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World Art Report
市原研太郎
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ドイツにおける現代アートの状況―ヴォルフスブルクの場合
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 ドイツにおける現代アートの状況について今回はレポートしよう。ドイツの都市のほとんどは、ヨーロッパの他の国と同様、過去に産み出された作品を収蔵し展示する美術館だけでなく、現代アート・センターと呼べるスペースをもっている。1都市にあるその数や容量は、当然予算の額、すなわち都市の行政や民間から拠出される資金に比例する。しかしアートに対して、日本とは比較にならないほど積極的な支援があるドイツでも、近年その予算が縮小されていると聞いた。とりわけ、アメリカから見れば相対的に市場の弱いヨーロッパでは、公私の援助が減ることは、アートの活動に致命的な影響を与える。しかし今回ドイツを旅しながら、アート・ガイドを開いてみて、各都市のアート・センターでは、国の内外を問わず新進アーティストの紹介や、意欲的なコンセプトに基づく企画展を行なっていることが改めて確認された。アートを取り囲む社会環境に関するかぎり、ヨーロッパでは未だにドイツが現代アートの中心なのだ。

公園内にある城館
城館よりヴォルフスブルグを望む
▲公園内にある城館
(この内部に市立美術館とクンストフェラインがある)
▲城館よりヴォルフスブルクを望む
(煙突は自動車工場のもの)

 そのドイツの地方都市であるヴォルフスブルクを例にとって、現代アートの活動を探ってみることにしよう。ヴォルフスブルクは、ドイツ北部にあるハノーヴァーのすぐ近く、ベルリンからICE(新幹線)で1時間余りに位置する中都市である。この都市が現代アートで注目される理由は、目抜き通りのど真ん中に地方都市には珍しく大規模な美術館があるためだ。勿論美術館ならば、ドイツには立派なものを有する都市はいくらでもある。しかしそれが現代アート専用となるとほとんどない。同程度のものでは、ミュンヘングラッドバッハの現代美術館(80年代よりドイツで現代アートを紹介してきた先駆け的存在)が有名だが、そこには現代アートと並んでモダンアートの作品が常設展示されている。また主に企画展を行なうという意味では、ドイツの各都市にあるクンストハーレやクンストフェラインと同じ機能を果たしているが、ヴォルフスブルク美術館はその規模、内容とも他を圧倒している(むしろハンブルグ、ベルリンなど、大都市にあるそのような施設と肩を並べるといえばよいか)。
駅前にあるツーリスト・オフィスの美しい建築と親切な対応にも感じられる、この都市の文化に対する力の入れようは美術館にとどまらない。都市空間に現代アートを取り込む大胆な発想に、現代アートを都市の活性化に役立てようとの意気込みが伝わってきた。都市の広場の一つを、カッセルのドクメンタを始め数々の国際展に参加してきたドイツの現代アーティスト、ステファン・ヒューバーに委託し、彼の作り出すオブジェで満たそうという計画である。現代アートをこれだけ尊重している都市はドイツでも多くはないが、その社会的背景には、政治の積極的関与があるだけでなく、地元に自動車会社があることが経済的に大きいと思われる。駅から繁華街とは反対方向に、フォルクスワーゲン社の巨大な工場が立っているのが望まれる。その意味では、広島市や豊田市と似た条件といえよう。広島にせよ豊田にせよ、立派な現代美術館をもっているので、なおさらその類似は目立つ。しかしながら、最近の不況によって文化行政への風当たりが強い日本では、コストパフォーマンスという名目で予算が大幅に削減されている。広島や豊田でさえ例外ではないという。もはや展覧会どころではないと嘆く学芸員の声を耳にした。近年ドイツ経済が日本より順調に推移していることが、都市における現代アート支援に差をもたらしたというより、元々ドイツの方が、アートを含む現代文化に対する理解と造詣が深く、それだけその必要性を認知し、それゆえアートの社会的ステータスが高いということだろう。別の、あるいは新たな世界観の提示を使命とする現代アートは、当の社会にとって危険なものか、でなければまったく無用な存在だが、社会の矛盾や欠陥を批判して矯正したり、新しい社会を構築する変革の起爆剤になりうるのである。日本とドイツは、同じように敗戦し戦後目覚しい復興を遂げた国であるにもかかわらず、現代アートを巡る社会状況を通して、文化に取り組む姿勢に大きな違いのあることが読み取れる。

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さて、この時期美術館で行なわれていた展覧会を見ていくことにしよう。メインの展覧会として高い天井のフロアを占めていたのは、“Let's Entertain: Life's Guilty Pleasures”と題されたグループ展だった。
Let's Entertainの展示風景 Let's Entertainの展示風景 Let's Entertainの展示風景
Let's Entertainの展示風景 Let's Entertainの展示風景 Let's Entertainの展示風景
Let's Entertainの展示風景 “Let's Entertain: Life's Guilty Pleasure”の展示風景

この企画展は、すでに1年前アメリカのミネアポリスにあるウォーカー・アート・センターで開催されたもので、最近現代アートで顕著な傾向となりつつある娯楽的要素の強い作品だけを集め、その全体を捉えようとする非常に野心的な試みである。カタログのプロローグに掲げられた「俺はもう運動選手じゃない。エンターテイナーさ」というデニス・ロッドマンの言葉から容易に推察されるように、展示された作品は、アーティストが鑑賞者をして真剣に考えさせるためにではなく、もっぱら楽しみや気晴らしを与えるために作られた。ただ私から見てよいと思われる作品は、娯楽的要素があっても、それを超えて感動を呼び起こしたり、それを批判的目的に利用しているものである。出品作では、リネケー・ダイクストラ、ダグラス・ゴードン、ジリアン・ウェアリング、ロドニー・グラハム、ダン・グラハム、ポール・マッカーシーがそれに該当する。

ピオトル・ウクランスキー ジリアン・ウェアリング
リネケー・ダイクストラ ロドニー・グラハム
▲ピオトル・ウクランスキー(部分)
▼リネケー・ダイクストラ
▲ジリアン・ウェアリング
▼ロドニー・グラハム

しかしながら展覧会の趣旨は、作品に優劣をつけることではないだろう。というのも、タイトルにまず「楽しませよう」とあるように、美術館を訪れた人々に、今までとは異なる鑑賞の仕方を提起することが意図されているからである。鑑賞者は、作品と距離を置いてしかつめらしく対峙するのではなく、作品と同じ空間を共有し、できれば身体で作品に接触することによって「楽しむ」のである。美術館を、映画館か遊園地かクラブのような空間に変貌させること。そうした経験を享受させた上で、この展覧会はタイトルの副題にある、エンターテインメントを「生きることの罪と享楽」の側面を考慮するように仕向ける。つまり、なにも考えず「楽しむ」ことの根底に潜む悪への反省を促がすのだ。それは、アートの社会的役割に関する省察にまで及ぶだろう(ただし、アートをエンターテインメントにすることが問題なのではない。エンターテインメントをいかにアートにするかが問題となる)。エンターテインメントvsシリアスという対決図式が、現代アートの活動の勢力を二分しているかに見える現在の不幸な事態にあって、エンターテイメントを巡る快楽と倫理というアンビヴァレントな感情に光を当てたこの展覧会は、人々がアートにおける娯楽と真剣さの契機の関係を解き明かす糸口を提供してくれるはずである。
ボリス・ベッカー1 ボリス・ベッカー2
ボリス・ベッカー3 ボリス・ベッカー4
▲ボリス・ベッカー

 ところでヴォルフスブルクには、現代アートと出会うことのできる公共の施設がまだある。今回初めて訪れたのだが、緑に包まれた公園内の城館に、小さいながら市立美術館とクンストフェラインをもっていて、その各々で、ボリス・ベッカーとリクリット・ティラヴァーニャの個展を行なっていた。ベッカーは61年生まれで年齢こそ若くないが、シュトルート、ルフ、グルスキーらの後を追って頭角を現わした写真をメディアとするドイツ人アーティストである。彼が撮る被写体は、都市であれ自然であれ、シュトルートらとは違って重々しさを帯びて鑑賞者に迫ってくる。この重々しさを、娯楽的な要素に数えることはできるだろうか。また90年代を通して国際的に活躍してきたティラヴァーニャは、いつもの観客参加型のインスタレーションを展示していたが、今回はインターネット放送を活用して、子供たちが想像する都市の姿を発信するプロジェクトに立ち上げた。彼の作品こそ、エンターテインメントと現実に働きかけるシリアスなもの(子供たちが夢想する都市の地図の背景には、移民問題がある)を見事に結合した例ではないだろうか。

▲リクリット・ティラヴァーニャ
[いちはらけんたろう 美術批評]

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