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FOCUS=身体表現の現在
藤崎伊織
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メディアアートにおける身体表現
身体表現――二つの方向性
今日、アートにおける身体表現は百花繚乱の観がある。世界各地の美術館・ギャラリーの内外で、様々なアプローチで身体性を追究するメディアアートやパフォーマンスが展開されているし、またダンスやファッションといったアートと隣接する身体表現とも、ますます境界の融合が進み、その区別自体が意味を為さなくなってきている。今やアートにおける身体的表現を統一的に把握することはほとんど不可能と言って差し支えない。
 だが、はからずも上でメディアアートとパフォーマンスを分割してみせたように、アートにおける身体表現には大きく分けて二つの方向性が存在すると考えられている。一つは、エルゴノミクスを活用した様々なガジェットによって身体機能の拡張を図るものであり、もう一つは、身体そのものをさらしたり、あるいは不自然な動作を試みたりと、身体そのものの非日常的なジェスチャーによって観客の関心を惹きつけるものである。身体表現という言い方が直接対応しているように思われるのは後者の方だが、どうしてどうして、前者の方にも身体性の徹底的な再考を促す優れた作品は少なくない。折しも今年になって、アメリカのセレラ・ジェノミクス社がヒトゲノムの全塩基配列を解析し終えたと発表、2003年での作業完了を目指していた日本の研究者を愕然とさせたというニュースが伝えられた。今なお読み継がれているサイバー論の古典『サイバネティックス』の刊行直後、ハイデガーがそこに歯止めのない身体機能の拡張を予見して著者ウィナーに痛烈な批判を浴びせたエピソードは有名だが、それから約50年を経て、事態が恐らくこの哲学者が畏怖した以上の速度で進んでいることは、もはや誰の目にも明らかだ。そして現在では、あたかもこの解析計画に対応するかのようなアートさえ出現しているのである。

polar図版1
会場全体風景
polar図版2
携帯情報端末「pol」
polar図版3
体験空間「ocean」
polar図版4
キーワードを選択する「field display」
透過スクリーンに投影された映像
C・ニコライ+M・ペリハン「polar」より
写真提供=キャノン アートラボ

●「polar」展=10月28日〜11月6日
ヒルサイドプラザにて開催
身体機能のミクロレベルでの拡張――カールステン・ニコライとマルコ・ペリハン「polar」
カールステン・ニコライとマルコ・ペリハンの新作「polar」は、そうした試みの先端に位置する作品として考えることができる。会場を訪れると、観客はまずpolという名の枕形のインターフェイスを手渡され、一通りその使用法を説明された後で半透明のシールドで覆われた正方形の台座への入室を促される。そして一定時間室内を歩き回っているうちに、携行しているインターフェイスに様々なデータが収集され、そのデータが端末に転送されると、今度はやはり室内に設置されているモニターにそのデータを解析する7つのキーワードが示され、その選択に応じてデータが再構成され、それに応じて室内に様々な効果音が反響したり、シールドに投影されている映像が変化する、といった具合である。
 この「polar」には、身体表現に特有ないくつかの特質を挙げることができる。第一に何と言っても、この作品が観客の参加によって初めて成立するインタラクティヴ・アートであること。いわゆる双方向性は多くのメディアアートに共通する特質だが、一種のインスタレーションでもある「polar」の場合は、インターフェイス等のガジェットのみならず、室内空間全体が作品に見立てられているばかりか、観客のジェスチャーもまたそれを構成する不可欠な要素として取り込まれている。その点では、モニターやイヤフォンを通じて刺激を伝達するタイプの作品よりは、あきらかに観客の五感全体に訴える特質を備えていると言えよう。そして第二に、作品を体験している最中に収集しているデータが、身体機能を拡張する特質を持っていること。観客のデータが作品の一部を為している「polar」だが、既に述べたように、その作品体験はデータの提供/解析の二段階に分けられている。とりわけ後者の方は、ただ観客の身体から収集されたデータを厳密な規則によって配列するのではなく、選択されたキーワードに応じて、インターネットから収集された情報も交え、思いもよらぬ解析結果を導く性質を持っている。そもそもモニター上に示されるキーワードの選択肢からして、「ハリケーン」や「カオスモーズ」といった規則性の否定を前提としたものばかりなのだから、ジェスチャーの不規則な解析にこそ「polar」の本質が潜んでいると考えるのは至極当然と言うべきだろう。
 ちなみに、『polar』を制作したニコライとペリハンは、かたやランドスケープ・デザインから出発してサウンド・インスタレーションなどを試みてきた作家であり、かたやテレコミュニケーションの可能性を追究してきた作家である。いずれも情報環境に強い関心を寄せていた二人のコラボレーションが一定の成果を収めるのは当然の話としても、それが重要なのは、両者の試みが身体機能の拡張をそれこそミクロレベルで探求しようとしていたことである。身体のデータを最小単位(スピノザならば「最単純物体」と呼ぶだろうか)にまで分解し、そしてそれを予期せぬものとして再構成するプロセスは、やはりDNAの塩基配列を解析しようとするヒトゲノム研究などとの時勢的一致を強く実感させる。

ゲーリー・ヒル図版1
《ウォールピース》
ゲーリー・ヒル図版2
《リメンバリング・パラリングエイ》
ポーリーナ・ワレンバーグ=オルソンとの共作
ゲーリー・ヒル図版3
《クロスボウ》
ゲーリー・ヒル「幻想空間体験」展より
写真提供=ワタリウム

●「幻想空間体験」展
=2000年9月1日〜2001年1月14日
ワタリウム美術館にて開催
●ゲーリー・ヒル&
ポーリーナ・ワレンバーグ=オルソン
「ザ・ブラック・パフォーマンス」
=2000年12月9日14:30〜
明治神宮参集殿にて開催
身体のアルゴリズムへの問い――ゲーリー・ヒル「幻想空間体験」
さて、メディアアートを一例として身体表現の可能性を探ったからには、パフォーマンスにも言及しなければ片落ちというものだろう。もっとも、あくまでも私見だが、現在パフォーマンスと呼ばれている表現形態の多くは、依然として旧来の現象学的な認識?にとどまっているのではという疑念がつきまとう。確かにダンサーやパフォーマーの鍛えぬかれた肢体はそれだけで「美しい」が、それが場所や空間の特権的な唯一性を何ら疑ってかからぬ限りは、身体のアルゴリズムそのものに対する問いが発せられているようには思えないからだ。二年ほど前の話だが、マース・カニングハムと川久保玲のジョイントが、それぞれスタイリッシュな造形を実現したにもかかわらず、決してコラボレーションとしては成功したとはいえなかったのもこうした問いの欠如が原因かもしれない。既に述べたように、もはやヒトゲノム解析をも視野に入れた身体機能の拡張を問うアートが出現している現在では、こうした問いの欠如は何とも硬直した態度としか映らない。
 その点、「幻想空間体験」展で展示されたゲーリー・ヒルの新作ヴィデオ展は、身体のアルゴリズムへの問いを孕んだ興味深いものだった。会場で上映されているのは、作者本人が延々と壁に体を打ち据えたり、若い女性が絶叫しつづけたり、男性の後頭部と手のクローズアップが不規則に入れ替わったりする類の作品であり、それ自体決して「美しい」ものではない。これらの映像が作者固有のフェティシズムと密接に関わっていることは疑うまでもないし、またそうしたフェティシズムに共感できなければ、恐らく会場に長時間とどまっていることは苦痛でしかあるまい。だが、この決して「美しく」はない映像の断片が、身体の物質性を強調するという点では高い成果を収めていることに注目しておくべきだろう。生身の身体によるパフォーマンスもしばしば試みているヒルが、ヴィデオというメディアに固執する理由はここにある。ヴィデオの再帰性は、身体のグロテスクな?ジェスチャーを幾度も増幅することによって、場合によっては生身の身体以上の物質性を獲得する可能性を孕んでいるのだから。所詮は偽の身体に過ぎない映像が、真正の身体以上にリアルに見えてしまうという矛盾は、必然的に身体のアルゴリズムを鋭く問い掛けるのだ。 最先端のヒトゲノム研究を髣髴とさせるメディアアートと、もはや従来のパフォーマンスの域を越えてしまったヴィデオ・パフォーマンス――全く位相の異なるこの二つの作品は、しかし身体表現の新たな可能性を提示している点において明らかに通底している。考えてもみれば、アラン・カプローや草間彌生の「ハプニング」がパフォーマンスと言い換えられたのもほんの数十年前の話、アートにおける身体表現はまだまだ特定の形式を確立したとは言い難い。世紀末の現在はまた、身体表現がまたあらたな試みによってその領域を押し広げようとする過渡期を迎えているのかもしれない。

ふじさきいおり 美術批評

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