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ヴェネツィア・ビエンナーレの「見世物性」

村田真

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田中純
村田真

 いきなりこんなことをいうと叱られるかもしれないが、国際展というのは一種の「見世物」だと思う。とりわけヴェネツィアのような祝祭都市を舞台に、19世紀末の万国博覧会全盛期に始まったこのビエンナーレにおいては。「見世物」とはなにより「見せる(show)」ことを第一義とするから、玉石混淆なんでもかんでもとにかくたくさん見せてしまうヴェネツィア・ビエンナーレは、まちがいなく見世物の一種である。だが、「見世物」にはただ見せるだけでなく、「魅せる(attract)」という趣もなければならない。つまり人の目を引きつけ楽しませるということだ。これはしばしば現代美術展では忘れられがちだが、数百点もの作品が並ぶ国際展においては不可欠な要素である。よくも悪くも国際展という舞台は「目立ったもん勝ち」なのだ。もうひとつ、「見世物」には「店」すなわち「商売(business)」の要素もあるはずだが、それはとりあえずおいておこう。
 このような「見世物」としてヴェネツィア・ビエンナーレをながめると、はたしてどのように映るだろうか。

まっとうな感覚で見る

 今年50回目を迎えたヴェネツィア・ビエンナーレは、総合ディレクターにフランチェスコ・ボナミを迎え、「夢と衝突(Dreams and Conflicts)」をテーマに開催されている。展示は大きく分けて次の3つ。
 (1) ジャルディーニにおける国別のパビリオン展示
 (2) アルセナーレにおける事務局主催の企画展示
 (3) コッレール美術館における絵画展
 このほか、ジャルディーニにパビリオンをもたない国が市内に場所を借りて展示したり、「エキストラ50」と称して「イリヤ&エミリア・カバコフ展」などの関連企画も開かれている。
 このように展示が多岐にわたるうえ、作品が次から次へと押し寄せるものだから、哲学的な思索にふけったり瞑想的な時間をすごすことなど望むべくもない。おまけに筆者の場合、プレスオープン翌週の記録的な暑さの時期に2日間しか滞在できなかったため、関係者に取材することもすべての作品を見ることも不可能だった。そこで筆者は今回、作品解説を読んだり展示意図を理解する努力をあらかじめ放棄し、目に映るまま、まさに「見世物」として展示物に接しようと思ったのである(白状すれば、帰国後に読んだ『別冊太陽・見世物はおもしろい』に感化された後知恵という面もないわけではない)。
 もっとも筆者に限らず大半の観客はおそらく、すべての作品を見つくそうとか理解しようといった姿勢で訪れるわけではなく、なにかおもしろい作品に行き当たれば幸いといった程度に楽しんでいるはずだ。その意味では、いつになくまっとうな人間の感覚で作品に接したといえるかもしれない。

パビリオン展示の成功と失敗

 まずジャルディーニを訪れて、最初に入ったのはスペイン館だった。入ったといっても実はほとんど入れなかったのだが。というのも、パビリオン内部にブロックが積まれて封鎖され、左右のわずかなスペースしか通れなかったからだ。「見せる」ことをあらかじめ拒絶するかのようなこの挑発的なインスタレーションは、しかしそのミもフタもないダイナミズムによって「魅せ」てくれる。とても好きです、こういうの。作者はサンティアゴ・シエラ。
 パビリオンの封鎖といえばベネズエラ館も門扉を閉じていた。ただしこちらは代表作家ペドロ・モラレスの作品が同国政府の検閲にあい、封鎖を余儀なくされたのだという。パビリオンの外壁に「CENSORED(検閲済み)」のシールを貼って抗議しているが、ノーテンキな観客としてはもう少し検閲や抗議そのものを作品化して見(魅)せてほしかった。
 スペイン館ともども個人的に気に入ったのは、ドイツ館のマーティン・キッペンベルガーだ。がらんとした展示室の床に地下鉄の通風孔が設置してあるだけ。水の都ヴェネツィアに地下鉄? このあっけらかんとしたバカバカしさは笑える。
 シエラとキッペンベルガーに共通するのは、パビリオンをほとんど使わないことによって逆説的に空間を生かしていることだ。反対に、デンマーク館のオラファー・エリアッソンのインスタレーションはパビリオンを最大限に有効利用している。作品そのものは鏡を応用した万華鏡のような錯視的なものだが、内部空間だけでなく外壁に階段を設け、屋上にまでインスタレーションしていて気分がいい。
 パビリオンの空間を有効利用しようとして失敗した例もある。イギリス館のクリス・オフィリがそれだ。基本は絵画展なのだが、天窓に作品と同系色の赤と緑のガラスを入れたり、同じ色の照明で照らすことで展示空間を2色に分けている。しかしこの演出はまったくの逆効果で、絵画を台無しにするばかりか、こけおどしの「見世物小屋」に堕してしまっている。
 オーストラリア館のパトリシア・ピッチニーニはきわめて精巧な、それゆえにグロテスクな人形を出品。まさに「見世物」的な展示だが、致命的なのはその作品が同じくオーストラリア出身のYBA(ヤング・ブリティッシュ・アーティス
ト)のひとり、ロン・ミュエクを想起させずにはおかないことである。
 さて、日本館はどうだろう。出品は曽根裕と小谷元彦で、コミッショナー長谷川祐子の設定したテーマは「ヘテロトピアス(他なる場所)」というもの。これに関してはあらかじめコンセプトを理解していたが、残念ながらふたりの作品展示からはコンセプトが十分に伝わってこない。それは作品そのものの問題というより、空間が分断されて作品間のつながりが見えず、4-5人のグループショーかと勘違いしかねない展示のまずさに由来するものだろう。ふたりの個性が相殺されてしまった印象だ。どちらかの個展だったらまだよかったかもしれないが。

祝祭的なアルセナーレ

 アルセナーレの企画展示は以下のキュレーターによる8つのセクションからなる。
 (1) フランチェスコ・ボナミ「秘密協定(Clandestine)」
 (2) ジリアン・タワドロス
  「フォールト・ライン(Fault Lines:ContemporaryAfrican Art and Shifting Landscape)」
 (3) イゴール・ザベル
  「インディヴィデュアル・システム(IndividualSystems)」
 (4) ホウ・ハンルウ「緊急地帯(Z.O.U./Zone of Urgency)」
 (5) カルロス・バスアルド「生き残りの構造(The Structure of Survival)」
 (6) カトリーヌ・ダヴィッド
  「現代アラブの肖像(Contemporary ArabRepresentations)」
 (7) ガブリエル・オロツコ「変わる日常(The Everyday Altered)」
 (8) モーリー・ネスビット+ハンス・ウルリヒ・オブリスト+リクリット・ティラヴァーニャ
  「ユートピア・ステーション(Utopia Station)」
 これらが計1キロメートルにもおよぶ長大なレンガづくりの工場跡の空間に繰り広げられているのだ。それぞれの企画意図を理解したわけでも、個々の作品をつぶさに観察したわけでもないので詳細は語れないが、企画者の顔ぶれと各タイトルを見ればなんとなく全体の方向性は読み取れるだろう。
 このなかでもっとも印象深かったのは(4)のホウ・ハンルウのセクションである。ここでは床を傾斜させて一部を2階建てにしたり、作品と作品を壁で隔てることなく近接させ、時に作品同士を相互浸透させることでセクション全体をひとつのインスタレーションにしてしまっているのだ。しかも出品作家には小沢剛や高嶺格ら日本人も含まれているものの、大半が中国人で占められているうえアノニマスなグループ参加が多いため、個を埋没させてしまう東アジアの混沌とした状況をそのまま移設したかのような印象を与えている。まことに祝祭的な「見世物」というべきか。

絵画の無根拠ぶりを暴露

 今回のビエンナーレに限ったことではないが、近年の国際展はどこも映像とインスタレーションで占められ、絵画の展示がきわめて少ない。フランチェスコ・ボナミもそのことを憂えたのだろうか、彼のキュレーションによる「絵画展」はとても新鮮に映った。
 サブタイトルに「ラウシェンバーグからムラカミまで1964-2003」とあるように、ここでは1964年のロバート・ラウシェンバーグから現在の村上隆まで、この40年間に制作された絵画が対象になっている。1964年が起点になっているのは、ヴェネツィア・ビエンナーレにアメリカ政府が軍艦で作品を運び込み、「アメリカン・ポップの来襲」などと騒がれ、ラウシェンバーグが国際大賞を獲得して衝撃を与えたのがこの年だったからだ。だとすれば、「ムラカミまで」の意味の大きさもおのずと理解できるだろう。
 会場にはフランシス・ベーコンから、アンディ・ウォーホル、ダニエル・ビュレン、ゲルハルト・リヒター、チャック・クロース、アンゼルム・キーファー、ジュリアン・シュナーベル、ピーター・ハリー、リュック・トゥイマンス、そして村上までの50人の絵画がほぼ制作年代順に並んでいる。ポップアートありミニマル絵画あり、フォトリアリズムあり新表現主義ありと、まるで現代絵画の標本箱といった様相だ。
 しかしこれを見ても、絵画の時代的変遷や歴史的展開がたどれるわけではない。むしろさまざまなスタイルが勝手に明滅するだけで、まるで瞬間芸を次々に見せられるような当惑さえ覚える。たとえばこれを「ムラカミからラウシェンバーグまで」として逆の順序で見せたとしても、さほど違和感を感じなかったに違いない。その意味でこの「絵画展」は、絵画が線的に発展してきたとする進歩史観を粉砕し、現代絵画の無根拠性を暴露するものだといっていい。つまるところ、現代絵画が「目立ったもん勝ち」の「見世物」でしかなかったことを、まさに「見世物」として見せている、そのことが新鮮だったのだ。
 ちなみに村上隆は最初の部屋でアニメを流し、最後の部屋で六曲一双の屏風絵を出すという離れ業をやってのけている。つまり現代日本のサブカルチャーと、伝統的な日本絵画という一人二役のジャポニスムを演じているのだ。そのしたたかな戦略と旺盛なサービス精神にはあらためて敬服するほかない。

[むらた まこと]

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