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ヴェネツィア・ビエンナーレ
第1回コンテンポラリー・ダンス
国際フェスティヴァル

田中純

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田中純
村田真

会場の劇場入り口
▲会場の劇場入り口
 ヴェネツィア・ビエンナーレには、50回目を迎えた美術展のほかに、建築、音楽、演劇それぞれの展覧会ないしフェスティヴァルがあり、今年からはそこにダンスが加わった。この第1回コンテンポラリー・ダンス国際フェスティヴァルのディレクターは、ベルギー出身のコレオグラファー、フレデリック・フラマンである。6月12日から7月18日まで開催されているフェスティヴァルのテーマとして、フラマンは「身体←→都市」を選んだ。キーワードは「身体」「都市」「建築」「テクノロジー」である。
 フラマンは近年の自作で、ディラー&スコフィディオやザハ・ハディッド、あるいはジャン・ヌーヴェルらとのコラボレーションを通じ、ダンサーの身体と建築空間との関係を探究している。今回のフェスティバルの趣旨もその延長線上にあり、2025年には全世界の人口の3分の2が都市に集中するという趨勢のもと、都市空間の諸力が身体に及ぼす変化をダンスによって表現しようというものである。そこでは、さまざまな地域から集ったコレオグラファーたちによって、都市における身体経験の差異を比較することこそが目論まれている。参加するのは、フラマン演出のグループ(Charleroi/Danses - Plan K)に始まり、京都のダムタイプのほか、ベルリン、ニューヨーク、パリ、ロンドン、バルセロナ、モントリオール、ヨハネスブルグなどから、全体で16集団。それぞれおもにビエンナーレ会場アレスナーレ内のTeatro alleteseやTeatro piccolo arsenaleで公演をおこなっている。
 筆者が眼にしたのはそのうちのごく一部であるフラマンが振り付けた「無音の衝突Silent Collisions」(6月14日・Teatro alle tese)とダムタイプによる「メモランダム」(6月15日・Teatro piccolo arsenale)のみであるが、まさしく両者の差異を通じて、総合ディレクターであるフラマンによるテーマ設定の孕む問題が明らかになったように思われる。
 「無音の衝突」公演では、会場の中央に舞台があり、観客は両サイドからそれを眺めるかたちになる。舞台上方には不規則な多角形のパネルがいくつも吊り下げられている。可動式のこの舞台デザインはモルフォシスのトム・メインが手がけたものだ。フラマンによれば、コンセプトの発端はイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』にあり、その11の都市タイプに対応するものが、舞台上のコンフィギュレーションとしてかたちづくられるのだという。
 氷の板のように半透明なパネルは傾斜角度と高さをそれぞれさまざまに変えて、時には舞台面にその一辺が接しそうなほどにもなる。ダンサーたちは、このようにパネルによって限定された空間内での運動を余儀なくされる。可動的なこの一種の舞台彫刻は、映像が投影されるスクリーンの機能も果たす。また、時には空気の詰まった人物大の透明なビニールの円柱がいくつも舞台上に持ち込まれ、ダンサーとの接触によって起きあがり小坊師めいた動きを見せたりもする。
 こうした舞台装置とダンサーとのインタラクションはそれなりに見応えのあるものだったし、中心となるダンサーたちの力量も感じられた。しかし、都市空間を表象する装置が身体に対する制限や桎梏、圧力として作用し、ダンサーの身体はそれに抗しながら運動している、という印象は否みがたい。これはフラマンの発言からも裏付けられることで、例えば彼は、ダンスとは「新しいテクノロジーと都市空間に直面した人間の身体と個人的感受性を回復するプロセスのシンボル」だと言う。いわば一種の「疎外」からの解放というわけだろう。
 そうした前提を象徴しているのが公演の最初と最後のパフォーマンスである。まず初めに、上半身裸の女性が舞台上に現われ、白い布を身体に巻き付けられる。そして、公演の終わりには、この女性を縛っていた布が逆に巻き取られる。もとより、単純な寓意でないことは承知しているし、舞台装置とダンサーの身体、そして投影されるイメージといった諸要素の形成する関係性にフラマン演出の眼目があることも分かる。しかし、そこに終始、疎外論的な構図が見え隠れすることも否定できないのだ。
 とはいえ、この手足を縛られた身体のイメージからは、まったく別のことも連想させられた。それはレオナルド・ダ・ヴィンチの謎めいた断章で、「おお海辺の都よ!」という呼びかけで始まり、この都市の市民たちが、彼らの言語を解さない人々によって縛り上げられていると語る。謎々のようなその短い詩の題辞としては「襁褓(むつき)に包まれた子供について」とある。フラマンは、カルヴィーノの物語のなかでヴェネツィア人であるマルコ・ポーロが「ある都市を叙述するたびに、わたしはヴェネツィアについて何かを語ってしまう」と述べていたことに触れていた。「無音の衝突」とはこうしたかたちで「海辺の都」ヴェネツィアに捧げられた作品だったのかもしれなかった。
 フラマンはカルヴィーノを参照しつつ、都市において貴重なのは、商品の交換ばかりではなく、言葉・欲望・記憶が身体を通過しながら交換されることだという。なるほど、舞台上にさまざまな文字やテクストが投影されることで、そんな言語と記憶の複数性は暗示されてはいたものの、それは身体/都市という二項対立の安定性を崩すものではない。
 一方、ダムタイプの「メモランダム」では、端からそんな疎外論的な構図は放棄されている。「不思議の国のアリス」めいた始まり方をした公演は、男があれこれと思いつきを英語でメモする光景を(メモの内容を映像で見せながら)延々と続ける。「無音の衝突」とは異なり、プロセリアム・アーチを効果的に利用して、舞台上を横に移動する人物が映像のなかでシルエットになったかと思えば、突然その姿が消えるといった変化が、運動の緩急を交えながら展開されてゆく。三次元的な空間で環境と格闘する身体はここには不在なのだ。疎外状況に立ち向かう英雄的な人間身体の消去を徹底するかのように、お伽噺めいた着ぐるみの熊たちも登場する。
 部屋を歩き回り煙草を吸う男性の一連の動作を映像と身体によってパラレルに表現するセクションが端的に表わしているように、ここで追求されているのは一種の同期性であり、その追求のプロセスが避けがたく生み出す誤差とずれである。メモを書き付ける動作が孕んでいるのも同じく、思考の流れと文字への定着の同期性追求と解消されない両者の差異、そしてその差異それ自体が開始する運動といったものだろう。
 「ビエンナーレニュース」におけるこの公演の紹介文では、パフォーマーたちがかたちづくるヴァーチャルな意味のネットワークが答えようとしている問題とは、「機械の効率性から記憶をどうやって守るか」だと述べられている。一見したところ疎外論的な問題設定だが、あくまで人間身体に定位したフラマンの図式とは異なっていることに注意しておこう。「機械の効率性」とはいわば「あらかじめ保証された同期性」のことである。一方、記憶とは逆に、同期性への抵抗と障害、つまりあの誤差や差異として残る時間錯誤(アナクロニズム)的な何かである。ダムタイプのパフォーマンスは、身体/都市という二項対立においてではなく、身体・映像・文字・音などといった諸要素の流れを、こうした「時間の誤差」において、それぞれにせめぎ合わせる。
 ヨーロッパと日本、ベルギーの都市と京都における身体経験の違いだろうか。しかしいずれにせよ、フラマンが触れた、言葉と欲望と記憶が流通する場としての都市的身体を舞台上に現出させたのは、如何ともしがたく人間中心主義(ヒューマニズム)的で、身体へのロマンティックな信仰(それは秩序ある都市への信仰でもある)を感じさせる「無音の衝突」ではなく、そんなものの存在しない、貧しくも、しかし現実的な、破砕された断片状の都市という状況を引き受けつつ、仮初めの覚え書きを綴り続ける「メモランダム」のほうであったことは、間違いないように思われる。

[たなか じゅん]

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