Art Interview
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 東京芸術大学「先端芸術表現科」新設
            ――川俣正教授に聞く……村田 真
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20世紀に展開してきた新しい芸術表現を、画像、空間、身体という部門に再編成し、それぞれの領域が、コンピュータなどの電子メディアと結びついた、21世紀の先端的な芸術表現の可能性を目指す学科である(新学科『先端芸術表現科』の開設について)。
 

 99年度から東京芸術大学の取手校地に「先端芸術表現科」が新設された。戦後、東京芸術大学となってから初の新学科開設というだけあって、内外から注目を集めている。 教官には、外部からアーティストの川俣正、メディアアーティストで慶應義塾大学教授を務めていた藤幡正樹のふたりが教授として招かれ、また学内からは、デザイン科の日比野克彦、絵画科の渡辺好明、写真センターの佐藤時啓の3人が助教授に就任。この顔ぶれを見れば、なんとなく新学科の方向性が見えてくるだろう。特に、川俣と藤幡の両教授が両輪として回転するとなれば、その中心はふたつに絞られてくる。すなわち一方の軸は、インスタレーションやパフォーマンスなどを視野に入れた現代美術、もう一方の軸は、コンピュータをはじめとするデジタル技術を用いたメディアアートである。

 もちろんこれまでにも、インスタレーションやメディアアートなどの新しいジャンルに挑戦する学生はいるにはいたが、あくまで油画、彫刻、デザインといった科内での実験的な試みにとどまっていた。それを新たにひとつのジャンルとしてくくり、21世紀の芸術表現に対応させようというのが狙いらしい。ちなみに、新学科の構想は8年前に取手校地を開設した時から立ち上がったそうだが、その名称は「総合美術表現科」「情報環境造形科」と変わり、ようやく昨年「先端芸術表現科」に落ち着いたという。この名称の変遷も、内容を固めるまでの試行錯誤を物語っている。川俣はいう。
「従来の油画科とか彫刻科といった素材別の科の分類では、もう学生はついていけないし、現実に対応できなくなっている。芸術とニューメディアを取り込んだ芸術工科大学なら、すでに九州、神戸、東北にもできているんだから」
 授業科目には「メディア概論」「音像論」「環境表象論」「メディアリテラシー」などが設けられ、教室にはパソコンがずらりと並ぶ。1年次でコンピュータの初歩的ノウハウをマスターしてもらうという。これまでの芸大のアカデミックかつアナログな(アナクロでもある)イメージからはちょっと想像できない風景だが、藤幡によれば、
「ここではコンピュータを文房具として用いる。末端の道具として使えるようになることを目指すんです。一種のサバイビング・ツールですね」
 川俣の言葉を借りれば、
「パソコンと寝袋を持った学生を育てる」
 ということになる。そして、
「アーティストをつくるんじゃなくて、アクティヴィストを育てたい。時代や社会に対して発言していけるような」
 とも付け加える。その具体的なイメージとして川俣は、ロンドンの建築学校AAスクールを例に挙げた。
「AAスクールでは、たとえば先生がある地域開発の課題を出す。学生は共同プロジェクトを組んで、リサーチしたりディスカッションしながら考え、最後にみんなの前でプレゼンする。そんなプロセスを重視していきたい」

 ところで川俣は、これまでも毎年のように芸大からオファーがあったが、そのつど辞退してきた経緯がある。東京にいる時間が少ない、というのが表向きの理由だった。だが、今回は違った。
「昨年6月頃、新しい学科をつくるので来てほしいという話があった。『でも出られませんよ』と答えたら、名前だけでも貸してほしいと。新学科ならいろんなことができそうだし、カリキュラムも全部こっちで決められるので、引き受けることにしたんです。それに芸大だから、というのもある。芸大が変わっていく瞬間に立ち会えるというのが、ぼくにとって重要なんです」
 そうはいっても、川俣は1年の半分くらいしか日本にいない。今年もプロジェクトやアーティスト・イン・レジデンスのため、5回ほど渡欧する予定だ。はたして教授職をまっとうできるのか。
「ぼくの立場は、しょっぱなのアイデアの部分を固めること。出だしの瞬発力だけで勝負したい。いってみれば期間限定教授ですね」

余談だが、「先端芸術表現科」の発足が正式に決まったのは昨年暮れのこと。したがって独自の選抜方法を採るには間に合わず、志望者には既存の油画、彫刻、工芸、デザイン、建築の入試を受けてもらい、そこからそれぞれ数名ずつを採ったという。定員30人のところを728人が受け、倍率は24倍強。新設学科としてはかなりの高倍率であり、それだけ学生たちの関心が高かったことを裏づけている。

 

 

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