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 エンプティ・ガーデン展@ワタリウム美術館……林 卓行
 

エンプティ・ガーデン展
ロイス・ワインバーガー「ルーフ・ガーデン」
ワタリウム美術館屋上、1998年8月撮影
写真:ワタリウム美術館
 「庭」というイメージ、あるいは表象としての「庭」は、それ自体魅力的だ。思いつくままに「庭」をタイトルに含む作品を挙げてみよう。デレク・ジャーマンの映画『ザ・ガーデン』、マリオ・プラーツの本『官能の庭』、松浦寿夫の絵画『庭園論』…。こうしてみると、人工的、知的、あるいはそれゆえに耽美的、退廃的といった形容詞が、庭にはふさわしく感じられる。
 庭の具体的な映像で個人的に印象に残っているのは、デヴィッド・リンチの映画『ブルー・ベルベット』の冒頭のシーンだ。青空、白い垣根、緑の芝生、そして真っ赤な花という典型的な「アメリカン・ガーデン」。それをロー・アングルで捉えた映像の奇妙に鮮やかな色彩は、どこか普通ではない印象を与える。表面的には平和なアメリカの小さな町、しかしその裏には歪んだ暴力が...というのは、リンチがこの映画で確立した物語のパターンだけれど、冒頭で執拗に描写されるこの人工的な色彩の庭は、その「裏」の世界を予感させて効果的だった。
 ついでにもっと個人的なことをいうと、一方で筆者は、そうした人工的なものとはむしろ対極にあるような「庭」に囲まれて暮らしてきたし、いまも暮らしている。まだ手つかずの森、というか藪があちこちに残る、郊外の古くからの住宅地。その谷底兼崖の中腹に30年ほど前からある筆者の実家には、「猫の額」程度の庭がくっついている。ところが崖下の一軒家なものだから、垣根を作る必要がない。というわけで、老祖母が勝手に植えまくった草木、そして生活臭たっぷりの水道、プラスチックの池、物干し台、ゴミを燃すためのドラム缶、物置、家庭菜園などなどが、隣接する藪とうちの庭との境界を曖昧にし、庭なんだか藪なんだかよくわからない、いいかげんな空間が出現している。この即物的な庭から、高度に知的な「庭園論」や「歪んだ暴力」を想像するのは、ほとんど不可能だろう。

エンプティ・ガーデン展
エンプティ・ガーデン展
会場:ワタリウム美術館
会期:1999年4月24〜11月7日
問い合わせ:03-3402-3001
 前置きが長くなったが、「空虚な庭」というタイトルを聞いて想像したのは後者の実家の庭だった。「庭園論」が成立しえない分「空虚」になった庭なのだろうと、勝手に思っていたのだ。作品としては、庭とは少し違うが一昨年のミュンスター彫刻プロジェクトで話題になった、デイヴィッド/ヴァイスの「そのまんま家庭菜園」みたいな作品がたっぷりあるのだろうと期待して行った。
 ところが冒頭に展示されたヨーゼフ・ボイス作品をはじめ、出品作のほとんどが、庭に「空虚」どころか物語を充満させる(ここでもまた大判のキャプションが大活躍だ)。人工的な「庭園論」が入ってこない代わりに、自然の神秘の縮図という庭園のイメージが導入される(それともドイツ的な庭園のイメージはこういうものなのか?)。
 庭は庭であり、それ以上でもそれ以下でもないところに、あるいは自然でも人工でもないところに、主知的でも主情的でもないところに、庭の愉しみがある。たとえうっとうしい物語に浸されているにしても、そうした即物的な庭の愉しみをひきだしてくれるのは、一年前にこの展覧会のために準備されたという(そして以後ずっと放ったらかしにされていたという)屋上の殺風景な庭(ロイス・ワインバーガー)、そして肩から聞こえてくるノイズに導かれるようにして辿り着く、建築士会館の庭(カールステン・ニコライによるサウンドの作品)、そのふたつくらいのものだ。
 とくにカールステン・ニコライの作品については、ほとんど場所に感応するようにして音が変化するのに驚かされる。両肩に小さなスピーカーをのせて、美術館の外にある指定された場所を回るのだが、最初はそれぞれの場所になにか装置があって、ウエスト・バッグのなかのMDプレーヤーに信号を送っているのではと本気で思ったくらいだ。偶然の一致かそれとも地霊のしわざか? それともたんに筆者が暗示にかかりやすい性格だということか? (レセプションの女性によると、多くの人が筆者のような感じを抱くという)。会期の長い展覧会なので、また秋にでも観に行ってみると面白そうだ。

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