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Artscape Book Review
暮沢剛巳
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「実践」としての写真

. セルジュ・ティスロンの写真論『明るい部屋の謎』
『明るい部屋の謎──写真と無意識』
セルジュ・ティスロン
『明るい部屋の謎――写真と無意識』青山勝磨、人文書院
2001
 
ロラン・バルトの『明るい部屋』と言えば、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』などと並ぶ写真論の古典である。母の死という暗い出来事を機に一気に書き上げられたこの書物は、ステゥディウムとプンクトゥムという言語学的な二元論を背景に、フレームに切り取られた瞬間の過去性、現在という時制における「不在」という問題を突きつけた。「それは――かつて――あった」という一言に集約されるその問題系は、一時期のような熱狂的な支持を失ったとはいえ、まだまだ写真論における重大なアポリアであり続けている。
とすれば、今回ここに取り上げるセルジュ・ティスロンの写真論『明るい部屋の謎』の位置付けも自ずと明らかになるだろう。そのタイトルからして、バルトを強く――それも批判的に――意識していることが間違いない書物によって、ティスロンはバルト以降常識とされてきた写真論の様々な約束事への対決姿勢を鮮明に打ち出そうとする。なかでも、写真の本質を「映像」ではなく「実践」に見ようとしたティスロンの姿勢は、本書の性格を勝れて挑発的なものとしているだろう。写真とは、単に完成されたプリント作品だけによって形成されているのではない。ファインダーを覗き込み、シャッターを押し、暗室で現像し、加工されたプリントを見たり保存したりすること――ティスロンにとって、写真とはこれら諸々の「実践」の総体のことを意味しているのであり、またこの議論を経由することによってはじめて、写真が写された世界の痕跡であると同時に、写した主体の痕跡ともなっているという独創的な結論へと到達し得るのである。
なお情報を補足しておけば、著者ティスロンはフランスの精神分析医であり、本書の仏語原書は「作業中の無意識」という叢書の一冊として書かれたものだ(ちなみにティスロンは、同じ叢書のなかの一冊として『マンガの精神分析』という書物も上梓している。こちらの方も、是非とも日本語版を出版して欲しいものである)。無意識、トラウマ、鏡像段階など分析のためのさまざまなメソッドを提供してくれる精神分析は、ベンヤミン的な複製概念とも、バルト的な言語学ともまた異なった立場から写真論を確立するための格好の導き手となるだろう――本書はまさしく、そのような仮説を立証した書物でもある。
 
『TOMATSU SHOMEI 55S』
SHOMEI TOMATSU 55S
SHOMEI TOMATSU 55S Phaidon、2001

この「実践」を強調した立場は極めて興味深いものだが、弱点がないわけではない。作家論・作品論に不向きなのである。私は『明るい――』を一読した際、その議論の緻密さに唸ってしまうと同時に、参考図版や具体的なケース・スタディの乏しさには多少の物足りなさを感じたのだが、実はそれも無理からぬことで、そもそもメディア論・観客論としての側面が強いこの「実践」という立場は、概して特定の作家や作品を論じるのに適しているとは言いがたいのだ。しかしなかには、この「実践」という立場からの分析に堪えうる例外的な写真家も存在するし、東松照明は間違いなくその例外的な一人である。なかでも、Phaidonからシリーズ刊行されたポケット版写真集の一冊『TOMATSU SHOMEI 55S』は、安価な上、外国人の視点によって客観的に再構成されているという点からも、この写真家の足跡を知るのに好適な書物と言えるだろう。
「OKINAWA」や「NAGASAKI」のシリーズ作品で知られる東松は、一般には「南」の表現に秀でた良心的なドキュメンタリー写真家として知られている。先の二分法で言えば、まさしく「世界」の痕跡をとらえるのに長じた名手というわけだ。だが、東松の写真が人間や動植物や自然の景観を単にスタティックな被写体として扱っているのではないこと、そこに積極的に介入しようとする「主体」が存在することは、彼の作品を見た多くの者が強く直感することである。多くの作品に施されたこの「主体」の痕跡は、東松の写真を「実践」の地平へと位置付ける十分な理由足り得るだろう。
それにしても、このポータブルな写真集の1頁1頁から実感される「主体」、言い換えるなら強い批評性は一体何なのだろう? その疑問は、あるインタビューのなかで語られていた、東松が若いころにルース・ベネディクトの『菊と刀』に衝撃を受けたというエピソードを知って氷解した。東松の写真には、自らを異文化として他者に認識させようとする、翻訳にもたとえられるモチベーションが強く窺われるが、それは恐らく、この古典的な日本文化論からも影響された視点でもあったのだ。そしてそのモチベーションは、しばしば「ヤポネシア」――東松の写真が島尾敏雄の小説とも通じる側面があるのは確かなので、このたとえは言い得て妙かもしれない――の問題と結びつけて語られる東松の写真が、単なるエキゾティズムとは一線を画している所以でもある。その点でも本書は、写真の選択を一瞥し、またイアン・ジェフリーのイントロダクションを一読する限り、以前に伊藤俊治や今福龍太が編集を担当した写真集と同様、東松の写真の本質を的確に理解した上で構成されているように思われる。^
 
中平卓馬『中平卓馬の写真論』
『中平卓馬の写真論』
中平卓馬
『中平卓馬の写真論』
リキエスタの会、2001

なお、骨太な写真論というここでの主題にひきつけて、その極めつけと呼ぶべき『中平卓馬の写真論』も手短に紹介しておきたい。若い世代には伝説的にしか知られていまいが、著者の中平はかつて日本の写真評論に大きな影響を与えた写真誌『Provoke』の同人だった理論派の写真家で、当時の過激で本質的な主張のエッセンスは彼の写真論『なぜ、植物図鑑か』に凝集されていた。そして今回オンデマンド出版という新しい形態で刊行された『写真論』は、絶版久しかった『図鑑』のなかから三篇の論文を選んで再編集された書物である。私は、以前に『図鑑』を読んでから10年以上も経っていることもあり、思わぬ懐かしさから本書を手にとったのだが、「衝迫力」をいささかも失っていないそのハードでドライな議論は、懐かしさといった感傷はおよそ寄せ付けないものであった。
極めて乱暴に単純化するならば、中平が本書において強調するのは、「植物図鑑」のような写真、すなわちブレやボケが排除された克明な記録写真の必要性であり、一方では批評性の欠落した、ウェットな感情のこびりついた「私写真」を徹底して否定し排除しようとする。この論点だけを抽出すれば、何と言うこともない単純なものかもしれないが、しかしこの一見単純な結論が、ベンヤミンの写真論やゴダールの映像実践などさまざまなレファランスを援用し、鋭い社会批評性を内在し、また自らの経験をもフィードバックした上で重層的に構成されていることを忘れてはなるまい。そして剛直な議論が導くその重層性は、30年経った今も未だに極めて刺激的であり続けているのだ。
 ちなみに、残念ながら今回は採録されなかった『図鑑』の短評のなかに、「世界を視るみずからもまた世界の一部なのだという逆説。それを“自己の他者性”といくぶんしかめつらしく言ってみてもはじまるまい。よく視る者はまた視られている自己をいや応なく発見せざるを得ないのだ」という一節がある。この一節は、中平の写真論がまさしく「実践」に本質を見た最良の写真論であることを示しているようにも感じられるのだが、さて……。

参考文献
『写真のキーワード――技術・表現・歴史』、昭和堂、2001
ミシェル・テヴォー『不実なる鏡――絵画・ラカン・精神病』、岡田温司+青山勝訳、人文書院、1999
Serge Tisseron "Psychoanalyse de bande dessin
ée", Champs/Flammarion, 1987
東松照明写真集『廃園』(編集:伊藤俊治)、PARCO出版、1987
東松照明写真集『時の島々』(編集:今福龍太)、岩波書店、1998
東松照明インタビュー「もうひとつのアメリカ/もうひとつの日本」(聞き手:港千尋)、d
éjà-vu bis第13号、1998
鵜飼哲「名指しえぬ列島」、d
éjà-vu bis 第13号、1998
中平卓馬映像論集『なぜ、植物図鑑か』、晶文社、1973
西井一夫『なぜ未だ「プロヴォーク」か――森山大道・中平卓馬・荒木経惟の登場』、青弓社、1996

[くれさわたけみ 文化批評]

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