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香川 毛利義嗣
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小説集「アクロバット前夜」福永信

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 このページで「小説」を取り上げるのは異例ではあるが、現在の表現におけるきわめて開かれた可能性がこれらの小説で示されていると思うので、少し感想を述べてみたい。
 左開き横組みというこの本のレイアウトは日本語の小説としては特殊なものだが、前例がないわけではないし小説以外のジャンルならしばしば目にする風景でもある。が、ごく特殊なのはひとつの行がページを越えて延々と右へのびていることだ。つまり、1行目を最後のページ(p121)まで読み続けた後、最初のページへ戻って2行目に続くというわけだ。ついでに、小説中に改行というものがなく、それは単に全角分の(/)として表記される。とすればこれはどういった読書体験を引き起こすのか。
 まず、ナナメ読みというものができない。いうまでもなく、タテであれヨコであれ通常の文字組みであれば、テキストの持つ時間の流れ(の一部)と、文字として視認する空間の広がり(の一部)が基本的に一致する。各見開きの空間的記憶を順を追って積み重ねていけば、それがテキスト全体の時間の流れと正確に対応するわけだ。ところがこの本の装幀の場合、そのような意味での記憶的同一性を構成することができない、どころか、少し前に読んだ箇所に立ち戻ろうととしても、それがどこであったか探すことさえ困難なのである(まるでこの小説の登場人物のように、これについては後述)。私たちは小説なり何か文章を読むとき、その現に読んでいる当該箇所だけを見ているわけではないのだから、その前後のあるいは左右の文字の連なりが現に読んでいるテキストの読解に影響を与えないということはありえない。したがってこの本では、視覚的には分解されたも同然のテキストが前後の文脈が不明瞭なままに勝手に意味を走り始めてしまうのである。
 次に、あたり前ではあるがページをめくる速度が異常に速くなる。これはとても快感である、と同時に、「ふりだしにもどる」地獄に陥ったような焦燥を感じなくもない。そして、ページをめくる速度につられるように文字を読む速さも上がってくる(ような気がする)わけだが、視覚を働かすスピードというものは、造形物を見る場合がそうであるように、テキストを読むという体験にとっても実は重要なポイントである。誰しも経験的に知っているように、テキストから受け取る意味はその読むスピードによって変わるのだから(なので、書評を書く人たちにはその本を分速何文字で読んだのかをぜひ記して欲しい、ちなみに私は今回分速約520文字)。
 あと、二義的ではあるがこの造本に起因することがらとして。この本は27行なので1回読了するのに通常の本の27回分ページをめくる必要があり、物理的に非常に傷みやすい。また、1冊の本の何割くらいをすでに読んだのかと軽くチェックする場合、通常であれば見開いた本の左右の厚みを見比べるわけだが、ここでは、ページの上辺からどのくらい降りてきたかを見るという、いわば文字通りZ軸からY軸への次元の転換が要求されている。
 さて、ここで確認しておきたいのだが、この小説のおもしろさは上記のような造本によって生まれているわけでは、ない。このすぐれて自由なレイアウトは菊地信義が手がけ、福永との積極的な共同作業を通して実現したものだが、しかし、この形式は福永の小説そのものが示している豊かさに呼応する選択肢のひとつであり、その逆ではない。強引に例えれば、美術作品があってそれに適する展示空間を設計したとはいえても、ある空間を前提としたあるいはその空間と共にあるスぺシフィックなものとして作品が作られているのではない、ということ。またもちろん、既成の額の中に交換可能な絵画を入れてみたわけでもない。むしろ交換可能なのは形式の方であり、小説を支える形式が交換可能なものだということを特殊な形式をもって示しえた、ということがこの小説集の美点だと思う。
 例えば水村美苗の『私小説 from left to right』、これも左開き横組みの小説である。12歳でアメリカに渡りバイリンガルになりきれなかった著者によるこの英文混じりのテキストでは、日本語で小説を書くということの自明性への懐疑、英語−日本語という言語の非対称性が物質的に定着されていた。また例えば、文字を使ったビジュアルアートということなら、私たちはイチハラヒロコを知っている。「現代美術も楽勝よ。」といったテキストを彼女は、フォントの種類と大きさ、色、レイアウト、支持体等を明確に指定してアウトプットする。福永の場合も、今回の本ではデザイナーや出版社との共同作業の中でかなりそれらを指定したはずだ(たぶん)。にもかかわらず、そのような形式で「なくてもよかった」。実際、この本に掲載されている小説のいくつかは、雑誌での初出の際には縦組みであった(ただしそのひとつはカラーページに掲載、部分的に文字にも着色)。つまり重要なのは、小説と呼ばれているテキストにもアウトプットにおいて多くの選択肢があることを示すことであり、読む側からいえば、右から順番にページをめくらなくても、小説を読む権利がある、ということにもなる。
 もちろん、右開き縦組みの通常の装幀もひとつのアウトプットの形式である。しかしこれは、あまりにも強く日本語の「小説」システムに組み込まれているので、通常意識することはない。意識しないまでに透明になったこの種の形式をイデオロギーと呼んでもいいだろうが、そのために私たちはふつう小説を読む際に、テキストを読むのではなくしばしばそのシステムの中で遊ばせてもらっているだけ、ということにもなる。「アクロバット前夜」における装幀の試みは、そのようなシステムを揺さぶることによって、私たちの目を「小説」という制度ではなくテキストそのものへ向ける効果を生むだろう。[*レイアウトに関して付け足せば、右へ右へ延びていく文章というのは、欧文の書籍というよりはむしろディスプレイ上で見るテキストデータに近い印象がある。文学作品をディスプレイで読むという行為はまだ一般的でないようだが、そうした方がより自由なテキストとして読めそうに思うのだが、どうだろうか。]
 テキストについて少しだけ説明すれば、例えば、所収の『読み終えて』では登場人物AからB、BからAへの手紙というかたちで話が進んでいく。ところがその手紙は互いに部分的にしか届かない、届いたかどうかもわからない、届いても本当に相手からのものか「絶対に」確認できない、という状況の中で次第にAとBの、「A」と「B」としての輪郭が崩れていく、同時に、時間の前後関係および空間の位置関係が不分明に、というよりむしろ錯綜して重なり合ってくる。『アクロバット前夜』『屋根裏部屋で無理矢理』『三か所の二人』(これらのタイトルの「分・別」のなさにも注意)といった他の作品においても、ある人物が同時に別の場所にいて、私は他人でもあり、しかも時間は各登場人物に対して不平等に流れていく。物事は唐突に起こるがその唐突さ自体は決して問題にされず、ごく瑣末な細部への捕らわれおよびごく瑣末な細部の予測への捕らわれによって彼らは動き回る。そして小説そのものも、余韻を残すことを拒否するかのように唐突に終わってしまう。[*どうも高尚な小説だという印象を持たれたら不本意なので急いで付け加えるが、これらの小説はしかも、笑える。]
 もし「アクロバット前夜」を(面倒がらず)通して読むなら、それらのテキスト自体が上記のような複数的な構造をもっているがために、アウトプットの形式についても開かれた選択肢が生まれるということを、容易に理解してもらえるだろう。
 この小説集については、発行所のリトル・モアで紹介されているし、また福永は昨年の灰塚アースワークプロジェクトにおけるアーティスト・イン・レジデンスに参加しているので、その時の様子もホームページでどうぞ。
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書名:アクロバット前夜
著者:福永信
発行:2001年6月1日 株式会社リトル・モア

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