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横浜トリエンナーレ2005を斜めから見る
市原研太郎
 ようやく2回目のトリエンナーレが横浜港を船出した。それほどまでに待望されていた首都圏での国際展である。開幕まで1年を切って総合ディレクターが交替したことは記憶に生々しいが、それから短期間で、このように大規模な展覧会を仕上げた新ディレクター川俣正の並々ならぬ能力は敬服に値する。なにはともあれ、開催にまで漕ぎつけたことを率直に祝福したい。しかも、現代アートの最前線の断面を見せることに終始した前回と比べて、今回はタイトルにはっきり現われているように自覚的なテーマを掲げている。
 それが、「アートサーカス(日常からの跳躍)」である。「日常からの跳躍」は、確かに「サーカス」と共通する要素を孕んでいる。参加アーティストのひとりダニエル・ビュランは、会場の入り口までストライプの三角旗たなびく長いプロムナードを出現させた。オープニングでは、そのビュランと組んで活動するビュラン・サーカス・エトカンによるパフォーマンスが挙行された。その意味で言えば、アートは現実世界で演じられるサーカスあるいはマジックに類比されてよいのかもしれない。しかし、それはまさに「アートサーカス」であり、物理的制約を乗り越えるショウを売り物にする実物のサーカスと同じではない。それはまた、トリックによって驚かせるマジックとは違って、物理的な仕掛けなしに奇跡を起こすものでなければならないだろう。

「跳躍」すべき方向
 さて今回のトリエンナーレは、どこまでその目的を達成することができたのか。結論から言えば、それは日常から「少しだけ」跳躍することには成功したが、その跳躍は世界記録に届かず、とりあえず日本記録を塗り替えたというところか。日本に比較できる展覧会がほとんどない状況では、これも参考記録にすぎないが。
 問題は、跳躍の大きさに止まらない。もっと根本的な問題として、「日常からの跳躍」の是非を問わなければならない。まず、どこに向かっての跳躍なのか、その方向を明示すべきだったと思う。というより正反対の方向、すなわち日常を含めた現実に向かっての跳躍であるべきではないか。そうでなければ、アートのジャンプは来場者を一時的にリラックスさせ楽しみを提供するだけの非日常的な見世物になるかもしれない。そのとき会場は、少し毛色の変わった遊園地にすぎなくなるだろう。
 そんな危惧を抱きながら会場を見て回ったが、たまたま聴いたレクチャーで、参加グループのひとつフライング・サーカス・プロジェクトのディレクター、オン・ケンセンが語った「社会のなかへ」という言葉が印象に残った。「アートサーカス」の一員が、日常から離脱するのではなく、社会という現実のなかへジャンプすることを力説したのだ。現実を記録することのみを目的に、社会に参入するのではない。アートが社会と結びつくことで、社会に働きかけることが目指されている。またアートのほうも、その反作用で変容を蒙ることを受け入れる。フライング・サーカス・プロジェクトは、10年前から活動をしてきたという。拠点のシンガポールや近隣のアジアでアーティスト・イン・レジデンスやワークショップを行ない、アートを通じて社会つまり民衆との相互交流を図ってきた。その過程で制作された映像やドキュメンタリーなどが、トリエンナーレに展示されている。
ソイ・プロジェクト
ロングマーチ
上:ソイ・プロジェクト《SOI-school》
下:ロングマーチ《ロングマーチ・チャイナタウン・プロジェクト》
 キュレーターのひとり山野真悟が「プロジェクト型アート」と呼ぶこのような方法で、アーティストが属する社会との交流を中心に運動を展開している複数のグループが、トリエンナーレには招待されている。インド(ムンバイ)のオープンサークル、タイ(バンコク)のソイ・プロジェクト、そして中国のロングマーチである。これらのグループは、作品の制作や公開を通して社会とのコミュニケーションを探求し、人々の連帯を模索しているのだ。そのためには、オープンサークルが今回試みているように、コミュニケーションの障害となる無知や偏見を取り除くきめ細かな情報交換が必要とされるだろう。またソイ・プロジェクトのように、人々がコラボレーションしうる快適な環境を創出しなければならないだろう。そしてロングマーチのように、アーティストが社会に直接介入することが条件となるだろう。それでもロングマーチの出展作《チャイナタウン・プロジェクト》を見れば分かるように、チャイナタウンという主題に引きずられて、それが含意するエキゾティックな見方を有効に覆すに至っていない。その道は多難である。

「参加」の意味を考える
キュレーターマン展示作品
キュレーターマン《SUPER(M)ART@YOKOHAMA》
表紙を含むすべての写真=
Photo by 木奥恵三
写真提供:横浜トリエンナーレ組織委員会
 エキゾティシズムをその部分として、アートは現代の様々な文化的影響にさらされている。挙句の果てに、「アートの世界は……もはや瀕死の状態」にあると悲痛な叫びを上げるのは、参加グループのキュレーターマンである。「ART」はそれら諸悪の根源と言うべき資本主義のマーケットに征服されてしまい、「(M)ART」と成り果ててしまった。そこで「ART」の闘志、老ナウィン・ラワンチャイクンが「(M)ART」との戦いに敢然と立ち上がった。その勝負の行方は、モノポリーゲームから想を得た観客参加型のゲームで明らかになる。さあ、勝つのはどちらだ!?
 現代アートの状況を徹底的に揶揄しているキュレーターマンのインスタレーションは、傑作と言ってよいだろう。アートがマーケットに振り回され完全に支配されている事態をパロディ化して批判するこの作品は、間違いなく、今トリエンナーレの白眉である。それが、会場の最奥に鎮座しているのも頷ける。その向こうにあるのは、帰還する者のいない奈落だからだ。このインスタレーションは、今回のトリエンナーレを特徴付けるキーワードのひとつ、「参加」を体現するだけではない。その他のキーワード、「コラボレーション」「場にかかわる」「インターラクション」「運動態」が、最後の瀬戸際で、こぞって作品のなかに流れ込み比類ない力を発揮している。この作品が雄弁に示すように、それらのキーワードをまとめあげる強力な核が必要である。「日常からの跳躍」ではまったく不十分なのだ。しかもその核が、会場の倉庫の広大な物理的空間に執着したり、どのようなものであれ展覧会をとりあえず構築したりするといった次元に留まるなら、いかにうまく組織された「運動態」であっても、それはすぐ消え去るだろう。場とは、歴史的、社会的意味の堆積の受け皿である。「場にかかわる」とき、その重層的な意味を掘り下げないなら、たとえ観客が「参加」してくれたとしても、まさに場違いな振る舞いをさせることになるのではないか。
 「参加」の意味を熟考させるために会場の入り口に飾られた高松次郎の《工事現場の塀の影》は、1971年に制作された作品の再現だが、当時彼の脳裏にあったのは、そこに映る実際の影の主が偽の人影に驚くだけでなく、自己の存在に不安を覚えることではなかったか。「私は、本当に存在しているのか」と。社会は、時としてこのような不安な状況に人々を追いやる。それを撥ね返すのは、そこに生きる人間の強い意志とたゆまぬ努力であり、彼らとともに闘うアーティストの常識に囚われない創意工夫である。
 トリエンナーレが、一時的な逃避やサーカス的な気晴らしの場に終わらぬよう、われわれが積極的に参加し、運動をさらに推し進めなければならない。アートが「参加」を求めるにせよ求めないにせよ、その目指す方向が、われわれが置かれている閉塞状況を打ち破るきっかけを与えるものならば、われわれは自発的にアートとインターラクトしコラボレイトするだろう。そのためにも、トリエンナーレの火を消してはならないのである。

[ いちはら けんたろう・美術評論 ]
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