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資本主義アートへ向かって
市原研太郎
 2007年6月のヨーロッパは、現代アートの「現在」を知るうえで、絶好の環境をもたらした。 ヴェネツィアのビエンナーレ、バーゼルのアートフェア、カッセルのドクメンタ、ミュンスターの彫刻プロジェクトが、 10年に一度というサイクルで一斉に開催されたからではない。 勿論、世界的に有名なこれらのビッグプロジェクトもその要素に含まれるが、 それらの展覧会の近隣、すなわちイタリア、スイス、ドイツといった中央ヨーロッパの各地で、それらにも増して注目される企画展が多数行なわれていたからである。 今回のレポートでは、そのいくつかを取り上げ、そこに出品された作品がもつ意義や傾向を明らかにし、それらが現代アートの「現在」を、どのように形作っているかを素描してみたい。

コレクターによる展覧会
 まず、ヴェネツィアで開かれていた展覧会から始めよう。ビエンナーレが、 ヴェネツィアという舞台の主役であることは言うまでもない。しかし、実は今回の主役は、規模では以前と同じであっても、 内容を見ればスケールの小さい展覧会だった。 それは、われわれの生きる時代の全体を把握することも、われわれが進むべき未来の方向を指し示すこともなかったのである。 あえて特筆すべき特徴をあげるとすれば、ジャルディーニの外にある国別パヴィリオンでの展示作品のなかに、 新しい傾向を予感させる優れたものが見られたということだろうか。
 ヴェネツィアの市内には、それらのパヴィリオンのほか、ビエンナーレ関連企画の展覧会や、 ビエンナーレと関係なく開催された展覧会が文字通り犇めいていて、ビエンナーレ開催中のヴェネツィアを訪れ、 もしすべての展覧会を見て回るなら、1週間でも足りないだろうと思われた。例えば、北アイルランド出身で、 北アイルランド紛争を一貫してテーマとしてきたウィリー・ドハティは、北アイルランドは独立国ではないのでビエンナーレのパヴィリオンとはならないが、ビエンナーレ関連企画で個展を開いていた。 同様にイギリスのスコットランド、ウェールズ、そして台湾も独自にスペースを確保し、それぞれの地域出身の複数のアーティストの作品を積極的に紹介していた。
フランツ・ヴェスト
パラッツォ・グラッシの「Sequence 1」展と、
野外の大きな頭部は、フランツ・ヴェスト作品
ウルス・フィッシャー
ヴェネツィア・ビエンナーレのウルス・フィッシャー作品(平面)
 ビエンナーレの関連企画以外では、近年アート界でなにかと話題のコレクター、フランソワ・ピノーのコレクション展「Sequence 1」がパラッツォ・グラッシで行なわれていた。 現代における最大のコレクターの一人であるピノーが、どのような作品を収集しているかは非常に興味深い。 彼が、村上隆のコレクターであることは周知だが、この展覧会にはまったく彼の作品はなく、 その代りにマイク・ケリー、ルイーズ・ローラー、デイヴィッド・ハモンズ、フランツ・ヴェストらに交じって、 若手ではウルス・フィッシャーの作品が置かれていた。 スイス代表として今回のビエンナーレにも出展しているフィッシャーは、ピノー・コレクション展で、 絵画や巨大な絵画の樹木を展示した。それが群を抜いて凄みを感じさせたのは、 彼の表現がカオスにもっとも接近した地点から発信されていると思われたからにほかならない。 カオスの無限の力を引き出すことに、彼ほど精通したアーティストは現在にも過去にもいないだろう。 彼の別の作品は、他のアーティストの作品を取り込んで、そのエネルギーを吸い取ってしまっている。 彼らの作品は、気づかぬうちにミイラと化しているのだ。
 私は作品を見ながら、フィッシャーとピノーの関係を、ルネサンス時代の巨匠、とくにミケランジェロと当時の法王の関係に置き換えてみたいという誘惑にかられた。ミケランジェロがそうであったように、フィッシャーは、現代の資本主義の法王であるピノーとコンフリクトを引き起こしている。フィッシャーの抵抗と、ピノーの支配のせめぎ合いである。

オルタナティヴな歴史
 ピノーのようなコレクターの収集品を陳列した展覧会が、フランクフルトのMMKで開かれていた。タイトルは、「DAS KAPITAL(資本)」。現代アートを大量に所有するコレクターの存在が珍しくなくなってからまだ間もないが、ピノーのような大コレクターがアートの歴史を創出したいという野心があるとすれば、MMKで展示されたロルフ・リッケのコレクションは、60年代から現代までの歴史の大胆な書き換えというより、有名アーティストの作品が並ぶ主流の歴史とは一線を画す「もうひとつの」歴史を作りたいという控えめな欲望に突き動かされているように見える。このことは今回のドクメンタにも言えることで、キュレーター独自の見方と趣味で選ばれたアーティストの作品を一堂に集めることで、過去に遡ってオルタナティヴな歴史を描くことが、彼らの企画の狙いだったのではないかと思わせる。裏を返せば、今回のヴェネツィア・ビエンナーレと同じく、アートの世界の全体を切り取って見せることなど、もはや誰にもできないということを証明しているのだ。だから、当事者の個人の能力の範囲で展覧会を組み立てるしかない、というわけである。ところで、MMKに展示されていたハンス=ピーター・フェルドマンの作品は、その現代を反映してキッチュだが、無差別にレディメイドを作品にするという、デュシャンから派生したポストモダンなマンネリ行為が逆にデュシャンの意図を徹底させ、アートにおける美的価値を破壊している。フェルドマンは、彼と同様ミュンスターの彫刻プロジェクトに参加した、「自壊するアート」を標榜するグスタヴ・メツガーとともに、古いタイプのアンチ資本主義のアーティストだろう。そのラディカルさは、確かに貴重だが、簡単に市場の外部に放逐されてサヴァイヴすることはできない。それでも、彼らが生き延びてこられた理由は、ヨーロッパのアートの歴史と伝統の力に尽きる(フェルドマンの個展がハノーバーのシュプランガー美術館で、メツガーの個展はミュンスターのランデス美術館で開催されていた)。しかしさらにアイロニカルなのは、そういった彼らの行為でさえ、最近ではマーケットに回収されてしまっている。反抗者をも力づくで服従させるのが、現代の資本主義だからである。だからフィッシャーのような韜晦の戦略を取らざるをえない。まず取り込まれてみる。それから、おもむろに抵抗することだ。
ハンス=ピーター・フェルドマン
ハンス=ピーター・フェルドマン作品
資本主義のなかのアート
 アートの世界が、このようにコレクターによって作られてしまうとすれば、 それが砂漠のような味気ないものになってしまうことは目に見えている。 実際に、矛盾に満ちた社会の変革に賭ける勢力が存在することを示す展覧会が開かれていた。 6月に私が見たその典型的な企画展は、フランクフルトのクンストフェラインで開かれた「Pensée Savage - On Freedom」と、 ドルトムントのPHOENIX Halleで行なわれた「History will repeat itself」である。 前者では、人類学者レヴィ=ストロースの著書で示された「未開/野生の思考」が、それを駆使する現代のアーティストを通じて、 現代とどう向かい合うのか、そして、それが現代社会という複雑に進化したシステムに対して、 どう太刀打ちするのかが検証されている。そこで展示された作品からは、内奥に秘められた情熱を感じた。 後者の展覧会は、歴史を反復する現代アートに焦点を当てている。 フレデリック・モーザー&フィリップ・シュウィンガーにせよジェレミー・ディラーにせよ、彼らの作品が過去を再現するとき、 単なる無邪気な模倣を目的としているのではない。それどころか、彼らが扱う問題について、 それからの脱出やそれを突き破ろうとする批判のモーメントがこめられている。彼らのもつそのような力が、 いまやピークに達した盛期資本主義アートに向けて、どのような攻撃を仕掛けるのか、今後も追跡していきたい。
フレデリック・モーザー&フィリップ・シュウィンガー ジェレミー・ディラー
「History will repeat itself」展の作品
左:フレデリック・モーザー&フィリップ・シュウィンガー/右:ジェレミー・ディラー
[ いちはらけんたろう・美術評論家]
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