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テーマと大衆──2008年アジアのビエンナーレを観て
市原研太郎
 2008年9月、アジアで一斉にビエンナーレとトリエンナーレが開幕した。定期的な国際展の同時開催という現象は、昨年ヴェネツィア・ビエンナーレを筆頭にヨーロッパ全域で見られたので珍しくはない。とはいえ、今年のアジアは全部で7つ(!)あるので、すべてを制覇することはむずかしい。それでも開幕間もない9月に、カンジュ(光州)、プサン(釜山)、台北、上海と4つの展覧会を見て回ることができたので、ここでは、その感想を述べてみたい。

テーマがない!?
 まず4つのビエンナーレを評価するとすれば、これらのなかでもっとも素晴らしかったのはカンジュである。カンジュは、指名された韓国人キュレーターをめぐってドタバタ劇があり、その影響が危惧されたが、まったくその余波を感じさせず、間違いなく一級品の展覧会に仕上がった。というより、私が過去に観たビエンナーレ、トリエンナーレ、ドクメンタのなかで最高の出来だったかもしれない。
 7回目の開催となるカンジュ・ビエンナーレは、今回アーティスティック・ディレクターにオクウィ・エンウェゾーを迎えた。彼は、2002年のドクメンタ11のディレクターを務め、成功に導いたキュレーターとして世界的に知られている。それゆえ私も、今年のカンジュは興味深いものになるはずだと、事前に予想していた。その予想は、実は裏切られた。しかし、思いがけぬ方向に裏切られたことで、いっそう喜びが増したのだ。エンウェゾーならば、当然考え抜かれたテーマを、選ばれた作品の展示を通して訴えかけ、われわれに真剣な思考と対応を迫るだろうと心構えしていたのだが、オープニングの記者会見で彼自身が述べたように、今回のビエンナーレにはテーマがないという。
 いささか拍子抜けして会場内に配置された作品を眺めていくうちに、テーマなしの理由が徐々にわかってきた。エンウェゾーは、記者会見で、テーマを決めることが鑑賞者の見方を制限すると語っていたのを思い出したのだ。勿論、展覧会のテーマを明確にすることで、テーマに即して表現の意味を掘り下げ、作品をより深く理解することが可能となる。私は、これまでビエンナーレを鑑賞するとき、このテーマ性を理解と評価の重要なポイントとしてきた。展覧会のテーマが、われわれの生きる世界に、どの角度でどう切り込んでいるのか。その新しさや強さや鋭さを、展覧会の成否を判断する材料にしてきたのだ。他方で、それに見合う作品が十分に確保されたかどうかで、展覧会の充実度は測られる。
 そうであればこそ、今回のビエンナーレはさほど高い評価を付与されないはずなのに、反対の判断を私に下させたのは、まったく矛盾しているようだが、まさに「テーマがない」からだった。それがないことで、観客の見方が限定されない。個々の作品を、どう解釈しても構わないのみならず、エンウェゾーが言うように、観客は出会う作品が何であるか、つねに意識を開かれた状態にしておく必要がある。その結果として、テーマを設定しないことによって生じる作品の多様性が、高評価につながる理由になったのである。次にどのような作品が目前に現われるのか、会場を回りながらなんとなく期待している自分自身に、私は気づいた。その多様性は、ひとつの視点に縛れないことによって帰結する多様性である。特定の視点が許す範囲の「寛容」という名の限られた多様性ではない。
 今ビエンナーレでは、そのための3つの工夫(作品選出の仕方が異なる「On the Road」「Position Papers」「Insertions」と名づけられたセクション)が企画の段階で練られているが、いずれにせよ、優れた作品群が会場に置かれたことに変わりはない。それらのほとんどが、社会的、政治的問題を扱ったシリアスな内容だったが、外見や形式としても完成度が高かったのだ。カンジュは、エンウェゾーの力量と趣味のよさを証明するビエンナーレだったといって過言ではないだろう。
カンジュ カンジュ
カンジュ カンジュ
左上=オープニングの記者会見(中央が、ディレクターのオクウィ・エンウェゾー)
右上=展示風景(作品は、ゴードン・マッタ=クラーク)
左下=展示風景(手前は、Huma Bhabha作品)
右下=Hassan Khan作品
大衆化する現代アート
 反対に、テーマが機能不全に陥ったように思えるビエンナーレは、プサンである。実はテーマに関して言えば、今回カンジュとプサンは立場が逆転している。というのも、この2つのビエンナーレは、前回までカンジュは革新的・冒険的なテーマを打ち出し、プサンはほとんどテーマとは無関係に展覧会をつくってきたからである。今回プサン・ビエンナーレは、「Expenditure(消費)」という問題含みのタイトルの下、いわゆるエロ・グロ系の作品を設置して展覧会を構成した。これらの主題は、スキャンダラスな内容であっても、社会の本質や病巣を抉るような痛快な表現となりうるが、類似した作品が同一会場に置かれると、なぜかエロ・グロさのみが際立って、西尾康之やエリク・ヴァン・リースハウトの作品を除けば、内に潜む危険な魅力が色褪せてしまう。今回のプサン・ビエンナーレは、異様で猥褻な表層の風景が続いていた。
プサン プサン
プサン プサン
左上=ビエンナーレ会場のプサン市立美術館
右上=会場風景(手前は、Lee Yong-beak作品)
左下=Kim Kira作品
右下=Bruce Labruce作品
 規模ではかなわないが、カンジュと似た傾向の作品を並べた台北ビエンナーレは、どうだっただろうか。オープニングで台風に見舞われた台北は、社会的、政治的な表現が多く見受けられた。ある意味では、カンジュよりさらにストレートでラディカルな内容だったかもしれない。しかし、「グローバリズム」をテーマに掲げることで、プサンと同じ陥穽に嵌ってしまったと思う。テーマが観客の見方を狭めてしまったのは仕方がないとして、また作品のメッセージがストレートなのはよいとしても、残念ながら粗雑と判断される作品が見られたのである。
 最後に、上海ビエンナーレについて触れておきたい。このビエンナーレは、カンジュと同じ7回目でありながら、中国という特殊な文化事情で発展してきたために、アジアの他のビエンナーレとは歩みを異にしてきた。初期のビエンナーレには、中国の古典である水墨画や、プレモダンあるいはモダンアートとしか形容できない絵画など、現代アートとはかけ離れた部分があった。しかし21世紀に入って、都市としての上海の急激な成長とスピードを合わせるかのように、現代アートのイヴェントとしての体裁を取り始めた。その間、アート・マーケットで大成功を収めた中国人アーティストの作品が、お里帰りのような形で陳列されることもあった。
台北 台北
台北 台北ビエンナーレ
左上=Internacional Errorisata作品
右上=Didier Fiuza Faustino作品
左中=オープニングで開かれたフォーラム
上海 上海
上海
上海ビエンナーレ
右中=会場風景(飛行機は、Yin Xiuzhen作品)
左下=Yue Minjun作品
右下=Jing Shijian作品
 さて、オリンピックが終わった2008年の9月、現代アートは、文字通り大衆化の波に晒されている。私の撮影した写真でおわかりのように、上海ビエンナーレの会場となった上海市立美術館の周囲は、ビエンナーレを訪れた中国人民で賑わっていた。そこにも、美術館内の至る所で入場者が作品を前に無邪気に記念写真を撮っている姿と、同じ光景があった。彼らは、彼らの背後の作品のテーマ(写真の汽車の作品は、文化大革命の「下放」を題材にしている)など、まったく眼中にないかのような屈託のない表情で笑っていたのである。
[いちはらけんたろう・美術批評]
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