第171回「日宣美の時代:日本のグラフィックデザイン 1951-70展」
対談:木村恒久/佐野寛/永井一正
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佐野 最初に一言。1960年に世界デザイン会議が開かれ、「東京宣言」というものを残しました。「われわれは来るべき時代が人間の権威ある生活の確立のために、現代よりもいっそう強い人間の創造的活動を必要としていることを確認し、われわれデザイナーに課せられた次の時代に対する責任の重大なることを自覚する」というような理想に満ちた宣言です。このころデザイナーは理想をもってデザインを進めることが出来た非常に幸せな時代であったと思うんです。その中で日宣美は社会的存在が大きくなって世間の批判にさらされるようになってきた。この過程について永井さん、お願いいたします。
永井 どんなことでも10年間も同じことを繰り返していると、社会の変化に対応出来なくなる面もでてきます。日宣美は展覧会という面から見ると作家団体的な意識が強かったので、そういうものが続いていると、当然、批判の的になる。それと、「世界デザイン会議」を契機に東京オリンピックのデザイン活動に若手デザイナーの参加などというかたちで、社会の需要に応じたデザイン活動というものが広まっていったのです。一方、日宣美は団体につきまとう平等という壁にはばまれて思い切った活動ができなくなってきた、ということで、日宣美がなぜ必要かということが問われるという時代だったという気がします。
佐野 1960年に日本デザインセンターが出来て、木村さんはそれに参加して数年でお辞めになる。当時の思いのようなものをお聞きしたいのですが。
木村 シャドーワークという言葉があります。これはメインワークに対する陰の仕事という意味です。60年代は日本の経済成長でメインワークの時代なのです。それに対して、私はデザインはシャドーワークとして戦略的に考えていました。メインワークの産業にドッキングしていくと、シャドーワーク的な性格のクリエーションがメインワークに吸収され、戦略が成り立たない。なぜ、デザインセンターを辞めたかというと、自己鍛練が形成されずにメインワークの中に引き込まれると、デザインそのものが狂ってしまうのでシャドーワークに徹しようと思ったからです。
佐野 日宣美展の特徴は実質的にポスターだったことですが、そのポスター形式を批判されるのですね。
永井 ポスターはグラフィックデザイナーが好きな媒体であることは言えます。自分の思想や造形を1枚のポスターの中にゆだねえるものだという気がします。
木村 ポスターは一つの情報形式です。ポスターの原点はパブリック・アイです。ヨーロッパでは支配権力がポスターやメッセージで視覚的な専制のシステムを作るわけです。それに対するアンチテーゼが、市民社会のつまり批判的公共性がパブリック・アイ。日宣美の初期はポスターを主体にしたためにあらかた公共的ポスターになってくるわけです。日宣美はイデオロギーの集団ではありませんが、ポスターで展覧会を展開したために、公共的なボランティアの集団と見られてしまう。そこで批判的公共性はないのではないかという矛盾が出て来るのです。
永井 日宣美はデザイナーという技術集団として発足しており、思想的な共通性は全くなかった。確かにポスターの持つ意味性というものに引きずられていったことはあると思います。従って批判を受けてもそれに応えるすべは集団としては全くないのです。
佐野 もう一つ一般公募とからんでいると思うのですね。日宣美展は、学生達が応募する登竜門になった。10代の人たちが受賞して有名になった。これがポスターという形式でなければ、難しかったと思います。60年代にデザイナーが社会的に輝いたのは、テレビもまだモノクロだった時代におけるポスターのパワーだったと思います。
永井 ポスターは登竜門という意味からいえば、ひとつの象徴であったわけです。事実、日宣美に入選することによって給料が倍増した人もいるし、企業も代理店も実力をはかる目安にしたのです。名誉だけでなく実際に仕事に跳ね返るという時代だったんですね。
木村 写真、グラフィックデザイン、絵画は二次元平面の画像なのです。19世紀末に写真、グラフィックデザインが出現したときには画像でありながらテキストの意味をふられてきたのです。一般公募者はテキストの意味を掘り下げてくるが、古い会員達は本来の画像としてとらえていたから、そこに矛盾が出てきたと思います。
佐野 外側の社会の変化が大きくからんでいたと思います。当時ものすごい経済成長を果たす一方で、団塊世代の反体制的全共闘運動が激化している。激化は自由解放を求める気持ちですが世界中で燃え広がった結果です。こういう社会の動きと日宣美は明らかにつながっていた。
永井 日宣美の動きの一つとして、アートディレクターのもと、一つのテーマで全員参加の企画をたてたのですが、地方会員の反対にあい、結局は実現出来ませんでした。
佐野 そして日宣美は、学生達の標的になったわけですね。デザイナー達の登竜門がいつのまにか前に立ちふさがる、関門に変わっていたからです。そこで総括の結果解散となったわけです。日宣美が消えたあとJAGDA展が始まりましたが、日宣美展のようなエネルギーを注入した行為の結果としての手描きのポスターを見る機会はなくなりました。ところがデザインが本当に爆発するのは、日宣美が消えた後であるということは象徴的ですね。
永井 その後、東京デザイナーズ・スペースやJAGDA、東京ADCがそれなりの役割を果たしていると思いますが、やはり今のグラフィックデザインの原動力というのは日宣美だと思います。日宣美がなければ、70年代のグラフィックデザインの爆発ということもなかったのでしょう。
佐野 日宣美はなくなってしまったけれども別のかたちで続き、今日に至っています。日宣美を知らない人達もその前提の上でつながっているとも言えるでしょう。
レクチャー風景
レクチャー風景
Ikko Tanaka 1962
Katsumi Asaba + Kazuko Shiotani + Nobumichi Shimizu 1965
Yusaku Kamekura + Jo Murakoshi + Osamu Hayasaki 1963
Makoto Nakamura + Noriaki Yokosuka 1963
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