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またしても、クレラー・ミュラー美術館所蔵の「ゴッホ展」が開かれるワケ

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ゴッホ展

 なんか見たことある作品ばっかだなあ……。
 Bunkamuraで開かれている「ゴッホ展」会場を一巡しての印象だ。それもそのはず、うちに帰って調べてみたら、油彩32点に水彩・素描42点を加えた計74点の出品作品は、4年前に横浜美術館で見た「ゴッホ展」と45点までが同じ作品、つまり6割強がダブっていたのだから(ちなみに前回は油彩31点、水彩・素描42点の計73点と、出品点数もほとんど変わらない)。なぜこんなにダブるのかといえば、どちらもオランダのクレラー・ミュラー美術館から借りているからである。その前回のカタログの中で、同館のエフェルト・J・ファン・ストラーテン館長は、「私たちが所蔵品を館外に貸し出すことは極めて稀なこと」と述べ、「特例として作品をお貸しする」とある。その舌の乾かぬうちに、またもやクレラー・ミュラー美術館からの貸し出しである。当然のことながら、今回のカタログにはストラーテン館長は「極めて稀」とも「特例」とも書いてない。むしろ「今回の展示によって、このような(日本とオランダの)結びつきがさらに深まることを望みます」と、これからもじゃんじゃん借りてほしいといわんばかりなのだ。これはいったい、どーなってるの?
 その問題に触れる前に、これまで日本で開かれた「ゴッホ展」について振り返ってみたい。まずは両「ゴッホ展」のカタログを参考に展覧会を列挙してみよう。

1953 「生誕百年記念ヴァン・ゴッホ展」 日本橋丸善
1958 「フィンセント・ファン・ゴッホ展」 東京国立博物館/京都市立美術館
1976 「オランダ国立ヴァン・ゴッホ美術館所蔵ヴァン・ゴッホ展」
国立西洋美術館/京都国立近代美術館/愛知県美術館
1979 「19世紀オランダ絵画展――ゴッホとその時代の画家たち」 
小田急グランドギャラリー/北海道立近代美術館/広島県立美術館
1985 「ゴッホ展」 国立西洋美術館/名古屋博物館
1986 「オランダ・コレクションによるヴァン・ゴッホ展」 国立国際美術館
1987 「ゴッホ『ひまわり』特別展観」 安田火災東郷青児美術館
1992 「ゴッホと日本」 京都国立近代美術館/世田谷美術館
1993-97 「ゴッホとその時代」展I〜V 安田火災東郷青児美術館
1995 「クレラー・ミュラー美術館所蔵ゴッホ展」 横浜美術館/名古屋市美術館

 戦前の日本では「ゴッホ展」は開かれてないらしく、仮に小規模に作品が公開されることはあったとしても目録などの文献はない。すると、日本で初の「ゴッホ展」は53年、生誕100年を記念した日本橋丸善のそれになるわけだが、時代背景や会場規模から考えてこれは、国内の所蔵品を何点か集めたものか、もしくは(いまでは信じられないことだが当時は珍しくなかった)複製画展かもしれない。
 本格的な展覧会としては、足かけ8年にわたる準備期間を経て実現したという58年の「フィンセント・ファン・ゴッホ展」を嚆矢とする。これは「アルルのはね橋」「星の夜のカフェ」「郵便配達夫ルーラン像」「糸杉と星の道」「アルルの女」といった有名作品を含めた油彩56点、素描70点の計126点が出品された大規模なもの。しかも、保険金額は15億円、入場者も50万人を超えたというから、当時としては、いや現在と比較しても破格の展覧会というほかない。それ以降の大規模な「ゴッホ展」としては、76年と85年の2展を挙げなければならないが、入場者数は76年が43万5千人、85年が39万8千人と、徐々に減っていることがわかる(以上、数字は、淺野敞一郎『戦後美術展略史1945-1990』求龍堂より)。なぜ減ったのか? それは、その後のバブル景気がひとつのヒントを与えてくれそうだ。
 バブル初期の87年、安田火災がゴッホの「ひまわり」を当時の最高値の58億円で落札して話題を呼ぶ。これを機に日本の“バブル紳士”が名画を買いあさり、価格の高騰を招いて世界中からヒンシュクを買ったことは記憶に新しい。その最たるものが、90年に大日本印刷じゃなかった大昭和製紙の斎藤了英が125億円でセリ落して世界を呆れさせた、これまたゴッホの「ガシェ博士」だった。つまり当時、ゴッホは否応もなくバブルのシンボル的存在に仕立て上げられてしまったのだ。それまで窮乏生活を強いられてきた日本人が憧れ続け、でも手の届かなかったゴッホの作品が、降って湧いたあぶく銭によってようやく手に入ったわけである。逆にいえば、ゴッホはおそらく日本人の生活が豊かになればなるほどありがたみが薄れ、待望感も減っていく存在といえるのではないか。その意味でゴッホは演歌と似ているかもしれない。

カタログ表紙
カタログ表紙

 もういちど58年の「ゴッホ展」に戻ろう。この時の主催は読売新聞社だが、その実現のために奔走した実質的な責任者は、東京国立博物館の学芸員だった嘉門安雄氏である。嘉門氏の戦後20年間の“陳列屋稼業”を振り返った『ヴィーナスの汗―外国美術展の舞台裏―』(文藝春秋)には、この時の興味深いエピソードがつづられている。いわく、「ある宣伝目的のために、当時封切中の『裸の大将』という映画の主演者と、モデルである山下清を会場の作品の前に立たせて写真を撮りたいとの申出があった」が、「ゴッホの人間と芸術の許しがたい冒涜である」と感じ「即座に断った」とか、予想以上に押しかける入場者に対応するため、会期なかばになって「会場構成をある程度犠牲にしても、作品をもっと散らして、しかも片側陳列にする以外に手はない」との結論に達し、会期中無休なので一晩の徹夜作業でそれをなしとげ、これらの作品の大半を貸し出した「国立クレラ・ミュラー美術館」の館長、ハンマーヘル博士に「君はどうして、この奇蹟を行ったのだ!」といわしめたとか……。
 ここで見落としてならないのは、「国立クレラ・ミュラー美術館」が作品の大半を貸し出したという事実である。まだ国立ファン・ゴッホ美術館が設立されてなかった当時、「ゴッホの作品は、ごく少数を除いて、ほとんどがゴッホ家の所有品か、国立クレラ・ミュラー美術館のコレクション」だった。ところが、第2次大戦中オランダと日本は敵国だったせいか、「ゴッホ家では、かたくなに日本への貸し出しを拒絶しつづけてきた」という。そこで「国立クレラ・ミュラー美術館」に的を絞って交渉し、作品の貸し出しばかりか「同館の館長であり、すぐれたゴッホ研究家・美術評論家のハンマーヘル博士が、カタログの原稿執筆から、作品選択一切に至るまでを引き受けてくれたのである」(以上「」内は前述書より)。つまり、クレラー・ミュラー美術館とは40年も前から仲よしちゃんになっていたのだ。

 さて、もうひとつ見落としてはならないことがある。そう、40年前は「クレラ」と表記していたのに、現在は「クレラー」と音引きになっていること、なんかではない。そんなことはどうでもよろしい(といいながら付け加えると、当時は「クローラー・ミューラー」なんて表記もあった)。そうではなく、昔は「国立」だったのに、いまは「立川」じゃなくて「民営化」されていることである。
 そもそもクレラー・ミュラー美術館は、貿易輸送会社の社長夫人ヘレーネ・クレラー・ミュラーが集めた美術コレクションを公開するため、1913年ハーグ市に私設美術館としてオープンしたもの。そのコレクションには270余点ものゴッホ作品が含まれており、これは個人コレクションとしては世界最大である。28年、コレクションはクレラー・ミュラー財団に引き渡され、35-37年にはオランダ国家の所有となる。38年には現在のオッテルロー近郊のホーヘ・フェルウェ国立公園内に、ヴァン・ド・ヴェルド設計による国立クレラー・ミュラー美術館が開館した。私も90年に開かれた没後100年記念の「ゴッホ展」を見に訪れたが、森の中の自然と調和したモダン建築のたたずまいや、それを取り巻くように散らばる屋外彫刻を羨望のまなざしでながめたものの、同時開催されていたアムステルダムの国立ファン・ゴッホ美術館に比べて閑散とし、さびれた風情を醸していたことも否めない。そのせいかどうか、94年に同館は民営化されたのである。
 この「民営化」がどういうものか詳らかではないが、もし日本の国立美術館・博物館の「独立行政法人化」と同じようなものだとすれば、要するに自助努力によって収益を挙げていかなければならなくなったはずだ。アムステルダムから約80キロ離れた、きわめて足の便の悪い地に建つこの美術館が収益を挙げようとすれば、その目玉商品であるゴッホ作品を他館にレンタルする以外にどのような方法があるだろう? そして、なんだかんだいってもゴッホを好きで、なおかつカネのある貸出先といえば?
 日本で「クレラー・ミュラー美術館所蔵ゴッホ展」が開かれたのは、民営化の翌年のことである。今回の展覧会は、繰り返すようだが、それからまだ4年しかたっていない。もちろんこれは憶測にすぎないが、「極めて稀」とか「特例」とかいってる場合ではないのではないか。 

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クレラー・ミュラー美術館所蔵 ゴッホ展

1999年11月19日〜2000年1月23日 Bunkamuraザ・ミュージアム
2000年2月1日〜3月23日 福岡市美術館


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