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FOCUS=日本映画の現在
越川道夫
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映画は“武器”である――日本映画の動静
製作面での変化

ナム・ジュン・パイクがいいこといっていたけど、オペラがだめになったのは、金がかかるからだよってね。金がかかるようになると、新しいことなんてなにもできなくなっちゃって、あとは維持するだけ。ゴダールが身軽になっているんだとしたら、それはすごくいいことだと思う(大友良英インタヴュー「コラージュだけで解決はつかない」『現代思想』1995年10月臨時増刊号「ゴダールの神話」)。


編集部の依頼は、日本映画の動静と今後の展開ということなのだが、結局のところ筆者にはよくわからないということに気づいて、今更ながら唖然としている。確かに日本映画を巡る環境はよくなっているように見える。そう胸を張って答えるプロデューサーもいるだろう。海外での評価、製作・上映を支えるインフラもインターネットやら衛星放送やらさまざまな動向と連動して可能性を開き始めたかに見える。ただ、内部から眺めれば、映画という産業がどこでどうコストをペイしているのかさえ疑わしく見えるのもまた事実であり、今ここより先のことなど皆目検討もつかないというのが正直なところなのである。
そういえば、数カ月前のことになるが『STUDIO VOICE』誌(2001年3月号、特集=TOKYO DRIFTER――映画都市の相貌)の求めに応じて、90年代以降の「東京映画人脈相関図」なるものを作成した。長くなるが、もう一度そこに書いたことを検討してみたい。現在、映画の製作において、撮影所による大量生産というシステムから切り離された映画が、いかに作られうるかという試行錯誤は、ここにきてひとつの形を取り始めたようにも見える。
青山真治監督『ユリイカ』
配給=サンセントシネマワークス+
東京テアトル

1月より東京を皮切りに仙台、山形と巡回し、今後全国18都市での公開が予定されている。3月は、シネ・リーブル博多駅(福岡)、シルバー劇場(名古屋)、4月は、三宮アサヒシネマ(神戸)、熊本Denkikan(熊本)など。
(C) J WORKS FILM INITIATIVE

 
映画製作は分極化した。それまずは1960年代大島渚をはじめとする独立プロ(もちろん大島渚は撮影所の出身だが)における製作が顕著になった時代とそれ以前に分節されるだろう。大島プロダクション、小川プロダクション、若松プロダクションなどが製作した作品がATGなどのバックアップによって配給されたことは周知の事実だ。ここにおいて、映画製作は野に放たれた、と言えるかもしれない。映画は撮影所という閉域だけでなく“別の場所”でも製作されうることが誰の目にも明確になった。この分極化において石井聰亙や手塚眞、長崎俊一らの8mm、16mm映画、“自主映画”と呼ばれた活動や、その活動を支援したPFFぴあフィルムフェスティバル)が映画製作をさらに野に放つのである。映画は、「誰にでも作れるのだ」ということを示すことになったのだ。その後、黒沢清監督たちが在学中に組織した立教大学SPP(セント・ポールズ・プロダクション)といった集団やその周りにあった映画製作団体は青山真治、篠崎誠、塩田明彦などの人材を輩出することになるのである。そして、撮影所を飛び出した映画製作の現場は、90年代に入ると独立系の製作プロダクションやそのプロデューサーが担う役割はさらに大きいものとなっていく。例えば石井聰亙監督や崔洋一監督を起用した WOWWOWでのJ-MOVIE WARSからはじまり、河瀬直美監督『萌の朱雀』、諏訪敦彦監督『M/OTHER』、青山真治監督『ユリイカ』へと成果を生み続けてきたサンセントシネマワークスの仙頭武則プロデューサーや、黒沢清監督を「勝手にしやがれ」シリーズ以来見守り続けてきたツインズジャパンの神野智プロデューサーのバックアップがなければ、海外でオリエンタリズムによらない評価を受けることも、国内で日本映画はつまらないというイメージを払拭することもなかっただろう。彼らは、このような一連の流れの中で登場した才能を“商業映画”というフィールドで、育て、抜擢し、行動をともにしてきたのである。また、このような状況が、映画会社ではない企業の製作への参入を容易にし、それが日本映画に質的、内容的な変化をもたらしているのだ。

映画館と批評家のはたした役割
こんな側面もあるのかもしれない。ある時期、アート系と呼ばれる映画館があった。それは、ユーロスペースや今はなきシネ・ヴィヴァン六本木などのことだが、われわれはこれらの映画館で上映される映画を見、そしてある意味で大きな影響力をもった蓮實重彦をはじめとする批評家の言説と、映画を紹介しようとする意志に触れ、世界のさまざまな場所で作られる映画とその作家たちが自分と同じ地平にいることを意識し始めたのだ。黒沢清でも青山真治でもいい、今、海外で評価を受けている監督、これから評価を受けようとしている監督たちは、おそらくそれ以前の監督たちよりも、例えばフランスのオリヴィエ・アサイヤス監督を、台湾のエドワード・ヤン監督を、“同志”であると感じているのではないか。このような作り手の意識の変化には、日本映画の質的な変化だけではなく、世界への開かれ方の変化が遠因としてあるのではないだろうか。

ジャンルを横断する映画
長谷井宏紀監督『W/O』
配給=スタンスカンパニー
 
 

李纓監督『2H』
配給=スローラーナー
 
また、映画はCMやミュージック・クリップ、アダルトビデオ、アニメーションといった多くのジャンルを横断し、さまざまな極で結びつきながらひとつのシーンを形成し始めてもいるのである。特に河出書房新社の『文藝』誌が、ある時期から若い小説家たちの作品を“J文学”と呼び始めたのは、閉鎖的なジャンルであると思われていた“小説”を、ロックやテクノやマンガと並列した座標の上に放とうとしていたのだとも言える。そして映画もまた、あらゆるジャンルを横断することで作品そのものも、またそれを世に送り出す配給会社も“映画”という閉鎖的だと思われているジャンルを意図的に解き放とうとしているかに見えるのだ。
今の日本には長谷井宏紀の『W/Oがあり、諏訪敦彦の『2/デュオ』があり、李纓の『2H』がある。実験映画であるとか、ドキュメンタリーであるとか、フィクションであるとか、そのようなものの間にあったと思われていた境界はこの数年で急速に崩壊した。バブル以降多様な映画を見ることができる日本という場所で、ある特定の窓口ではなく、それぞれの作品ごとにさまざまな窓口から、言うなれば“勝手に”世界と繋がることを覚え、ミュージック・クリップやマンガなどのさまざまなジャンルを横断し並列する場所に位置させることで、良きにつけ悪しきにつけ映画は絶えず規則をでっちあげながら進められていくゲームのごときものとなった。いや、もともと映画はそのようなものであるとも言えるだろう。
ただ、“映画”があくまでも“商品”であることは否定できない。“商品”でなければならないという“経済”の要請によって、それがジャンル横断的で「開かれた」ように見えているという側面があるのも、また事実だろう。それは、若者のマーケットの動向へのリサーチの結果であり、音楽など別のジャンルと組むことが、映画を製作する資金を集めやすいという判断の結果でもあるだろう。またある意味、巨大な資本のもとでしか、作り、そして公開しえない映画……。そして、デスクトップ上であるクオリティの映像をロー・コスト製作することができるDTV(デスク・トップ・ビデオ)は、その限界を拡げ、さらなる分極化を招くだろうか?


速度と軽さの映画との往還

映画でもビデオでも、ロー・ファイが出てきていいと思うよ。みんな、ビデオで作品を連発すればいいと思う。ビデオ・カセットって、カセットをつくるのと値段かわらないんだよね。映画もぼくらの音楽のように安上がりにならないと終わりだと思うね。(…中略…)媒体がないなんて言ってないで必要なら自分たちでつくればいい。それができないんなら、大手の犬になって先細りする文化のケツの方でえばってりゃいいんだ(大友良英、前掲書)。


必ずしもフィルムを否定しているのではない。ただ“映画”は重い。システムも、何もかもが重すぎる。先日、写真家であり批評家でもある港千尋さんからこんな話を聞いた。チェコスロバキアのビロード革命において最初にストを起こした大学の映像科の学生は、デモに襲いかかり、歩く者たちの“脚”を殴る警官たちを撮影し、そのビデオを地下で流したり、予告もなく建物の壁に映写した。サラエボでスーザン・ソンタグがベケットの『ゴドーを待ちながら』を演出したときに撮られたビデオがある。電気がストップしロウソクの灯りだけで上演された舞台を撮影したものだ。もしかしたら、それらは大した映像ではないのかもしでない。でも、それを見たいと思った。そして、見せたいと思った。しかし、この日本にそのような映像を上映してくれる映画館はあるだろうか?

青山真治監督
『路地へ 中上健次の残したフィルム』

配給=スローラーナー
ゴールデン・ウィークよりユーロスペースにてモーニング&レイト・ショー
 
ロバート・クレーマーという映画監督がいた。彼は惜しくも一昨年亡くなったが、山形ドキュメンタリー映画祭東京国際映画祭で来日した彼は、フィルムで撮られた『ウォーク・ザ・ウォーク』という素晴らしい作品と家庭用のデジカムで撮影された『マント』という、これまた素晴らしい作品を見せてくれた。「みんな、このカメラは買いだぜ」とソニーのデジカムを指してニヤリと笑った彼の顔が忘れられない。このとき同じ会場にいた青山真治監督は家庭用のデジカムで『June 12. 1998-カオスの縁』を撮り、フィルムで『ユリイカ』を『路地へ 中上健次の残したフィルム』を撮った。ロバート・クレーマーにとっても青山真治監督にとっても映画は“武器”なのだと思う。
「映画はコミュニケーションとは何も関係がない。しかし“抵抗”とは関係がある」と言ったのはジル・ドゥルーズだったが、すべての表現者にとって、表現を行なうメディアは彼らにとっての“武器”であろう。青山真治は、「歴史上で展開する絶望的な繰り返しの退屈さ、くだらなさを見せつけるため、そして忘れないために僕の映画はある」と語ってくれた。ベトナム反戦運動やブラックパンサーの運動に連動した匿名のドキュメンタリー集団「ニューズリール」に参加することでそのキャリアを始め、その死に至るまで“国境”、そして“搾取/被搾取”というテーマを核に映画を撮り続けたロバート・クレーマーにとってもまた、映画は武器であっただろう。そう言えば、コソボやサラエボを舞台に映像作品を撮り続けるクリス・マルケルは、多くのスタッフと莫大な資金が必要な“映画”などこりごりだし、もうやる気もないのだと発言していた。ある意味重いメディアである“映画”と、速度と軽さを併せもつデジタルでの映像を往復し、使いこなすことは、われわれの生きている世界を相手に映画を撮る作家にとって重要なポイントなのではないか。マンガが、音楽が、小説が、あらゆる才能にとって“武器”であり“商品”であるのと同じように。そこでこそ、可能性は開かれるのだと、思いたいのだ。

[こしかわみちお 映画批評]

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