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FOCUS アート・シーン2001
ディスカッション
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21世紀芸術の行方――横浜トリエンナーレ vs イスタンブール・ビエンナーレ
長谷川祐子 vs 建畠晢 司会:小林康夫

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長谷川祐子 vs 建畠晢 司会:小林康夫

小林:

今日は、2001年の国際展に出品するアーティストをお二人に紹介していただいて、21世紀のウェーブはどこにあるのか、また、それぞれの活動の中でどんなところに一番鮮やかな最先端を感じているかをうかがって、21世紀のアートがどんな方向に向かっていくのかを考えていきたいと思います。やり方は、ボクシング形式のリングのつもりです。余談ですが建畠さんは僕の高校の2年先輩で、かなり強いボクサーです。2001年の9月に世界で何かが起こる。その前哨戦バトルを今日はここででやっていただきます。では、横浜トリエンナーレの概略とそれに賭ける意気込みからうかがいます。

建畠:

横浜トリエンナーレは、横浜のパシフィコという巨大な会場と改装した赤煉瓦倉庫を会場にして、横浜市、国際交流基金、朝日新聞、NHKの4者共催で開催します。日本では事実上はじめての定期的に開かれる国際展ですから、カッティング・エッジ、時代の断面を切り取るのが基本的な使命です。僕は4人いるアーティスティック・ディレクターのうちの1人で、4分の1を担ってみんなと相談しながらコンセプトを作り上げています。タイトルは「メガウェーブ、新しい総合に向けて」となっていまして、美術を美術の制度内だけで捉えるのではなく、それをもう少し拡大して総合的な視点から、現実社会や科学、他のジャンルや市民ともクロスさせながら幅広く捉えてみようということです。僕自身は、制度の中に身を置いていながら、フォーマルな美術の捉え方に満たされないものがあったので、美術館時代にやってきた人選とは少しちがう、現実社会とクロスするものをかなり意識的に選んでいます。スタイルのちがう4人のディレクターがそれぞれの視点で美術を拡大して捉えるということで進めていますが、最終的な展示は渾然一体化した一つのカオスになり、どこの部分を誰が選んだのか分からなくなるでしょう。我々はむしろ積極的にそのことを目指しているのです。

長谷川:

イスタンブールはトルコにある都市ですが、ボスポラス海峡をはさんで、アジアの大陸とヨーロッパ側がひとつの都市の中に交差しているという特殊なロケーションにあります。東西の分岐点にあって、いろいろな意味でちがうコンテクストやカオティックな状況が立ち上がってくる場所です。1920年代のアタチュルク革命以降近代化が進んでいますが、それによって従来の文化が切断された特殊な状況にある場所でもあります。市内の3〜4カ所の歴史的なヴェニュー(会場)を使って行なわれるビエンナーレは、近・現代美術館がないトルコでは、学生や美術関係者にとってカッティング・エッジともいえる新しい現代美術の表現等を知る唯一の機会になります。また、13年前にビエンナーレが始まった当初は、トルコのオーガナイザーが海外の各国文化担当官に名前をあげてもらって参加作家を選択していくアンブレラ方式でしたが、4回目以降は、1人のアーティスティック・ディレクターがすべての作家を選んでいます。ただ前回までは3人ともヨーロッパの方で、2001年の7回目にアジア、すなわち「ジ・アザー・サイド」から初めて呼んでいただきました。私は、アジアから選ばれた最初のディレクターとして、今までイスタンブール・ビエンナーレでは紹介されなかったアジアや第3世界の新しい考え方やセオリーとともに作家を選択して見せる必要があると思います。ビエンナーレは美術館の中の展覧会とちがって街を巻き込んだ大きなワークショップであり、そこでは予期しなかった出会いやダイアローグが生じてくると思いますが、私は、それらすべてを含めてビエンナーレだという考え方をしたいと思います。コンセプトとしては、私がキュレーターとして創り出した「エゴフーガル」という造語を掲げています。エゴというのは、私そのものという核心的なものを指す言葉、フーガルはラテン語で「中心から逃走していく、緩やかに離れていく」という意味です。これは、自分自身を保ちながらも、そこから距離をおいて自由に逃れていくことによって他者のフィールドと同時に共存することを意味しています。近代的自我が抱えてきた20世紀のひとつの成果に対する疑問点と賞賛の両方が含まれていると考えていただければと思います。
「エゴフーガル」が例えば具体的にどういうことなのかについて、4つの要素を挙げますので、今日お話する作家がそのコンセプトとどうかかわっているかを見る参考にしていただければと思います。ひとつはコンジュゲーション(接合)。これは細胞をお互いに交換して自分の生命をリアクティベイトしていく行為ですが、原生動物などに見られる非常に緻密な高次レベルの共同作業を含みます。二つ目がスキル。これはコンテンポラリーアートが失ってしまったのではないかと思われる一種の技術の礼賛です。テクノロジーの発達が凄い勢いで新しい製作方法とか新しいヴィジョンを出現させています。相互に連絡しあうネットワークの形成においてもテクノロジーは非常に重要です。それと同時に手工業的なレベルのスキルも重要であることをもう一度再考したいと思います。3つめはスリープ、眠るということです。今、世界の果てまでウェブ上で情報を探しにいくことはできますが、それよりも私たちは、無意識の領域とか夢の領域で深いレヴェルの情報を共有し、結びついているのではないかという問いかけです。4つめがミトス、神話という意味ですが、新しい寓意でもあります。従来の20世紀的な近代人によって語られる大きな物語は終わったということですが、そんなことで終わらせられる物語ではない物語、人間でないものによって語られる物語、ロボットやサイボーグ、動物によって語られる物語。あるいは、私たちが欠落と呼んでいることのなかに、例えば盲目のような身体的に欠落のある人たちが私たちとちがうセンスを持っている、そういう人たちによる話を含むということです。そうした新しい神話が、私たちの夢を語る新しい物語になりうるのではないかという「不可能性の物語」です。以上の4つです。

小林:

長谷川さんは、私からすると常に「向こう側」を考える人で、直接的だったり脱走的だったりいろいろしますが、アートのキュレーシュンをやる時に必ず、現実からどう「向こう側」へいけるのかを考えている。そういう人がイスタンブールでキュレーターをやるのは非常に面白い、ぴったりだなあと思います。「エゴフーガル」とは、エゴの解体とか破壊的乗り越えではなく、しなやかに脱出する道を探していると私には感じられます。それでは、お二人はどんなアーティストを取り立てることによって自分の思いを世界に伝えていこうとしているのか、対抗形式で順番に見ていきたいと思います。

草間彌生3
草間彌生

横浜トリエンナーレ
塩田千春
塩田千春

横浜トリエンナーレ
曽根裕
曽根裕

イスタンブール・ビエンナーレ

小林:

長谷川さんも「ディ・ジェンダリズム」(世田谷美術館1997)で草間さんをメインに据えていますから話したいことはあると思いますが、今日は次に進めます。

オラファー・エリアソン
オラファー・エリアソン

横浜トリエンナーレ
シモーネ・ベルティ
シモーネ・ベルティ

イスタンブール・ビエンナーレ

小林:

今あげていただいた二人は、何となく似通っているところがある。二人とも、世界の文脈にほんのわずかなものを持ち込むことで関係が変わっていくという点に関しては比較的近いと思います。

マリエル・ノイデカー
マリエル・ノイデカー

横浜トリエンナーレ
ガブリエル・オロスコ
ガブリエル・オロスコ

イスタンブール・ビエンナーレ
束芋
束芋

横浜トリエンナーレ

リクリット・ティラヴァニャ
リクリット・ティラヴァニャ

イスタンブール・ビエンナーレ
ハム・キュン
ハム・キュン

横浜トリエンナーレ
シスレイ・ザファ
シスレイ・ザファ
イスタンブール・
ビエンナーレ
ジャン・ホァン
ジャン・ホァン

横浜トリエンナーレ

小林:

リクリット・ティラヴァニャは横浜にも出品しています。

マヤ・バイセヴィッチ
マヤ・
バイセヴィッチ

イスタンブール・
ビエンナーレ
蔡國強
蔡國強

横浜トリエンナーレ
ダグ・エイケン
ダグ・エイケン

イスタンブール・
ビエンナーレ
ユジェン・バフチャル
ユジェン・バフチャル

イスタンブール・
ビエンナーレ

小林:

お二人に作家を紹介していただいて見てきましたが、相手の選択に関する感想ないしはどういう違いを感じるかをそれぞれ一言お願いします。バトルですから。

建畠:

長谷川さんの場合は、逸脱する世界への眼差しと、コンセプチュアルな問題意識をあわせ持っていて、それが長谷川さんらしくクロスしていると思いますね。

長谷川:

非常にシンパセティックですし、感情的に相手をインボルブしていく力強いセレクションだと思いました。ただ、身体の捉え方の違いを私は強く感じました。赤い絵の具や裸体やエモーショナルな刺激などの身体に対する解釈や、ネイチャーの読み取り方は、私自身はもうおいてきてもいいかなという気がしています。今私たちの身体は、もっと別の身体を抱え込んでしまっているのではないかということが私のひとつの提言です。

建畠:

たまたま映像が重なって、そういう面が強調されたかもしれませんが、横浜トリエンナーレは、必ずしも身体や、環境、自然がキーワードではないんですが。

長谷川:

そうではなくて、「見方」が問題なのです。どういう身体なのかといった時に、21世紀に向けての展覧会に、多分私はあの身体は扱わないと自分では思います。見ている方がそう感じられるかは分らないですが、それは違うものです。

小林:

これはまとめない方がよいような気がしますが、建畠さんのラインナップに強く感じるのは、感情や人間的現実に突き刺さってくるものが多い。ある意味で入っていきやすいと思いますが、長谷川さんの方の身体は、例えば曽根さんやリクリット、コソボの作家などを並べて見ても、長谷川さんには見えている、もうひとつの身体の地平がまだなかなか分かりにくい。

長谷川:

これは通過点としての身体、交通する“身体”なんです。

建畠:

僕自身のテーマは、パッサージア(Passasia)、つまり Asia As Passage という意味の造語を使っています。これは、アジア主義、つまりマルチカルチュラリズムの原理主義の危険性を美術の上でも感じるので、それを打破するためにアジアを相対化してしまおうということです。そのために、何人かはアジアの外に住む作家を選んでアジアがパッサージュとしての状態しかあり得ないということを証明しようと思っている。でもそれは常に流動していくから、どこかに重りをつけなければならない。それがここでは「身体」なのかもしれない。

小林:

「アジア」という名前ではないにしても、長谷川さんの問題意識の中にそういうものもある。ただ、その扱い方が違うので、逆転的にパッサージアと言っている建畠さんの方は、逆にアジアとのリンクを考えざるを得ない。しかし、はじめからパッサージアであり、(開催地が)イスタンブールである長谷川さんの方は、むしろ考えなくてもいいということも……。

建畠:

僕はアジアと呼ばれるものの実体はないと考えています。だが概念としてのアジアは不可能であるにもかかわらず、不可避的なのです。そのことの構造をアートによって、批評的に捉えなおしてみたいというのがひそかな意図ですね。

小林:

イスタンブール・ビエンナーレも横浜トリエンナーレも潜在的に抱え込まざるをえない21世紀の問題にぶち当たって、ここから本当のリングが始まります。その第1ラウンドは結局、「アジアとアート」という問題になってきましたが、今日はここで時間です。このリングの勝負はおあずけとしまして、本編は、皆さんにイスタンブールと横浜に出かけて判断していただきたいと思います。そのうえであらためていつか「身体」「アジア」「社会的現実とアート」という問題を討議する場を設けたいと思います。

 

『表象のディスクール』全6巻 (東京大学出版会)  
完結記念ライブ・トーク 2000年12月4日 青山ブックセンターホールにて

横浜ビエンナーレ
会場:横浜パシフィコ、赤煉瓦倉庫
会期:2001年9月2日〜11月11日
問い合わせ:TEL 03-5562-3531 国際交流基金内


イスタンブール・ビエンナーレ
会場:トルコ、イスタンブール各所
会期:2001年9月22日〜11月17日
問い合わせ:e-mail:
ist.biennial@istfest-tr.org

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