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連載
美術の基礎問題 連載第11回
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1.美術館について
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(4)近代美術館――2

 近代美術館というとだれもが思い出すのは、ニューヨークの近代美術館ではないだろうか。この美術館の愛称「MoMA」は、単に「Museum of Modern Art(近代美術館)」を略しただけだから、日本語でいえば「近美」といってるようなもの。にもかかわらず、「MoMA」といえばニューヨークの近代美術館のことを指す固有名詞になっているのだから、まさに近代美術館の代表というほかない。
MoMAが近代美術館の代表的存在になったのは、このようにまずなにより名称に「近代」を冠した初の美術館だったからであり、それが成功したからである。MoMAの設立は1929年のこと。パリの国立近代美術館は1937年(正式に開館したのは第2次大戦後の1947年)だし、日本初の近代美術館である神奈川県立近代美術館は1951年、国立近代美術館(東京)がその翌年の1952年だから、その間の世界恐慌や第2次大戦のことを差し引けば、MoMA以降続々と近代美術館が誕生したわけである。それはとりもなおさず、MoMAの先導した「近代美術館」の理念が世界に広く受け入れられたということの証にほかならない。

 だが、近代美術館を単に「近代」を冠した美術館というだけでなく、同時代の美術を対象とする美術館と捉えれば、MoMAに先行する美術館はいくつかあった。その最初の例がパリのリュクサンブール美術館である。
 リュクサンブール美術館はMoMAの誕生より1世紀以上も前、王政復古期の1818年にルイ18世が同時代の美術家の作品を展示するため開設したもの。もともとリュクサンブールは、17世紀にアンリ4世のもとにメディチ家から嫁いだマリー・ド・メディシス(ルイ13世の母)が設営した、名高い庭園をもつ宮殿だった。そのため、彼女がルーベンスに描かせた24点の大連作「マリー・ド・メディシスの生涯」も、当時この宮殿の大回廊を飾っていたという(現在はルーヴル美術館にある)。1750年には、ルイ15世がルーヴル宮殿やヴェルサイユ宮殿に散在していた美術コレクションをこのリュクサンブールに集め、週に2回、限られた市民にではあったものの公開する。ルーヴルの公開に先駆けること半世紀近い。
 ルーヴル美術館の開館後はいったん閉じられたが、ルーヴルが古典美術の殿堂だったために現存作家の作品はコレクションされず、リュクサンブールが同時代の美術館として1818年に再開することになった。おもしろいことに、ここに収蔵された現存作家の作品は、死後10年たつと念願のルーヴル入りを果たせたということである。そのためリュクサンブール美術館は当時、「ルーヴルの待合室」と呼ばれていたという。
 ただし、同時代の現存作家といっても、リュクサンブールはアカデミックなサロン系の美術家が中心で、たとえば印象派のようにまだ評価の定まらない新しい傾向は長らく敬遠されていた。その意味ではリュクサンブール美術館は、いまからいえば「近代的(モダン)」でも「同時代的(コンテンポラリー)」でもなかったともいえる。
 20世紀に入ると、リュクサンブール美術館のコレクションはルーヴルやジュ・ド・ポームなどに分散される一方、リュクサンブールを「近代的」にグレードアップした国立近代美術館が、1937年のパリ万博のために建てられたパレ・ド・トーキョーに入ることになった。ところが第2次大戦勃発のために計画は中断し、実現するのは前述のとおり1947年になってからのこと。この国立近代美術館はその後、1977年に完成したポンピドゥ・センター内に移り、パレ・ド・トーキョーには市立近代美術館が開館する。つけくわえれば、現在のリュクサンブール美術館はテンポラリーな展覧会場となり、「印象派美術館」ともいわれたジュ・ド・ポームのコレクションは1986年に開館したオルセー美術館に移管され、現在は企画展専用の現代美術ギャラリーになっている。こうしてパリの美術館はおよそ2世紀かけて、コレクションの移動と再編を繰り返しながら強化されてきたのである。

 話をMoMAに戻そう。MoMAが近代美術館の代表とされるのは、もちろん初めて「近代美術館」と名乗ったからだけではない。なによりその活動が従来の美術館、すなわち第1世代の美術館とは一線を画す革新的なものであり、本質的に「近代的」「同時代的」だったからである。
 まず、コレクションの対象が同時代美術であることは繰り返すまでもないが、コレクションの常設展示だけでなく、あるテーマに基づいて作品を集めて並べる企画展示にも力を入れたこと。それによってモダンアートの歴史的展開を跡づけ、モダニズムの進歩史観を確立したこと。また、絵画や彫刻だけでなく、写真、デザイン、建築、映像といった周辺ジャンルにまで領域を拡張し、近代以前や欧米以外のプリミティヴ・アートにも視野を広げたこと。さらに理想的な展示空間として、白くてニュートラルな「ホワイト・キューブ」を確立したこともあげなければならない。
 これらはいまでこそ近代美術館の常識となっているばかりか、モダニズムの破綻を招いた元凶として批判されることさえある(「モダニズム」をもじって「モマイズム」と揶揄されたりする)が、裏返せば、それだけMoMAの理念と実践に以後続々と誕生する近代美術館が追従したということであり、モダンアートの流れそのものにも決定的な影響を与えたということだ。そして、これらの路線を敷いたのが、初代館長を務めたアルフレッド・バー2世だった。
 彼はまず、1929年の美術館のオープニングに「セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホ展」を企画している。いま見れば人気画家のオールスター展だが、アメリカでこのようなヨーロッパのモダンアートの源流を本格的に紹介する展覧会は、1913年にニューヨークの兵器庫で開かれた伝説的な「アーモリー・ショー」に次ぐものだった。しかも、オープンの10日後に株価が急落し世界恐慌が始まったというのに、5週間の会期中に約5万人が訪れるという盛況ぶりを見せた。
 1936年には「キュビスムと抽象芸術」展、「幻想芸術、ダダ、シュルレアリスム」展を相次いで開催。注目すべきは、前者の展覧会でモダンアートの歴史的展開を体系づけたチャートを作成したことだ。たとえば、セザンヌ→キュビスム→構成主義→バウハウス、とか、ゴッホ→フォーヴィスム→表現主義→ダダ→シュルレアリスム、といったような、いまでは現代美術の「常識」として陳腐化さえしている図式を示したのである。
 領域の拡張でいえば、名もないデザイナーによる工業製品や機械の部品などを集めた1934年の「マシン・アート展」を筆頭にあげるべきだろう。これは建築部門を統括していた建築家のフィリップ・ジョンソンが企画したもので、そのときの出品「作品」が建築・デザイン部門のコレクションの核となった。これまで第1世代の美術館では装飾美術や工芸はコレクションされていたものの、このような産業革命以後の工業デザインがコレクションの対象になることなど考えられなかったことだ。
 また、1933年には中南米の民族芸術を集めた「モダンアートのアメリカの源泉」展が、1935年には「アフリカの黒人芸術」展が開かれている。これらは一見「モダンアート」の範疇からはずれるようだが、その延長線上で1984年に開かれた「20世紀美術のプリミティヴィズム」展において明らかになったように、「近代以前」「西洋以外」の「未開の芸術」をモダンアートの文脈のなかに並べて取り込もうとする姿勢において、まさに近代美術館ならではの企画といえるのだ。

 ともあれ、このように思いきった活動が可能だったのは、アルフレッド・バーがずば抜けた才覚をもっていたこと、MoMAが3人の裕福な女性の発案による私立美術館だったため、その才能が発揮できる環境が整っていたことのほかに、アメリカは幸か不幸か美術館の歴史が(もちろん美術史も)浅く、リュクサンブールのような19世紀的な前身をもたなかったことも大きいかもしれない。すなわち、第1世代の美術館に引きずられることなく、ほとんどゼロの地点から同時代の美術館を発想できたのである。近代美術館とは、単に近代美術を集めた館(近代美術・館)であるだけでなく、美術館としての姿勢そのものが近代的(近代・美術館)でなければならないのだ。


[主要参考文献]
吉田城「大美術館の誕生」、『武蔵野美術』NO.106
林洋子「生きた美術(アール・ヴィヴァン)の場を求めて」、同上
谷川渥+藤枝晃雄「現代美術とMoMA」、同上
岡部あおみ『ポンピドゥー・センター物語』紀伊国屋書店
岩渕潤子『美術館の誕生』中公新書
Sam Hunter“INTRODUCTION”The Museum of Modern Art, New York, Abrams/The Museum of Modern Art

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