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アートは展覧会の夢を見るか
──横浜トリエンナーレ2005を見て
村田真
日常の延長上のプロジェクト
ダニエル・ビュランのインスタレーション
会場までのプロムナードの風景
ダニエル・ビュランのインスタレーション
 山下公園の入口から埠頭の突端まで約700メートルのプロムナードを、右に保税区域の倉庫群、左に海をながめながら歩いていく。ダニエル・ビュランによる紅白旗と斜めに傾けた支柱のかたちづくるパースペクティヴの消失点に向かって、吸い込まれていきそうだ。海の彼方の異界へと誘うのか。それとも、海の彼方から訪れるマレビトを迎え入れようとしているのか。いずれにせよこのロケーション、さまざまな悪条件を差し引いても、海外(異界?)からアーティスト(マレビト?)を招く国際展の会場としては意外に悪くない、というより、絶好のロケーションかもしれないと思い直した。
 しかし、行きつく先には異界が開けているわけでも、マレビトに会えるわけでもなかった。どころか、美術館ほどの非日常性にも欠ける2棟の無愛想な倉庫が突っ立っているだけ。もちろんそんなところで絵画や彫刻の展示を期待してはいけない。ていうか、総合ディレクターが川俣正だから、だれもそんなものハナから期待していないが。かといって近年どこの国際展でも多数派を占める写真や映像もそれほど多くない。
 ではなにがあるのかというと、素材もアイディアも日常の延長上にころがっているようなアートプロジェクトの類だ。この「プロジェクト」ってやつがわかりにくい。だいたい「オープンサークル」とか「ロングマーチ」とか「エスタシオ」とかいわれても、それがアーティスト(グループ?個人?)名なのか、作品名なのか、それともプロジェクト名なのかもわからないし、どこの国のものなのかもはっきりしない(もっともこれらのプロジェクトにはさまざまな国の人たちが関わるので、国籍などあってないようなものだし、むしろそのほうが保税区域のこの場所にはふさわしい)。
横浜トリエンナーレ2005会場風景
横浜トリエンナーレ2005会場風景
 ちなみに、「オープンサークル」はインドで設立された反グローバリズムを掲げるアーティスト主導のNPO、「ロングマーチ」は毛沢東の長征を真似て中国各地でアート活動を展開するプロジェクト、「エスタシオ」はスペインの小村にアーティストや建築家を招いてコラボレーションを繰り広げるグループ。その作品がまたわかりにくい。というか、そもそもここに開陳された展示物は「作品」なのだろうか。むしろ彼らのやってきた活動や、これから進むべき方向性のプレゼンテーションというべきではないか。だとすれば鑑賞するよりも、彼らがなにをやろうとしているのかを読み取らなければならない。
 これらはいってみれば「マジメ」なプロジェクトだが、もっとふざけた冗談みたいなプロジェクトもいっぱいある。会場で延々と卓球をするCOUMA、巨大なサッカーボードゲームをつくったKOSUGE1-16+アトリエ・ワン+ヨココム、アートワールドをゲームに見立てたキュレーターマンなどは、いずれも観客が遊びに参加できるプロジェクト。また、「空気」という集団を率いて会期中ずっと制作する堀尾貞治、ぬいぐるみを縫い続ける安部泰輔、観客の似顔絵を描き続ける黒田晃弘といったアーティストもいて、その場で作品の販売もしている。

美術館より敷居は高いか低いか
横浜トリエンナーレ2005会場風景
横浜トリエンナーレ2005会場風景
 そう、ここでは美術館のように作品を静的に鑑賞するのではなく、展示物のなかに入って遊ぶことができるし、また展示物そのもの、展覧会そのものも変化し続けるのだ。にぎやかで祝祭的な「運動態としての展覧会」というわけだ。なるほど、これなら「アート」も少しは身近に感じられるかもしれない。アートは日常と切り離された異界などではないし、アーティストはわれわれと人種の違うマレビトでもない。アートは日常そのもの、とはいわないまでも、日常から少しジャンプすれば届くところにある。それが今回のテーマ「アートサーカス(日常からの跳躍)」の意味するところだろう。
 ならばこの展覧会、敷居が低いかというと実はそうでもない。すでに美術館で絵や彫刻を見ることに慣れてしまっているわれわれにとって、いくら日常の延長上に位置するとはいえ、やはり埠頭の倉庫で繰り広げられる「アートサーカス」はとっつきにくい。「観客参加」にしても、多くの観客は作品と距離をもって静かに鑑賞することを好むもので、いきなり卓球しましょうとか、作者と対話しましょうといわれてもとまどうはず。 美術館はしばしば敷居が高いといわれるが、しかし美術館のようにあらかじめお膳立てされた場所で作品に接するほうが気楽なのだ。むしろ日常的な空間でアートに出会うほうがストレスを感じ、敷居が高く感じられる。
 そのことをはからずも露呈させたのが、桃谷恵理子の《ホームステイ・アート・プロジェクト》だ。桃谷は、パリの自宅にアーティストを招いて個展を開くというプロジェクトを行なっているアーティストだが、今回はその延長で、山下公園の近くのアパートの一室を借りて同様の試みを行なっている。いわば展覧会内展覧会という入れ子構造になっているのだ。
 このようにプライヴェートな住空間で作品を鑑賞するというと、いかにも親密でくつろいだ雰囲気を想像してしまうが、実際はその逆で、見ず知らずの人の家にあがりこんで作品を見るのはかなりの緊張を強いられる。それに比べれば美術館のほうがよっぽど気楽だ。第一、この「作品」にアクセスするには電話で予約しなければならず、筆者が申し込んだときにはすでに予約がいっぱいで断られてしまった
★1。ふつう美術館ではこんなことはありえない。
 さらに致命的なのは、もともと彼女のプロジェクトは自分のプライヴェートな空間を開放する点に大きな意味があったのに、ここでは事務局の経費で部屋を借りて行なっていることだ。「やらせ」とはいわないまでも、フィクションとノンフィクションほどの違いがあり、これでは彼女の持ち味は半減してしまう。
 断っておくが、筆者は桃谷のプロジェクトを批判しているのではない。そうではなく、ここではアートを日常に近づけるという行為、いいかえれば敷居を下げることがどれほど困難なことなのか、そして、その試みが「展覧会」という形式といかに相入れないものなのかを示したかったのだ。その意味で桃谷のプロジェクトは横浜トリエンナーレの縮図といっていい。

「展覧会」という枠を揺さぶる
 ここで再びトリエンナーレ本体に戻ろう。川俣氏は総合ディレクターに就任してから10カ月間ずっと「展覧会」にこだわり、オープニングには2日間にわたって「展覧会とはなにか」と題するシンポジウムを開いた。それは、ひとつの国際展を組織していくなかで「日常」「観客参加」「運動態」といったものをキーワードとしたとき、否応なく「展覧会」という枠に抵触せざるをえなかったからだろう。大文字の「アート」から距離をおいて日常に近づきつつ、それでも「展覧会」という形式を守らなければならないとしたら、その境界線はどこにひかれるのか。そんな問題が浮上したのも、彼自身のアーティストとしての活動がすでに「展覧会」という枠を超えてしまっているからにほかならない(ここで「展覧会」を「アート」に置き換えれば、彼の主張する「アートレス」と重なってくる)。
 川俣氏は7月にBankARTで行なわれた講演で興味深い発言をしている。要約すれば、本当におもしろいアーティストは展覧会に出せるような作品をつくらないので、展覧会には呼べないのだと。これは総合ディレクターとして葛藤に満ちた発言だが、しかしきわめて冷静に展覧会というものの限界を見きわめていることがわかる。
 いま、われわれの前に投げ出された「作品」たちは、日常とアートの境界線上に置かれ、足下を揺さぶられている。どっちに落ちるか、落ちないか。また、揺さぶられることによって「展覧会」という枠組みそのものが崩壊するかもしれないし、逆に強化されるかもしれない。そんなスリリングな緊張感が今回のトリエンナーレをいっそうおもしろいものにしている。

★1──つまり筆者は桃谷のプロジェクトを体験していない。ただし、開催前に会場となるアパートの部屋を訪れて彼女に取材したので概要は理解しているし、体験できなかった理由も含めてこのプロジェクトに言及することはできる。ついでにいえば、トリエンナーレ本体も内覧会の日に2時間ほど見ただけで、未公開作品や見逃した作品も少なからずあったことをお断りしておく。

[ むらた まこと・美術ジャーナリスト ]
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