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特集=万国博覧会
三浦展
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大阪EXPO'70
EXPO70 シンボルマーク
▲大阪EXPO'70の
シンボルマーク
1939 ニューヨーク万博ポスター
▲1939年のニューヨーク万博の
ポスター
ウェスティングハウス社のパヴィリオン
▲ウェスティングハウス社の
パヴィリオン
1940ニューヨーク万博ポスター
▲1940年のニューヨーク万博の
ポスターでは愛国主義的色彩が強まった。
「典型的なアメリカの家族」コンテスト
▲「典型的なアメリカの家族」
=Typical American Familyを選ぶコンテストに入賞した家族。
大阪万博:三菱未来館
▲「大阪万博:三菱未来館」
大阪万博では日本の未来の都市生活が描かれた。
図版出典=「日本万国博覧会 上」(国際情報社、1970)
今年は1970年に開催された大阪万博から30周年であり、当時少年だった世代による大阪万博関連の本『EXPO70伝説』(メディアワークス)という大変興味深い本も出版されている。
また、若者向けの雑貨屋や本屋には、岡本太郎の太陽の塔の模型など、万博関連のグッズが置かれていることが多い。30年前に万博を見た世代だけでなく、万博後に生まれた世代も、30年前のあの歴史的なイベントに強い魅力を感じているようである。どちらの世代にとっても、大阪万博は「古典的」な「輝ける未来」の失われた美しいイメージとして圧倒的な力を持っているのであろう。
が、大阪万博は本当のところ何をわれわれにもたらしたのであろうか。それは、いつまでも輝き続ける失われた未来像か。あるいは、失われたのは未来像だけなのか?

大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」である。これは、産業革命以来の技術進歩が、1960年代にいたって、様々な問題を人類にもたらしたことを踏まえ、単に楽観的に未来社会を示すだけでなく、それらの諸問題をどう解決し、調和ある進歩を実現するかというテーマを掲げたものであった。
しかも、日本がまさに和を以て貴しとなす国であるということから、その調和という課題がまさに日本および東洋の文化にとって極めて親和性の高いものであると考えられた。近代的な技術文明、産業文明と、日本的、東洋的な精神文化とを結びつけることで、人類全体にとっての進歩と調和を生み出そうとしたのである。
もちろん、そうした思想によって新たなナショナリズムが喚起されることをいぶかる声も当時は少なくなかった。60年安保をピークとする政治運動が所得倍増計画という経済的なアメと東京オリンピックというナショナリズム的な祭典によってかき消されたように、70年安保を中心とする政治運動もまた万博によって雲散霧消することが恐れられたのである。

だが、ヴィクトリア朝の全盛期に行われた世界最初の万博、ロンドン万博をはじめとして、万博というものが本来技術文明礼賛とナショナリズムの祭典として存在してきたことは言うまでもない。そうした万博の歴史の中でも、20世紀の大衆消費文化という観点で、また特に1970年代以降の日本の大衆消費社会の発展にとってとりわけ重要な意味を持つのが1939年に開催されたニューヨーク万博であろう。
ニューヨーク万博は、1939年と40年に開催された。それは、自国の独自の価値観と生活様式を確立しようとしていた1930年代のアメリカが、古めかしい階級が残存する暗黒のヨーロッパ社会に対抗するために、また同時に、その階級社会への批判から生まれた共産主義とファシズムに対抗するために開催されたと言ってよい。

アメリカは、大量生産による安価な商品によってみすぼらしい労働者を豊かな消費者=新中間層に変え、それによって労働問題を解決しようとした。そして自動車とハイウエイを基礎とする郊外(田園都市)の建設によって都市問題を解決しようとしたのである。それは、まさにデモクラシーと消費資本主義が結合した独特のアメリカン・ウエイ・オブ・ライフを大衆に提示して見せる一大国家イベントであった。
ニューヨーク万博のテーマは「明日の世界の建設」。博覧会の計画者たちは、明日の世界は消費社会の中にあることを示そうとした。それまでの博覧会のような「生産者の博覧会」ではなく、ニューヨーク万博は「消費者の博覧会」であるべきだと考え、アメリカン・ウエイ・ライフを示さなければならないと考えたのである。こうしてこの万博では、デュポン、AT&T、フォード、GM、ウェスティングハウス、ボーデン、ハインツなどの民間企業が多数参加し、生産機械ではなく最終消費財を多く展示することになり、なかば企業見本市的な性格を帯びたのである。

メインテーマ館の中には、2039年のメガロポリス、デモクラシティが作られ、その展示に際しては次のようなメッセージが流れた。「男たちと女たちが行進してくる。勝利の歌を歌いながら。それは明日の世界の真のシンボル。何百万人もの、何億人もの人々が、行進し、働き、歌うことができないなら、明日の世界は実現しない。腕を組み、牧師も、農民も、炭坑夫も、主婦も、砂利取り人も、野球選手も、電話交換手も、大臣も、綿摘み人も……すべての国の男も女も勝利の行進をしている。彼らは明日の世界を建設したのだ。」
このメッセージは実に不思議なほど社会主義的である。そこには当時アメリカでも強まっていた労働運動の矛先をかわす意味があったことは間違いない。しかし、アメリカでは労働運動ではなく消費が労働者を勝利させるのだ! それがニューヨーク万博のテーマであった。

このように消費主義的なニューヨーク万博においては、その「消費の単位」(consumer unit)としての家庭という考え方が中心にあり、「平均的アメリカ人」「平均的アメリカ家族」「平均的消費者」という観念が一貫して存在していたと歴史家のサスマンは言っている。特に40年の万博では、第二次世界大戦の勃発によって愛国主義的な傾向が強まり、「明日の世界」というテーマは「平和と自由のために」というスローガンに変わり、ポスターには平均的な中流の中年男の姿が描かれ、「アメリカ人であることをあなたは誇りに思う」というコピーがつけられた。
典型的アメリカ家族を選ぶコンテストも行われた。それは、地方新聞へのエッセーコンテストと写真審査を通じて48州それぞれから家族が選ばれ、当選者は新型フォードに乗って無料で万博に招待され、連邦住宅局によって建てられた家に1週間ただで住み、その代わりにその典型的家族自身が展示されるというものであった。典型的家族には父親と母親と息子と娘からなるアメリカ生まれの白人の家族が好まれた。その背景には当時流行していた優生学があったという。

こうして、アメリカン・ウエイ・オブ・ライフという思想は、消費と家族とナショナリズムを結びつけながら、一つの強固なイデオロギーとして完成していった。そのイデオロギーが第二次大戦後の日本および世界に大きな影響をふるったことは言うまでもない。とりわけ、日本の戦後はアメリカ型の大衆消費社会の実現によって、社会問題、経済問題を解決しようとした。東京オリンピックも大阪万博もその大衆消費社会の建設という目標の中で戦略的に位置づけられていたイベントであることは言うまでもない。

大阪万博は、国内政策的には、重工業主体から情報、サービスなどのソフトな産業への転換を促進すること、そして東京への過度な機能集中を防ぎ、日本全体の均衡ある発展を促すことを目指したものであり、おそらくはそれによって国民の中にある政治運動を抑制しようとしたものだと言える。言い換えれば、「進歩と調和」の名においてそれまでは東京など大都市が独占する形であった「豊かさ」を地方にも広め、いわば豊かさを平均化し、平均的な消費者としての日本人を増大させることであったと言える。
万博には、地方からの入場者も多かった。48%が会場から100H圏内からの客だが、300H圏以上も36%いる。当時の交通事情から見れば、相当大規模な日本民族の大移動があったと言える。しかも農協、修学旅行などの団体旅行が多かったから、地方の多くの人々が万博を見ることによって、そこで展開されている未来像と自分たちの故郷での暮らしとの落差に愕然としたとしても不思議ではない。リニアモーターカーも万博で展示されたが、その開業はいまだに該当地域の悲願である。万博が描いた夢が地方開発に波及した典型的な例であろう。

そして万博が終わると、田中角栄は日本列島改造論を打ち出し、日本中の地方に高速道路と、新幹線と、空港をつくろうとした。それによって大都市の過密が軽減され、地方は、集団就職も出稼ぎもせずに雇用を確保できるようになり、経済的に発展していくことができる。それが雪深い新潟の農村に生まれた田中の夢であった。 田中政権の崩壊後も、地方の時代、田園都市構想、国土の均衡ある発展といったスローガンの下に、大都市圏だけに集中していた生産拠点は地方にも分散し、高速道路と新幹線が整備され、地方で雇用が創出されて、集団就職がなくなり、出稼ぎは減少した。都市型の豊かな消費生活が地方でもしだいに可能になった。
こうした生産拠点の地方移転とともに、地方振興のために行われたのが、まさに博覧会である。1980年代には神戸ポートピアが開催されて大成功を収め、バブル時代には日本中のありとあらゆる地方で博覧会が開催された。それらのほとんどが、東京一極集中に対抗して地方を活性化することを大きな目的の一つに掲げた。

大阪万博が人類に進歩と調和をもたらしたかどうかは知らない。しかし、少なくとも日本国内についていいうることは、大阪万博以後、都市と農村の進歩の格差を縮め、都市と農村の調和ある発展を目指すという目的のために国土の大改造が行われ、日本中の地方という地方に消費社会が広がり、ロードサイドには安売店とファミリーレストランとコンビニとテレクラができたということであろう。つまり日本中の均質化が進み、日本人が「平均的な消費者」になったのである。しかしそれが本当に進歩や調和と言えるものかどうか。むしろ過去20年間の博覧会によってこそ、日本はいわゆる「土建国家」になってしまったと言えるのではないだろうか。

[みうら あつし 現代文化批評]

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