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香川  毛利義嗣
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exhibition小沢剛 讃岐醤油画資料館

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 これはただ1点の作品による展覧会=博物館オープンの予告、ということになる。名称は「讃岐醤油画資料館」、設計・制作・陳列が小沢剛、施工主は鎌田醤油株式会社である。
 今年3月に開館した福岡アジア美術館の第1回トリエンナーレに同作家の「醤油画資料館」が出品されていた。香川県坂出市に立地する老舗の鎌田醤油株式会社の社長である鎌田郁雄氏は、これを半ば偶然に発見し入手したいとの意志を直ちに当地で強く表明したが、この福岡バージョンは物理的に保管が困難であったためその他の理由で、同県国分寺町の佐野画廊の協力のもと、今回の讃岐バージョンが作られることになったと伝え聞く。いかに本業が醤油会社だとはいえ、その稀なセンスと実行力にやはり人は深く敬服すべきである。というわけで、この資料館の展示作品は今回新たに構成されたものであり、8月末現在でまだ作業が残っているものの、ほぼ完成された状態となって内見会がな行われた。
 まだ新しい広い倉庫の一画に、高さ2メートルほどの壁に囲われた「資料館」が設置されている。内部はいくつかのコーナーに仕切られており、古代から現代にいたる「醤油画」関係の資料が時代を追って並べられている。アジア美術館では、「資料館」のごく強い醤油の臭いが、当該展示室に立ち入った日本人たちを食虫植物のように引きずり込んでいたが、今回はそれほどまでの臭いはない。どちらにしても、実際日本のあちこちにありそうな古びた資料館をさらに侘しくしたような小沢的ショボさが充満した空間だといえるが、加えて壁や展示室および展示品の物理的な小ささが、妙に中途半端な閉塞感を醸し出している。もちろんそれらは意識されているものであるだろうし、いわば身に覚えのあるような種類の貧乏くささが「資料館」の重要なポイントとなってもいる。以下この「資料館」の説明を試みる。
 まず、いうまでもなくこの「資料館」は美術史および美術館、日本画同時に洋画、ついでに現代美術を素材にしたギャグである、という側面が一つある。「醤油」を使うこと自体ですでに笑いをとれるが、それらの「資料」(南蛮醤油画屏風から秋山醤徳太子まで)をわざわざ自ら描き制作することの無為な真剣さによってこのギャグは増強される。ところで、醤油を用いるということは実は危険な要素を含んでいる。すなわち、あまりにも日本的(と見なされている)な素材であるだけに、それを使用しているという事実性のみが注目され、実際には相当程度に陰影を持ったこの「作品」の細部が等閑視されやすいという危険である(洋画も日本画も現代美術もどれもこれもまったくこの腰くだけの醤油画そのものじゃんか、というような種類の感想をストレートに導き出すという意味で)。同様のことは例えば小沢の「ミルク道」についてもいえるかもしれない。茶道を茶化している、という事実性だけがそのパフォーマンスから遊離し、むしろ繊細ともいえるそのニュアンスから人は遠ざかってしまう(といっても、それもまた彼のやや屈折した誘導言語の一部となっている面もあるが)。
 さて、とにかく彼は「醤油」をある種のシールド、隠れ蓑としつつ、「美術」に対する観念的批評を、作ることによって肉体と接触する具体的なレベルへと引き寄せる。したがって、対象とするオリジナルは観念的であるほど、その「落差」という点では効果的になる。「国宝」とか「国際的」とか、あるいは「前衛」なものであればなおさら申し分ない。実際にいまどれだけ多くの人間が、南蛮図に、曾我蕭白に、坂本繁二郎に、篠原有司男に、草間彌生に、イメージ上のものではないと言い切れるリアリティを感じられるのか。そのギャップが大きいほど、「醤油画」はますます際立つ。この内見会で行なった自らの作品解説の中で小沢は、彼が描いた醤油画の各オリジナルに対して、必ずしも一般的知識や興味以上の傾倒がない、あるいはないように思われることを気にしない、ということを明らかにしていた。つまり、彼が批評対象としているのはある種フェティッシュな「一個の」作品への没頭、ではなく、広範に流通する、多分にあいまいで観念的な「美術」へのゆるやかなノスタルジーである。「広範に」というのは、見る私たちはもちろん彼自身も覆われている、ということだ。アジア美術館で彼の資料館を初めて見た時、私は強い興味を感じながらも、その一見楽屋オチ的な表情に疑問を持った。オリジナルを知っている、ということが一種の観客選別装置になる、ということをはからずも(もしかしたら確信犯的に)遂行した作品ではないか、という風に。が、おそらく、彼の志向が「美術」にあるとしても(そう、彼は同世代の少なからぬアーティストのようにアニメやマンガやロックやいわゆるサブカルチャーを作品の主要なモティーフとしたことはない)、それはかつてあったかもしれない「美術」への想像上の回帰ではなく、かつてなくいまだにありえない現実の美術「作品」への熱望だと、思う。
 小沢の作品はノスタルジックである(ではない「日本/美術」を私たちは知覚したことがあっただろうか)。と同時に、そうではない現実の中での強度そのモノへの意志との間を揺れている。その揺れの振幅が人をしてその作品へ注視させる(鎌田氏が積極的にそうであるように)。今年東京で行なっていた昭和40年会のグループ展での彼の作品は、外国人も含めたアーティストやそうでない何人もの人に、遠眼鏡に見立てた筒を目に当ててもらい、そこで実際には見えない気持ちのいい風景を眺めてもらう、というコミュニケーションを記録したものだった。小沢はいったいどこに行きたいのだろうか。
あるいは、東京都現代美術館の「Modest Radicalism」展のカタログに寄せた「私は−なので−な表現をする」と題する文章の中で彼は、「私は幼い頃母親に、一枚の絵でも飢えた子供を救うことが出来ると聞き、それはきっとあり得るに違いないと思い、いつの日かそんな表現をする。」と書いている。これはレトリックではないはずだ。ニヒルでなくては壊れてしまう、ニヒルであり続けても壊れてしまう、という日常が決して比喩ではない社会の中で、「いつか」なものが「美術」という相対的な普遍であるかもしれないという証明を絶望的にであれ実践すること。そのことの可否はたぶん誰も答えることはできない。ただ、小沢はおそらく、例えば「地蔵建立」のシリーズ(あれらの写真そのものの清明さに人はより注意を向けるべきだ)において加速されてきたような厳しさを、画廊、茶道、醤油、布団といった魅力的ではあるが半面クリシェとなりやすいガードを徐々にスキップする方向で表現していくだろう(「地蔵」がますます小さな痕跡になっていったように)。いずれにしても、私たちが彼の作品に共感するのは、上述の振幅の激しさゆえであってメディアあるいはモティーフの選択における機知にではない。
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会場:鎌田醤油株式会社(香川県坂出市本町1-6-35)
会期:1999年10月16日(土)〜
開館=火・木・土 9:00〜17:00
入場料:200円
問い合わせ先:tel:0877-46-0001/fax:0877-45-5303(鎌田醤油株式会社) 
tel:087-874-5268(佐野画廊)

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report学芸員レポート[高松市美術館]

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 9月18日から高松市美術館で「コミュニティ・カレッジ'99[芸術コース]」が始まる。このレクチャー+パフォーマンスのプログラムも今年で9回目、これまで述べ75講座、90名近くの講師に来てもらってある程度の効果を残してきたと思うが、経費および行政上の理由から今年で終了することが決まっている。各回の内容等は次回以降レポートするつもりなので、ここでは少しだけ前振りを。
 このシリーズで、マンガについて具体的に話してもらう予定の人が二人いる。竹熊健太郎と藤本由香里、編集者兼ライターであることでも共通している。竹熊は自著の「サルまん」や「マンガの読み方」などでも明らかにしているように、マンガをマンガとして語る、すなわち、美術や文学や映画の批評言語の流用ではなく、絵と言葉とコマ割りといったマンガ表現の固有性に沿った批評の言語を見出していくべきだという立場を基本的にとっている。確かに、そのようなテキストが現実に非常に乏しい状況である以上、これはごく的確なスタンスに違いない。一方、藤本の書く文章においては、マンガのビジュアル的要素(絵、コマ割り等)に触れた箇所はほぼ完全になく、もっぱら(特に少女)マンガのナレーション、セリフ、物語に関して語っている。これだけを見れば彼女は、美術史家や批評家がしばしば行うように、何らかの自らのイデオロギーを説明するための有効な素材としてマンガを使っているだけのようにも見える。しかし、彼女の濃密な著書(特に「快楽電流」)を読めばすぐ気づくように、マンガは彼女にとって複数の選択可能な素材のひとつといった性格のものではない。文学でも映画でも美術でもなく(少女)マンガでこそ彼女の思考が活性化する、という点に、「マンガ」という表現の独自性がいわば背後から照射されているように思われる。加えていえば、故意かと思うほどにそこで語られていない少女マンガのビジュアル的要素の無意識における制度的強度を、むしろ語られないことによって想起せざるをえなくなる。彼女の現在の思考の射程は、ごくおおざっぱになるが、ジェンダー論とセクシャリティー(端的には性的欲望、あるいはポルノ)の関係という、これまであまり記述されてこなかった領域にある。今回、いってみれば「サルまん」とフェミニズムというどうにも関連づけ難いものが交差することになるが、その結果は後日。
 ということで、概要を以下とりあえず広報風に。

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9月18日(土) 「映画をつくるということ」
篠崎誠[映画監督]
1963年生まれ。95年の「おかえり」でベルリン映画祭最優秀新人監督賞、モントリオール世界映画祭新人監督賞などを受賞。今春、ドキュメンタリー「ジャム・セッション 菊次郎の夏〈公式海賊版〉」を完成、ロカルノ映画祭などで上映。現在、立教大学で講師を勤めるかたわら、新作「忘れられぬ人々」の制作準備中。

10月8日(金) 「森岡君とMr.さん それはS&M」
Mr.(岩本正勝)[アーティスト]+森岡友樹[アーティスト]
アニメキャラを使った作品などでアメリカを拠点に活動するミスター(1969生)と、フェティッシュな写真で脚光を浴びる森岡(1976香川生)。若手アーティスト達が運営するHIROPON FACTORY(村上隆主催)のメンバー2人のパフォーマンス&トーク。司会は同FACTORYマネージメントディレクター花澤武夫。

10月22日(金) 「マンガ表現の独自性とは何か」
竹熊健太郎[編集家、マンガ原作者]
1961年生まれ。桑沢デザイン研究所を経てフリーの編集者兼ライター兼マンガ原作者として活躍。自称「編集家」。著書に「サルでも描けるまんが教室」(相原コージと共著)、「マンガの読み方」(夏目房之介らと共著)、「私とハルマゲドン」、「箆棒な人々−戦後サブカルチャー偉人伝」などがある。

11月5日(金) 「日常の中で、ちょっとだけコワれた人々について。」
岡田裕子[アーティスト]
1970年生まれ。多摩美術大学卒。「〈私〉美術のすすめ−何故WaTaKuShiは描かれたか」(板橋区立美術館)、「ラヴズ・ボディ−ヌード写真の近現代」(東京都写真美術館)などに出品、写真や言葉など様々なメディアを使った活動を展開。人々のコミュニケーションの問題を扱った作品が注目される。

11月12日(金) 「私の分身・私の居場所−少女マンガの中の“もう一人の私”−」
藤本由香里[評論家、編集者]
1959年生まれ。東京大学卒。現在、筑摩書房で書籍編集者として働くかたわら、コミック、女性、セクシュアリティなどをテーマに活発に評論を行う。著書に「ニュー・フェミニズム・レビュー」(共著)、「私の居場所はどこにあるの?−少女マンガが映す心のかたち」、「快楽電流−女の、欲望の、かたち」などがある。


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