logo

Recommendation
香川 毛利義嗣
.


eventやなぎみわワークショップ −未来のポートレイト

..

やなぎみわSACHIKO
 
やなぎみわ1
 
やなぎみわSACHIKO
やなぎみわワークショップ風景
 前回お知らせしたやなぎみわのワークショップのレポート。当初は3月10日、11日と同じプログラムを2回行なう予定だったが、結果的に両日は多少異なる方法をとることになった。
 まず初日。参加者(15名ほど)それぞれに、自分の50年後の姿や生活、社会状況などをイメージしてもらい、それを文章に書いてもらう。そのテキストにインスタントカメラで撮った顔写真を添えて封入し、互いに交換する。ただし、テキストは匿名とし、どれとどれを交換したかは参加者には知らされない。そのテキストをもとにして、つまり他人の50年後のイメージを、絵やコラージュなどで各自ビジュアル化する。最後に、全員のテキストと絵を集めて交互に横につなぎ、ジャバラ状の本を作る、という手順。
 2日目も、テキストを書いてもらうまでは同じだが、今度は書いたイメージを自分で絵にしてもらうこととした。ただしその前に、テキストを参加者どうしで回し読みし、不明な点や納得できない点、質問事項などを赤ペンで書き込み、これを2〜3巡くり返すという、かなりしつこい添削を行なった。したがって時間配分的には大半がこのテキスト作りに費やされ、作品を描く時間はかなり短い(1時間ほど)ものになった。
 このワークショップは、テキストの書き手と他人との共同作業を通してイメージを具体化させるという点で、やなぎが現在継続して発表している「My Grandmothers」シリーズの制作手順とかなりよく似たプロセスを踏んでいる。ただワークショップでは、共同作業といっても面と向かってディスカッションするわけではなく、むしろ、一人でキリキリ思考しイメージを明確化していく作業が必要となったので、参加者の中には、必ずしもカタルシスを伴わないこの種の作業による疲れをどう受け止めたらいいのかとまどう人もいたようだった。また、「50年後」というのも、例えば70歳に近い参加者にとっては自分の姿としてイメージすることの困難な設定で、もちろんアーティストからは、これは現在の人間関係がほぼ精算されるだろう期間を設定したものなので、20年後、30年後でもかまいませんよ、との説明があったが、そう言われるとやはり50年後を書きたくなるのが人情というものなのか、結果、やはり墓の中、というテキストになるケースも多少あった。
 ワークショップを行なうとよく、取材に来ていた記者とかあるいは参加者からも、「この催し物のネライは?」との質問を受けることがある。意味が分からん、と暗にいっているわけである。で、学校の授業ではないのであらかじめ目標を設けているわけでなく、あんな風にこんな体験をしてもらうことがネライといえばネライです、ということをもう少していねいに答えることになるのだが、今回についていえば、個人のイメージが社会化していくプロセスを意識させるための一つの回路を示すことになったとはいえるだろう。もっとも、これはネライではなくやりながら感じたことではあるが。
 自分のイメージなり作った物を不特定の他人にさらすということ自体がかなり社会的な行為だが、通常、そういった行為は制度内ですでに枠づけられているので、その社会性をことさら意識することはあまりない。アマチュアであってもプロであっても、その不自然さを自然だと思えるほどに内面化されている、ともいえる。しかし例えば、たまたまワークショップに集まっただけの他人たちが自分のテキストに容赦なくペンを入れる、あるいは赤の他人のテキストをビジュアル化しなければならない、という理不尽な状況を経由することで、「作品」が作られていくメカニズムを具体的に意識せざるをえなくなる。と同時に、最終的に提示するものが、簡略なテキストとアイデアスケッチのみという物理的な制限がある以上、何を取り何を削るかというファイナルカットの権利は各自が行使しなければならない、といういってみればごくまっとうな「作品」制作の手順をシンプルな材料で経験したのではないだろうか。
 やなぎの近作の「作品」性は、上記のようなプロセスにきわめて意識的なところからきているように思われる。他人に対して開いてはいるが委ねてしまうわけではない。ゆるやかに閉じている、といってもいい。どちらかといえば映画監督のような作品制作の過程を通して、他への開きと自己のイメージへの信頼が共存することになる。作品というものが社会や他人との関係から紡がれるものであるなら、優れた作品は必ずその関係性自体をひもとき可視化させるだろう。その点でやなぎの作品もまた、ことさら「社会性」をうたってはいないが、すぐれて社会的=批評的な「作品」として提示されていると思う。
 「My Grandmothers」シリーズは、大阪の児玉画廊(Tel. 06-4707-8872)で個展が開催されている(4月28日まで)。また、雑誌『流行通信』でも引き続き連載中。
..
会場:高松市美術館講堂 香川県高松市紺屋町10-4
日時:2001年3月10日(土) 10:00〜16:00
   2001年3月11日(日) 10:00〜16:00
問い合わせ:Tel. 087-823-1711/1730

top

event西村記人ワークショップ−ペインティングの可能性(レポート)

..
西村記人ワークショップ1
 
西村記人ワークショップ2
西村記人ワークショップ風景
 こちらは、やなぎのワークショップとは対照的に、参加者は大いに肉体的カタルシスを覚えたようだ。内容をごく簡単にいうと、DJの音楽に反応しながら絵を描く、というもの。床に置いた2×2mほどの紙、もしくは垂直に立てた同サイズ半透明のスクリーンに絵具で、筆や刷毛や、または手でも足でも体の好きな所を使ってペインティングしていく。いってみれば即興演奏のようなもので、西村自身もこれまで色々な共演者とライブ・ペインティングを行なっている。もっとも、ライブでは西村の動きやイメージにミュージシャンが反応する局面もあるわけだが、ワークショップでは複数の参加者が同時しかも個別に描くという状況だったので、参加者からDJへのフィードバックは基本的にはなかった。
 即興というと自由なように聞こえがちだが、それはしばしば不自由なものにもなる。というのも、手というのは手がすでに覚えているようにしかなかなか動いてくれないからだ。例えば、白い四角い紙というそれ自体制度的なものを前にして自由に描いて下さいといっても、たいていの場合、出来上がる過程もその結果も、どちらかといえば凡庸なものにしかならない。というわけで、今回のワークショップのポイントは、描く「速さ」だっただろう。音楽が体の動きを加速させる装置となり、即興であるとかないとか、好きとか嫌いとかの判断が入り込む前方に回り込んで描き続けることに耐える、といういわば視覚と手のバイパスを作ろうとする試み。ただ実際には、参加者も次第に慣れてくると、音楽に「合わせて」派手に描く方へどうしてもスライドしていく。それもまた楽しいことではあるが、このワークショップの可能性の核は、まず最初ぎこちなく一つの線を描き、とまどいながらしかしできるだけ素早く次の線を描いた時間にあったと思う。
..
会場:高松市美術館講座室 香川県高松市紺屋町10-4
日時:2001年3月24日(土)10:00〜16:00 小学生対象
   2001年3月25日(日)10:00〜16:00 一般(中学生以上)対象
問い合わせ:Tel. 087-823-1711/1730

top

copyright (c) Dai Nippon Printing Co., Ltd. 2001