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中村一美の絵画について
梅津 元[埼玉県立近代美術館]
 
札幌/吉崎元章
埼玉/梅津 元
神戸/木ノ下智恵子
福岡/川浪千鶴
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 中村一美の個展を見た。圧倒された。展示は前期・後期の二期に分かれていたが、どちらも充実した展示だった。すでにこの展覧会については、前号で南雄介氏が紹介しており、本来ならば別の展覧会を取り上げるべきだろう。しかし、今回の中村一美の個展は極めて重要だと思われたので、あえてここで取り上げたい。さらに、重複を承知でこの展覧会を取り上げたい理由がもうひとつある。南氏のテキストの中に、筆者が書きたいと思っていたこととほとんど同義の言葉を見つけたからだ。先に南氏の言葉を引用させていただくと、次のとおりである。

「――そう、だから私は思うのだ、中村一美を同時代人として持つことは、われわれにとってのせめてもの幸運と言うべきではないか、と。 」

 一方、筆者が本欄で中村一美の個展を取り上げようと決めた時点では、まだ南氏のテキストは掲載されていなかった。その後、何を書こうか思いをめぐらせている頃にartscapeをのぞいて南氏が中村一美の個展を取り上げていることを知ったのだ。正直に言えば、同じ展覧会を取り上げてよいものだろうかという困惑の気持ちを抱えながら読み進んだのだが、最後に上記の文章を読んで驚いたのである。なぜなら、執筆に入る前からなぜか頭に浮かんでいた締めくくりの言葉が、次のようなフレーズだったからだ。

「中村一美という画家と時代を共有していることの喜びを深くかみしめたい。」

 このように、同じ展覧会についての文章を、南氏と筆者が非常に近いニュアンスの言葉で締めくくろうとしていたことは、そうした言葉を導くだけの魅力を今回の中村一美の作品が備えていたことの証なのではないだろうか。

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 この展覧会について何かを書きたいと思ったのだが、まず何よりも言葉が追いつかないことを思い知らされてしまった。断っておけば、何かを書きたいという気持ちに、この画家の真摯な実践に対して敬意を払わなければならないというようなニュアンスは含まれていない。あくまでも展示された作品を見ることから発生するごく自然な気持ちなのだが、自らの視覚と身体によってその作品を受けとめるリアルな経験が持続している限り、言葉は不要なのではないかと思わされてしまったのである。しかし、そんな呑気なことをいつまでも言っているわけにはいかない。批評の危機とでもいうべき状況にも思いを至らせないわけにはいかなかったのだ。
 別な言い方をすれば、個々の作品の色彩、構図、筆触、パターンなどについては記述することができるとしても、そうしたフォーマルな分析のみによって作品を語ることには限界があるということだ。これがまず形式主義的な批評の限界という問題である。しかし、作者である中村一美が用意したマニフェストともいうべき各作品についてのコメントによって作品の意味を確定してしまうわけにもいかない。なぜなら、作品の意味や価値は、作者が特権的に確定できるわけではないからだ。作品と作者の関係は特殊なものであり、作者は作品に対して特殊な関係にある。ならば、極論ではあるが、作者という人間によってなされる作品の意味づけや価値付けもまた特殊なものと判断されるべきなのではないだろうか。もちろん、だからといって作者の意図が否定されるわけではないのだが、作品を見る立場の人間は、本来、見る立場から作品の意味や価値を論じていく責任を負っているはずなのだ。にもかかわらず、例えば中村一美のように、自らの制作の実践を理論化しうる作家の場合、見る側の人間が作者の提出するコンテクストに追従してしまい、見る側としての作品の意味づけや価値付けの作業を行わないという危機的状況がある。こうした状況が、社会的な意味での批評機能の低下という問題である。

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 後期の展示で筆者が特に強く興味をひかれたのは、《タタラII (Social Semantics 7)》である。この作品は、赤〜褐色系のモノトーンに近い縦長の絵画である。他の作品に比較すれば、絵具の物質性を強く喚起するような荒々しい筆致はあまり見られず、縦に流れるヴェールのような構図が全体のトーンを規定している。この垂直性の強調は、アトモスフェリックな曖昧な空間の発生を抑制しており、同時に見るものの視線の動きを垂直方向に誘導する。そうした画面に、斜めのやや構築的なストロークが見られる。このストロークは透明度が高く、画面の地が光を吸収する沈んだ質感であるのと対照的に、光を反射する。そのためこのストロークは矩形の画面内に収まることなく、より直接的に見るものの視覚に訴えてくる。また、この透明度の高いストロークの背後にはわずかに紫がかった部分も見え隠れしている。一枚の画面に複数の強い色彩が導入されている他の出品作品と比較すると、絵画を構成する要素が限定されているため、作品の全体的な印象が把握しやすくなっている。しかし、こうした要素の限定は、作品としてのわかりやすさとは全く比例しない。画面から感じられる微妙な色彩の効果、光の吸収/反射の効果、そして垂直方向の強調と斜め方向の運動性、こうしたいくつかの要素が複合的に作用し、極めて高いレベルの視覚体験が誘発される。こうした経験の豊かさや深さは、作品の外見上の特徴とは必ずしも一致しないことはいうまでもない。
 しかし、中村一美の本作品についてのコメントは、少なくとも筆者にとっては驚くべきものであった。筆者自身、まだそのコメントをどのように受けとめたらよいか困惑しているため、そのコメントの内容についてはここでは触れない。ただ、中村一美にとって、この作品が「悲惨さ」を内包したものとして構想されているということだけは書き添えておきたい。ならば、筆者がこの作品から受けた「喜び」の感情も、その「悲惨さ」の上に成り立っているのだろうか、という困惑とともに。

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 もう一点、どうしても触れておきたいのが、《ユガテVII (Social Semantics 16)》である。3枚のパネルをつないだ幅6メートルの横長の大作である。まず作品から受ける印象は何層にも重ねられた緑系の色彩がもたらす横方向に漂うような感覚である。この感覚は、見るものの身体のスケールを上回る画面の幅によって、視覚的な把握をこえた身体的な感覚として成立している。そうした画面のあちこちに、緑系の、時には少し紫系の、斜め方向のストロークが数多く見られる。その様子は、バラバラな世界が有機的な関連を見いだして統合された姿をとろうとしているようにも、逆に、統合されていた世界が相互の関連を失い、世界が崩壊しつつある姿のようにも見える。
 ここで少し考えてみたい。画面に具体的な指示対象は何一つ描かれていない。筆者は、こうした説明を、あくまでも作品から受ける感覚を形式的なレベルで言葉にしようとしただけだ。にもかかわらず、なぜ「統合」や「世界」や「崩壊」という言葉が出てくるのだろうか?筆者の個人的な感想や恣意的な言葉使いの癖といってしまえばそれまでなのだが、こうした無意識的な、あるいは無自覚な言語の現れ方にこそ、実は絵画作品の意味的な記述を開いていく手がかりが潜んでいるような気もするのである(自分で書いた文章を例えに出した楽観的な思いつきにすぎないかもしれないが)。
 唐突だが、筆者は、ここで、前述した形式主義的な批評の限界という問題と、社会的な意味での批評機能の低下という問題の、両者にかかわる突破口を探る可能性を見いだしたいとも思ってしまうのだ。もちろん、そのために費やすべき言葉はまだまだ不足しているし、この文章そのものもいつにもまして支離滅裂で分裂的・断片的な思考の痕跡にすぎない。しかし、あえて統合されない文章を提出することをもって、中村一美という画家と時代を共有していることの喜びの表現としたい、というのはわがまますぎるだろうか?

中村一美Painting
会期と内容
会期:part I 2002年5月13日(月)〜6月7日(金) part II 2002年6月7日(金)〜6月29日(土)
営業時間:10:30〜18:30(祝祭日休)
会場:南天子画廊 東京都中央区京橋3-6-5木邑ビル1F tel. 03-3563-3511

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