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FOCUS=[アンケート]アート・シーン2001 .


・新しい世紀に、現代美術の新しい方向はありますか?
・2001年にはどんな「美術」展/運動/動向がありますか?

倉石信乃●写真
例えば写真の作り手であれ受容者であれ、情報拡散的な仮想空間においてサーチ・エンジンを効率的に運用しうるオペレーターが権力基盤を強化するだろう、などと知れたことを再度予測と称して記してもよいし、そこに注入される風俗的・意匠的刺激には不感症的にも過敏にも反応できよう、さらには新奇な刺激の中から価値すらも検知できようが、転換期には旧いテクノロジーに殉ずるふりをしてその実過激な反復を徹底する者が勝ち残る可能性も否定できない、だがやはり、コンピュータの写真に与える影響がより深刻となるのは確実で、さしあたり着目されるのは、情報端末的・「携帯的」なハードウェアと映像装置との「婚姻」なのだが、外部との「間接的な接点」を確保してラインの一部に連なっていなければ気が済まない心理に否応なく組み込まれていく、あの苛立たしくも焦がれた強迫から生み落とされる映像が、いかなる身体性・物質性を帯同/剥離していくのかはやはり見逃せない、だからといって、ケータイのキーを押すのに熟達した主体がただちに新しい写真の担い手たりうるわけではなく、「携帯的」な情報の送受信システムが促すのが、複数の異なる情報の絶えざる慌ただしい短絡・転送ならば、その先に放置される分裂症的な情報の堆積「層」に、いかなる新奇な「遠近」の秩序が、誰の手引きでどのようにもたらされるかは、しばし監視されてしかるべきだろう、同時に、依然として物質としての写真を顕揚する努力は、狭隘な教条主義にも銀塩への濡れた郷愁にも拘泥せずに、反権力的なテロルを、いかに素朴なやり方でも個人的にハンドメイドで炸裂させることと不可分でなくてはならず、かかる持続と持続に伴う自発的な変革の誓約を期するのに極めて有効な展覧会の一つが、世紀を超えてドイツ・エッセンでいま開催されているロバート・フランクの個展「Robert Frank: HOLD STILL-Keep Going」(2月11日まで、Museum Folkwang, Essen)に他ならず、それは実際衝撃的な「新しさ」を慎ましくかつ決然と内包した展観であるが、今年、ヴェネツィアや横浜で行なわれる大がかりな国際美術展の中で写真がいかに遇されるかという「メジャー」な問いの傍らに、写真に始まり写真を超え出ていく漂流を幾度となく生き直している先覚者の存在を、改めて銘記しておきたいと思うのだ。

[くらいし しの 写真批評]


北小路隆志●映画

幸運にも、昨年日本で公開された何本かの傑作を振り返り、簡単な考察を加えてみる ことを通し、僕なりの視点で2001年以降の映画が前進すべき地平を占えそうな気がす る。 
それらの映画を乱暴に二つに分類しよう。まず新たな〈集団性〉の創造へと果敢にチャレンジする映画として、アメリカのポール・T・アンダーソンの『マグノリア』、そしてロシアのベテラン、アレクセイ・ゲルマンの『フルスタリョフ、車を!』の二本が凄まじかった。1920年代までにグリフィスやエイゼンシュテインらによって古典的枠組みが築かれるなかで、映画は〈集団〉を表象するうえで他のメディアに真似のできない傑出した話法を生み出し、発達させてきた。いうまでもなく映画の「大衆性」はそうした〈集団性〉を巡る表象能力の高さに支えられたが、反面、その同じ能力が、ファシズムや戦争その他諸々のイデオロギーとの危うい関係を映画に結ばせる結果になったことも否めない。だからこそ、先に列挙した映画で出現する〈集団性〉を、20世紀的なファシズムや大量生産型集団性とは異なる、分散的で偶然的な集団性として捉える視点が、21世紀以降の映画を展望する際に重要になる。
次に強靭であるべきとされた近代的主体ではなく、脆弱なポストモダン的(?)主体
を起点に据えた映画であるハーモニー・コリンの『ジュリアン』や青山真治の『EUREKA』(公開は2001年にずれ込んだが)。『ガンモ』で衝撃のデビューを果たしたコリンの第二作は、デジタルビデオによる手持ち撮影、人工照明の排除、ジャンル映画の否定などを義務づけた“ドグマ95”の一本として撮られたが、登場人物たちは誰もが自らの身体が孕む脆弱さをギリギリの地点で肯定し、脆弱さを決して怨恨や嘆きの対象にしない。そうした点で、ドグマの中心人物ラース・フォン・トリアーの怨恨や嘆きに満ちた陰惨な映画『イディオッツ』と似ているようで全く異質であり、ポジティヴな映画であることは確認されてしかるべきだ。モノクロ・シネスコ画面による大作『EUREKA』は、バスジャック事件で生き残った運転手と幼い兄妹が、雄大で人間に無関心な自然を舞台にトラウマを克服し、生き残りを図る物語だ。冒頭に起こる事件の後、生存者たちはすでに死にぞこなった幽霊であり、家族的な共同性の廃墟の上に幽霊的共同性を形成させていく(だから、この映画にも目覚ましい〈集団性〉の創造が見られる)。物語の後半、彼らはあえてバスに乗って旅に出る。まるで21世紀の映画に模範を示すかのような、ボロボロになった身体を何とか引きずりながら、それでもその身体を外部に開くことを厭わず前進し続ける旅……。決して楽観できない映画の未来を、僕は『ジュリアン』や『EUREKA』の脆弱な主体=身体たちによる前進(発展ではない)とのアナロジーにおいて祝福したいと思う。 

[きたこうじ たかし 映画批評]


クリストフ・シャルル●音楽

21世紀は、漸く20世紀の芸術の成果が認められる時期になるだろう。まだ理解されておらず、無視されてきた「ダダ」のようなものは多分これから「クラシック」と見られるかもしれない。同じように、デュシャンとケージが開いた道は一般の人にも理解されるだろう。ケージ以降の大革命がしばらく行なわれないとしても、それに従う小さな革命はあらゆる分野においてこれからたくさん行なわれるだろう。 デュシャンとケージが示したもののなかにはまずアートとライフ(日常生活)の身近さ、またアートとテクノロジーの身近さというのがある。彼らのお陰で一般のものを芸術作品として見ることができるようになったし、一般の音も音楽としても聴くことができるようになった。その意味で、ライフのなかへのテクノロジーの浸透によって、音楽の専門家のみならず一般の人も「楽器」を使えるようになっている。デジタル革命によってオーディオもヴィジュアルも一般の人が想像/創造できるようになり、また、制作したものの情報化による配給の方法と速度も大きく変化していく。従来の楽器は、コンピュータによって再現できない音色や感性を実現する道具であることは変わりがない。が、音や映像が一般的に扱われることによって、見る/聴くことに対して新しい視点/聴点が発見される。自分でも単に演奏するだけではなく、創作/作曲することを日常的に可能だと認識していくと、従来の音楽の概念、制度、構成、音色などについて次第に疑問を持つようになる。従来の決まりは次第に疑問にされ、そこから新しい一般意識が立ち上がるだろう。ネットワーク技術の発達によって、複数人で共同で作る機会がさらに増えていく。それは数人が同じ時間に、同じところで作業(作曲、リハーサル、録音、演奏など)するのではなく、さまざまな時間、さまざまな場所で作業をして一つの作品を仕上げる、ということになる。勿論作品によっては、同じ場所、同じ時間に複数の人間が必要であることには変わりがないが、そうではない作品も増えるということだ。そのような過程に対する理解力も増えることで、従来の演奏形式も大分変わっていく。例えば最近よく問われる、コンピュータミュージックの「ライブ性」(「あんたがやってるのは、CDを再生してるだけじゃないの?」)も大きく変わっていくだろう。さまざまな時間、さまざまな場所をひとつの作品にまとめることもできるし、時間/空間の多様性のままでも作品が成立し、それが一般的にも理解されるだろう。1990年代に始まったことは、つまり環境問題への関心(それは大気汚染への恐れのみならず、環境へ目や耳を傾けること)や情報テクノロジーの一般化はまさにそのような方向を示しているのではないだろうか?

Christophe Charles 音楽家]