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美術の基礎問題 連載第19回
3.美術館を出て
 

「ミュージアム・シティ」の試み

 90年代の日本の野外美術展を代表するものとして、福岡市で1990年から1年おきに開かれている「ミュージアム・シティ・天神」をあげなければならない。このプロジェクトは、それまでの野外美術展に比べて予算的にも展示エリアの広さでも群を抜くというだけでなく、大勢の人の行き交う都市空間を舞台にさまざまな実験を繰り広げ、先駆的な業績を残してきたからだ。まずはこの「ミュージアム・シティ」について概観してみよう。
 「ミュージアム・シティ」とは、美術作品を美術館や画廊といった展示専用スペースではない場所に展示し、文字どおり街そのものを美術館にしてしまおうという壮大な試みである。これが発案されたのは、市の中心部の天神地区に次々と巨大な商業ビルが建ち始めたバブル絶頂期のこと。1989年に福岡在住の美術家や地元企業などを中心に実行委員会が発足し、翌1990年に市の美術館学芸員の協力を得て第1回展を開催。日本人作家を中心に53人が参加し、天神地区の商店街やビルの外壁、看板、公園など約130ヶ所に作品を設置するという破格の規模となった。だが、準備期間が短いうえ手を広げすぎたせいか、作業量が事務局の能力をはるかに超えてしまい、展覧会は混乱。ガイドマップを作製したものの配布されたのは会期なかばをすぎてから。肝心の作品も旧作をもってきて置くだけのものが多く、展覧会としては成功したとはいいがたい。
   このときの反省から、第2回展以降は出品作家を10人強に絞り、なるべく現地制作してもらうため事前の打ち合わせや下見に時間を割き、サイト・スペシフィックな作品を増やすよう心がけたという。また、アジアを中心に外国人作家を招き、出品作家と観客が出会う機会を増やすためパフォーマンスやセミナー、ガイドツアーなどをおこなうようになったのもこのときからだ。
 展覧会のない1995年には市民参加のワークショップをおこない、翌年の第4回展からワークショップを導入。さらに1998年には博多地区までエリアを広げ、名称も「ミュージアム・シティ・福岡」と改称。同時に、博多区にある廃校となった小学校の校舎を利用してアーティスト・イン・レジデンスを実施している。
   このように「ミュージアム・シティ」は、ただ展覧会を開いて作品を展示するだけでなく、回を追うごとに見せる工夫を重ね、つくる側と見る側をつなぐアウトリーチ活動にも力を注ぐようになる。こうした努力は、人けのない自然のなかに作品を展示するならともかく、多くの人が生活する都市空間で持続的に展覧会をおこない、アートを身近に感じてもらうためには必要不可欠なことだ。そして、彼らが試行錯誤のうえ築き上げた民間と行政の協力関係や、都市空間への介入方法、アウトリーチの仕掛けなどは、その後の野外展のあり方に多くの示唆を与えていく。

都市空間への進出

 「ミュージアム・シティ」以降、都市空間に作品を点在させる試みが各地で起こる。以下に、私が見たものを中心に時間軸に沿って列挙してみよう。
 銀座の路上で若手作家がゲリラ的に作品を展開した「ザ・ギンブラート」(1993)、その延長として新宿歌舞伎町に場所を移した「新宿少年アート」(1994)、青山から神宮前にかけての画廊や屋外空間を使って作品を展示した「モルフェ」(1995-98)、同じく青山、神宮前で「シャンブル・ダミ」のヤン・フートを総合監督に招いておこなわれた「水の波紋」(1995)、大宮駅周辺の再開発地区にインスタレーションした「ゆう・もあ・あーと大宮」(1995)、大阪市平野区の旧平野郷を舞台に開催された「モダンde平野」(1996-98)、立川市の商店街や公園など広域で展開している「立川国際芸術祭」(1998-)、東京芸術大学先端芸術表現科が茨城県取手市と協力しておこなっている「取手アートプロジェクト」(1999-)等々……。
 これらを見ると、同じ都市空間を舞台にした展覧会でも、その性格が少しずつ変化していることに気づく。90年代前半の「ザ・ギンブラート」「新宿少年アート」が美術家による無許可のゲリラ展であったのに対し、なかばの「モルフェ」「水の波紋」は地元の画廊や私設美術館、「ゆう・もあ・あーと大宮」は公立美術館がそれぞれ主導的役割をはたし、後半の「モダンde平野」「立川芸術祭」は地元作家や地域住人が中心となり、「取手アートプロジェクト」は地元大学が行政と手を組んで実現させたというふうに、展覧会が私的表現行為からしだいに公的プロジェクトの性格を強めてきているということだ。もちろん、そう断言するには事例が少なすぎるし、探せばいくらでも例外は見つかるだろう。しかし、こうした変化は決して偶然でも恣意的なものでもなく、時代の必然的な流れであるように思えるのだ。
   その転換点となったのが、1995年に起こった阪神大震災と地下鉄サリン事件ではないだろうか。阪神大震災が美術家につきつけたのは、アメリカでの同時多発テロのときも繰り返されたように、大きな災害を前にして美術家はなにができるのか、なんの役にも立たないではないかという絶望的な無力感であり、にもかかわらずなにかしたい、なにかしなければならないというボランタリーな精神の芽生えではなかっただろうか。ここから何度も問い直されてきたアートの社会的役割が再び問われるようになる。
 一方、地下鉄サリン事件がつきつけたものはもっと現実的な問題だった。すなわち、街頭に不審なものを置いてはいけないという規制(自主規制も含めて)である。美術館に飾られるような絵画や彫刻のかたちをした作品ならいざ知らず、屋外になんの断りもなく置かれた「現代美術」は不審物としてあつかわれ、即刻撤去となる。そこでいくら「芸術性」を主張してみたところで説得力をもたないのだ。したがって、もし1995年3月以降に「ザ・ギンブラート」「新宿少年アート」の続編が計画されていたとしても、きっと実現できなかったに違いない。だからといって、この街頭展を「時代遅れの前衛」として片づけてしまうわけにはいかない。むしろこれらはゲリラ的であるがゆえに、都市と美術の関係を考えるうえで実に興味深い例を提供してくれるのだ。本論から脱線するが、少々この両展について述べたい。
   そもそも「ザ・ギンブラート」は、いかに美術家が画廊から自立できるかをテーマに企画されたもの。銀座という場所が選ばれたのは、そこが日本一の画廊街であるからだ。参加したのは、企画者である中村政人をはじめ、村上隆、小沢剛、会田誠らいまでは第一線で活躍する美術家たち。なびす画廊前に置かれた小沢の世界最小ギャラリー「なすび画廊」や、路上にゴザを敷いて絵を売った会田の「アート・コジキ」など、反画廊・脱画廊的な不穏な作品が多かった。とりわけ地下鉄のコインロッカー内に発信機を仕掛けた岩井成昭の作品などは、サリン事件以降であれば大騒ぎになっていたはずだ。
   翌年の「新宿少年アート」は、よりリスクの高い新宿歌舞伎町に場所を移して、公募を含め80人以上が参加。ネオン輝く雑居ビルに無意味なイリュミネーションをとりつけた鈴木真吾、ゴミ置き場にゴミが増えていく過程を写真に撮り、それを再びゴミ置き場に展示した木村稔、「皇居前広場」「首相官邸前」といった架空の住所表示を電柱に貼りつけた竹内やすひろなど、なにかに擬態したり雑踏にまぎれこませる作品が多かったのは、なかば無法地帯と化している歌舞伎町で目立ったら「ヤバイ」からである。ここで参加作家たちは、「目立ちたいけど目立ってはいけない」という背反する状況のなかで表現が試されることになった。結局「ザ・ギンブラート」も「新宿少年アート」も、観客のためでもなければ、ましてや都市の美観のためでもない、美術家自身のトレーニングの場として機能したといえる。
   その後、両展を組織した美術家の中村政人は、鈴木真吾らとコマンドNを結成し、秋葉原の電気街の店頭に置かれたテレビモニターにビデオアートを流す「秋葉原TV」(1999-)や、ビルとビルの隙間のわずかなスペースにアートを侵入させる「スキマプロジェクト」(2000-)などをプロデュースしている。これらはゲリラ展ではないものの、都市の盲点をねらってアートを仕掛けていく点ではその延長線上に位置づけられよう。

より親密な空間を求めて

 話を戻せば、90年代なかばに起こった阪神大震災と地下鉄サリン事件というふたつの出来事が、意識的にかどうかは別にして、野外美術展のあり方にも少なからず影響をおよぼしたことは間違いない。その結果、90年代後半の野外展は社会的保証を得るためにも行政との協力態勢を強化し、「ミュージアム・シティ」のように地域社会に溶け込んでいくため、市民参加のワークショップや公開セミナーを開くところが多くなった。こうした変化はいうまでもなく、美術館の外だからこそ必要とされたのである。
 最近では広域の商業地域だけでなく、学校や病院といったより親密なコミュニティに焦点を絞ってアートを持ち込む例も増えている。杉並区の公立中学校で夏休みを利用しておこなわれた「IZUMIWAKUプロジェクト」(1994、96)を先駆として、杉並区の高齢者ホームで展覧会とワークショップを開いた「アートデリバリー」(1999)、新潟県津南町の高齢者ホームに作品を展示した「アートコミュニケーション〜いきいき・わくわく」(2000)、銀座の病院にインスタレーションした「アート・イン・ホスピタル」(2000)などがある。こうした施設にアートを導入する場合、単に作品を展示するのではなく、施設利用者と作品との距離を縮めるためにワークショップなどを実施し、参加・体験してもらうことが重要であることは繰り返すまでもない。
 さらに2001年には民家やホテルの客室など、より私的な空間にアートを侵入させるプロジェクトが相次ぐ。民家を借りたものでは、香川県直島の「スタンダード」と山口市の「アート・イン・ザ・ホーム」があった。このふたつは基本的に「シャンブル・ダミ」と同じ方式であり、どうやら15年遅れで日本でもこうした展覧会が可能になったというわけだ。一方、ホテルの客室を使ったものでは、京都市の「アート・イン・トランジット」、大阪市の「ステイ・ウィズ・アート」と続いた。これらは個別に企画されたものだが、まるでプロジェクトが連鎖反応を呼び起こしているかのようだ。
 もちろんこの間にも、たとえば新潟県の山間部でおこなわれた「越後妻有アートトリエンナーレ」(2000)に代表されるような、田園や自然のなかでの野外展は数多く開かれているが、都市空間や人々の身近な生活空間にアートを仕掛け、見る者となんらかのかたちで関係を結んでいこうとする展覧会が相対的に増えていることは間違いない。
 さて、ここでもういちど、この20年ほどの日本の野外美術展の移り変わりを振り返ってみよう。80年代前半は人けのない不便な無人空間でおこなわれることが多く、見せることより美術家自身のトレーニングの場、作品の実験場として機能していたが、後半になると田園や廃屋など人の気配のする空間でおこなわれるようになり、バブル景気の追い風もあって街おこしの一環としてのイベント色が濃くなっていく。90年代に入ると人通りの激しい都市空間に進出し、行政や企業との協力態勢を強め、後半以降にはより親密でプライベートな空間でも試みられるようになり、参加・体験型のワークショップなどをとおして住人や観客とのつながりを深めていく……。いささか図式的ではあるが、ざっとこんな感じだろうか。
 この20年間の推移は、したがってアートが社会性や公共性を獲得し、コミュニケーション機能を回復していく過程だったといえないだろうか。そしてこのことは野外展に限らず、パブリックアートにもいえることである。  


[主要参考文献]
・山野真悟「企画者の視点から」、『ミュージアム・シティ・天神92』図録、ミュージアム・シティ・プロジェクト
・橋本敏子「まちに出たアート」、ドキュメント2000プロジェクト実行委員会
 『社会とアートのえんむすび1996-2000』トランスアート
・『ザ・ギンブラート・ペーパー』ギンブラート実行委員会
・村田真「街にくりだすアートたち」、『美術手帖』1994年7月号、美術出版社



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