神に負荷をかけ、鍛錬する試みということになる。映像やインスタレーションとともに、構想メモ風の「ハイパートロフィー(異常肥大)に関する記述」(1990)も見逃せない。一読、理解できたという人は少ないと思われる、謎めいた言葉が記される。そこにはしかし、“the athlete is the alchemist”、“ the athlete is the artist”、“the artist is the athlete”といった命題が読まれる。アスリート=錬金術師=アーティスト。しばしば紹介される通り、バーニーはかつて医学生であり、アメフト選手でもあった。アスリート=アーティストだというのはすんなり理解できるようにも思える。ただし、アートの身体性といった話とは別種の発想と言うべきだろう。身体を別個の領域としたうえで、そこから幾分かの要素を借り受けてくるといった考え方でなく、身体と精神は直接的に重ね合わされる。あるいは相互に照応するものとしてとらえられる。アスリート/アーティスト=錬金術師という命題は、身体/精神を変容させる秘儀を知る者という等号で結ばれているはずだが、同時に、身体や精神を照応関係のもとにとらえ、変容させようとする発想それ自体もすぐれて錬金術的と言ってよい。

 このメモにはさらに、同様の発想に基づき、以降も彼の発想を貫くことになる考え方が姿を見せている。例えばsituation / condition / productionをめぐる命題。シチュエーションは欲望や刺激といった所与のもの、コンディションはその消化や鍛錬、プロダクションはその結果としての生産物を指すようだが、ここでもアートの制作という精神面、食物の消化や筋肉の鍛錬といった身体面が照応関係のもとに重ね合わされる。しかも、このプロセスは反復可能で、なおかつ可逆的なものとして示されている。鉄が金になるのと同様、金は鉄になり得る。融通無碍とも言えるが、しかし、曖昧模糊としているわけではけっしてない。かなり奇妙だとはいえ、ひとつのロジックとして受け取るべきだろう。その論理下では、万物は照応しあい、変容を遂げる。それは上昇であると同時に下降でもあり得る。バーニーの仕事は知性、身体両面でのエリートがかくも変態的な格好をするものかともしばしば思わせるけれど、恥辱的な行為が同時に崇高さを帯びることにもなる。ともあれ、こうした錬金術的な論理が駆動する形で、DRシリーズは進展してきたようなのである。

 もう少しだけ続けておこう。独特の思考は「フィールド・エンブレム」という紋章の形でも表象される。作品ごとに変奏されているのだが、小判の形みたいな楕円形=フィールドに、横棒=バーを渡した形が基本形になる。ざっくり図式化すれば、円環と直線を組み合わせた紋章だと言うこともできよう。どうやら円環が精神/身体の場、直線が拘束を象徴しているようだが、そういう目で見ると、円環や直線といった要素はDRシリーズの初期作にもけっこう出てくる。とりわけ顕著なのは、ドローイングを描く際、身体を引っ張るゴムバンドがぴんと張り、直線をなすこと。その直線はまさしく身体を拘束している。バーベルを持ち上げようとする「DR3」でも、バーベルの棒=バーが負荷、拘束を象徴する。その逆にトランポリンで飛び跳ねながら、天井にドローイングを描く「DR6」ではトランポリンが円形をしており、ジャンプする彼の身体が垂直線を描き出す。円環と直線を止揚する図像は螺旋ということになるが、ギリシャ神話に登場する半獣半神のサテュロスに扮した「DR7」において、その角は螺旋形をなし、3つの映像モニターのひとつでは子供のサテュロスが自らの尾を追って、旋回運動を続けている――。こうした“DRシリーズの図像学”がどのくらい有効であるのか、バーニー通ではない身には判然としないけれど、彼の視覚イメージに潜む円環や直線、螺旋形といった図像的要素はある程度、気にかけてよいことのようにも思われる。

ストーリーのなかの対立項/エンブレムの崩壊
マシュー・バーニー
マシュー・バーニー
Copyright Chris Winget
 さて、こうした思考のもと続けられてきたDRシリーズだが、新作「DR9」は目下の到達点ということになる。2時間半におよぶ映像作品と、それと直接に関係するインスタレーションが幾つもの展示室を使って繰り広げられている。シリーズはすでにサテュロスが登場する「DR7」において神話的、物語的な要素を取り込んでいたわけだが、その規模は「クレマスター」5部作を挟む形で、けたはずれにブローアップしている。映像のストーリーは容易に説明しがたい。おおまかに言えば、こんな感じだろうか。日本の捕鯨船にバーニーとそのパートナーであるビヨーク扮する「西洋の客人」が乗り込む。そこでは「フィールド・エンブレム」をかたどるワセリン彫刻が制作されている。2人は毛皮の婚礼衣装をまとい、船内での奇妙な茶会に臨む。やがて2人は互いの身体的な変化を認め、愛し合う。同時にフィールド・エンブレムは崩壊を始め、茶室に流れ込むワセリンのなかで、2人は互いの足を切断する――ミステリー映画ではないが、詳しい内容を明かすのは差し控えたいところ。ただし「DR9」のエンブレムについて言えば、楕円形のフィールドに「host」と記され、鯨が描かれる。対する直線=バーには「GUEST」の文字がある。つまりは客人が鯨になる物語だということだけは記しておくことにしよう。

 いかにも奇妙なストーリーのなかで、さしあたり気づかれることは、幾つもの概念やイメージの対が組み込まれていること。例えば捕鯨船と西洋の客人、茶室における主人と客といった主客の関係をはじめ、日本と西洋、男性と女性、人間と動物、人工と自然といった対立項を見て取ることができる。それらはすでに触れたような万物照応の相のもとに置かれてもいて、それらを象徴する図像として「フィールド・エンブレム」が存在する。しかしながら、鯨を解体する捕鯨船上で、人間であるという身体的な拘束からの解放が進む過程で、それらの対立項は溶融していく。ワセリン彫刻によるエンブレムもまた最終的に崩壊する。その崩壊は同時に、男女の愛や鯨への変身を通じて、新生のイメージに転化されていくのだが、これまでのロジックを図像化したエンブレムが今回、崩壊を遂げたことは素朴に重いと見てよいのではないだろうか。また、これまでは拘束を精神/身体の動因としてきたのに対して、様々な概念的な枠組みを作る、仕切りというか、何か拘束の要素を溶融させるような形で変容がもたらされていることもまた新しい要素のように思われる。

 どう解釈すべきか、いささかならず手に余るというのが正直なところ。これから多くの論評がなされるはずだが、こんなことも考えていたのかな、と思うことをひとつだけ。管見の限り、本人のインタヴューにも美術館側の資料にも出てこないけれど、捕鯨というモチーフを思いついた際、バーニーはアメリカの国民文学「白鯨」を再読しているのではないだろうか。少なくとも、「白鯨」は「DR9」の参照項となり得るように思う。知られる通り、エイハブ船長率いる捕鯨船ピークオッド号はまさに日本の沖合を経て、太平洋上におけるモビー・ディックとの戦いの末に沈没する。その航海はさしあたり、エイハブ=人間の死に帰着する鯨=自然との闘争を象徴していると言えそうだが、日本から船出し、人間が鯨に転生する「DR9」は「白鯨」の航海を部分的になぞりながら、奇妙なやり方ですっかり組み替えてしまおうとしているかのようにも映る。「白鯨」におけるエイハブは鯨骨製の義足を持つが、鯨の身体に銛=バーを突き刺すというオブセッションにとらわれている。対する「DR9」のエンブレムにおいても一見、フィールド(鯨、ホスト)はバー(ゲスト)に貫かれているかのように配されている。けれども西洋の客人が鯨に変容する通り、バーはフィールドと融合し、この両者によって形作られるエンブレムは崩壊する。その崩壊した形を、バーニーは白いプラスティックで型取りし、この円形にデザインされた美術館の中心に位置する円形の展示室に配している。その白さが漂わせる感情は「白鯨」42章でメルヴィルが語った白の魅惑と恐怖と極めてよく合致するようにも思われるのだが、ともあれストーリーの多様な要素は、円環に帰結する形でフィナーレを迎える。

シリーズの節目としての「DR9」
拘束のドローイング9
拘束のドローイング11
会場風景
上:「拘束のドローイング9:ホログラフィック・エントリーポイント」
2005年
下:「拘束のドローイング11」2005年
写真提供=金沢21世紀美術館
 それはすなわち、円環と直線で構成されるエンブレムのもとで展開してきたDRシリーズの大団円を意味しているのだろうか。答えは実は簡単で、本展にはさらなるDRシリーズの新作として、「DR10」、「DR11」が制作されている。とりわけ前者はトランポリンで飛び跳ねながらドローイングを描く「DR6」を反復するような作品であり、何やら仕切り直し、といった印象を与える。結局のところ、シリーズは継続されているということになるが、少なくとも「DR9」が大きな結節点として位置づけられることは間違いないだろう。作品それ自体もむろん強烈な印象を与える。バーニーの映像作品は、その緩慢な進み行きを特徴とする。「DR9」でも序盤、やや退屈な感じがするのだが、バーニーとビヨーク演じる2人の変容が始まるあたりから、その緩慢さが一挙に執拗な力に転じる。身体の切断シーンに至っては、もういい加減やめてくれよとお願いしたくなるほどで、気の弱い人にはお勧めできないけれど、そうした局面に立ち至るまでに独特の論理が輻輳し、ブローアップしていることは紛れもなく伝わってくる。まったく異形の思考の流れがそのまま、こちらの脳に途方もない勢いで流れ込んでくるようで、エンディングに至り、しばし呆然とさせられた。バーニーの創造力のほどは十分に実感できるし、手前の話ではあるが、世界のアートサーキットを走るトップアーティストがかくも本格的な形で取り組んだ個展を日本で見る機会は、きわめてまれだということも言い添えておこう。

 あれこれ記してきたのはなぜか依頼があったからというだけのことで、なるほど分かった、というレベルまで整理できているわけでは恐縮ながらない。にもかかわらず、長々と書いてきてしまったので、最後は雑感めいた話題に立ち戻ろう。「DR9」は様々な日本文化を引用している。だから日本人としては、おいおい阿波踊りかよ、とか、こんな茶室がありかよ、といったツッコミどころは満載だと言ってよい。毛皮の婚礼衣装を着けたバーニーとビヨークは背中に大きな貝を背負っており、それを茶室のにじり口でコツンとぶつけてしまう場面ではプッと笑ってしまったりもする。インスタレーションでは、竜涎香と称する巨大な彫刻作品のエビ臭さが忘れがたいスーヴェニールとなることだろう。ただし、竜涎香は鯨の体内の残留物から作られる貴重な香料であり、「馥郁たる不朽の香りをはなつ竜涎香が腐敗と汚辱のもなかに見いだされるということは、意味のないことであろうか」というメルヴィルの問いかけの通り、奇妙極まりない「DR9」をはじめとする作品が同様の両義的なサイクル=円環のうちにあることもまた、確かに感得されるのである。
[ まえだ きょうじ・読売新聞文化部 ]
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