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Artscape Book Review
暮沢剛巳
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「芸術は闘いだ!」

. 『たけしの誰でもピカソ THEアートバトル』
誰でもピカソ表紙
『たけしの誰でもピカソ THE アートバトル』
徳間書店 2001

在住地域のTV事情にも拠るのだが、本欄の読者の多くは『たけしの誰でもピカソ』というTV番組を見たことがあるだろう。(仮に見たことがないとしても)タイトルから察しがつく通りの、要はバラエティに分類されるタイプの視聴者参加型番組で、毎週数組の「自称」アーティストが登場、ビートたけしの司会進行や審査員の講評の下、「グランドチャンピオン」を目指して作品の出来栄えを競い合うという趣向になっている。視聴率等のデータは調べてみないとわからないが、(首都圏の場合だと)金曜PM9:00という競争の厳しい時間帯で丸4年近くも放映されているわけだから、かなりの人気番組であるのは間違いのないところだし、また、『日曜美術館』のような啓蒙型プログラムとは全く異質なのアート番組を確立した点でも、大いに注目すべきだろう。その意味では、この『誰ピカ』のオフィシャル・ブックである『たけしの誰でもピカソTHEアートバトル』は、出るべくして出た本であると言えよう。
もちろん、オフィシャル・ブックという性質上、本の内容自体は番組の構成に極めて忠実なものである。今までの参加アーティストの作品図版やインタビューを中心に、バトルの結果なども収録、番組の性質上、まず再放送やビデオソフト化の考えられない『誰ピカ』の貴重な記録集となっている。また、審査員のほか、番組にゲスト出演した様々な「プロの」アーティストや、番組とは直接の関係がない村上隆や椹木野衣らのコメントも収録されているのだから、多くの美術関係者にとって、『誰ピカ』がなんとも気になって仕方のない存在となっているかがわかろうというものだ。
美術関係者の多くは必ずしも『誰ピカ』に好意的ではないだろうし、事実、従来のアートを固守する立場から、あくまでもTV的なエンタテインメントとして成立している『誰ピカ』を批判する声が聞こえぬわけではない。だが、少なくとも私の眼には、そうした立場からの批判を説得力豊かなものとして展開するためには、「グランドチャンピオン」を目指して『誰ピカ』に出演する「自称」アーティストと、審査員やゲストとして『誰ピカ』に招かれる「プロの」アーティストとを決定的に隔てているものが何であるのか(それ以前に、そもそもそんなものが存在するかどうかがまず問題なのだが)を、教育歴や受賞歴といった制度的なコンテクストを一切抜きにして説明するぐらいの芸当をやってのける必要があるようにも思われる。この問題は、もう少し紙幅を費やして本格的に論じたいところだが、ただ一点、ごく少数の関心しか引かない密室のゲームに成り果てた日本のアートにとって、『誰ピカ』が提起する問題は決して軽くないということだけは、今この場で断言してもよい。
 
岡本太郎『リリカルな自画像』『疾走する自画像』
『失踪する自画像』表紙 『リリカルな自画像』表紙
岡本太郎『疾走する自画像』
みすず書房 2001
岡本太郎『リリカルな自画像』
みすず書房 2001

それにしても、なぜピカソなのだろうか?なぜ
ダヴィンチでもセザンヌでも写楽でもなく、ピカソでなければならなかったのだろうか?
もちろん、『誰ピカ』のアートに期待されているのが「天才」「ポピュラー」「イロモノ」などの諸要素であることは、上に紹介した番組の趣向からすぐにわかることだし、その点「ピカソ」がそれらの諸条件を最大公約数的に連想させる固有名であることも確かである。いささかステレオタイプな気もするが、いかにもTV的なこの発想に対して、とりたてて異を唱える必要などないのかもしれない。にもかかわらず、私がどうにも腑に落ちずにいるのは、たけしの強い意向によって番組が開始されたという『誰ピカ』のキャッチフレーズが、他でもない「芸術は闘いだ!」であるからなのに違いない。三〇代以上の読者には説明の必要もないだろうが、言うまでもなくこのフレーズは、今は亡き岡本太郎があるCMの中で絶叫してみせた「芸術は爆発だ!」を強く想起させるものだ(そして、当時のたけしがしばしばこの「芸術は爆発だ!」をマンガチックな身ぶりで反復していたことを思い出せば、そこに戦略的なパロディの意識が存在することは一層自明となるし、さらに今となっては、国際的な映画監督としての評価を確立してからも、相も変らずお笑い芸人であり続けるたけしの存在そのものが、なにやら太郎のパロディめいて見えてきてしまう)。岡本太郎もまた、「天才」「ポピュラー」「イロモノ」などの諸要素をすべて満たした異形のアーティストだったのだから、『誰でもピカソ』の「ピカソ」は、実は「タロウ」でもよかったのではないかと思ったとしても、決して不自然ではないはずなのだ。
その岡本太郎についてだが、幸いなことに、岡本太郎美術館の開館や70年大阪万博の回顧ブームなどを通じて、ここ数年太郎を再評価しようとする機運が高まっていて、一時資料・二次資料を問わず、現在のわれわれは多くの「太郎本」に恵まれている。とりわけ、本人の筆による『リリカルな自画像』と『疾走する自画像』の二冊のエッセイは、軽妙かつ平易な筆致の中に、太郎独自の文明観・芸術観を窺うことのできる書物として味読に値するだろう。山の手のブルジョワとして生まれ、颯爽としたモダンボーイに成長したかと思えば一転して芸術家を志し、パリに留学した後は画家修業だけでは飽き足らず人類学研究にまで手を染め、あのバタイユとも深い親交を結び、帰国してからはすぐ一兵卒として出征させられ、戦後すぐの「縄文の発見」、そして「太陽の塔」と「バクハツ」……本書の行間から、なんとも毀誉褒貶の激しかった岡本太郎の足跡を読み取り、「天才」と「イロモノ」の紙一重の関係に思いを馳せるのもまた一興かもしれない。
「DIRE AIDS」表紙
DIRE AIDS Arte nell'epoca dell'AIDS
Edizioni Charta、2000



「DIRE AIDS」
なお、「芸術は闘いだ!」というキャッチフレーズに強引に引き寄せて、AIDSとの「闘い」を取り上げたイタリアの展覧会「DIRE AIDS」にも一寸言及しておこう。90年代の後半以降、治療法がかなりの進歩を遂げ、また一時期のエイズ・アクティヴィズムが沈静化したこともあって、AIDSを正面から取り上げたアートの注目度は下降気味であるが、この展覧会はそうしたAIDSとアートの関係にあらためてスポットを当てようという試みである。確かに、多少治療法が進歩したとはいえ、AIDSはまだまだ現代社会の深刻なクライシスでありつづけているのだから、それに対応するアートをいつまでもメイプルソープやヘリングによって代弁させたまま、新たな動向への注目を怠っているのはなんとも鈍感な態度として批判されても仕方あるまい。この「DIRE AIDS」のカタログを通じて、近年のエイズ・アクティヴィズムの一端に触れ、失われていた関心を取り戻す一助としたいところである。「芸術は闘いだ!」の「闘い」には、こうした側面もあるはずなのだ。


関連文献

岡本太郎『呪術誕生』『日本の伝統』『神秘日本』『わが世界美術史』『宇宙を翔ぶ眼』(いずれもみすず書房)
倉林靖『岡本太郎と横尾忠則』白水社、1996)
スーザン・ソンタグ『隠喩としての病/エイズとその隠喩』(富山多佳夫訳)みすず書房、1992
『BT/美術手帖』1991年6月号(特集=AIDS)
Douglas Crimp(eds):AIDS:Cultural analysis, cultural activism, MIT Press,1988

[くれさわたけみ 文化批評]

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