Aug. 27, 1996 Sep. 10, 1996 (b)

Column Index - Sep. 10, 1996


a)【アクティヴな場に立ち会う〜秋山邦晴氏を悼む〜】
   ……………………●柿沼敏江

b)【同潤会代官山アパートメントハウス
 ―都市空間の保存問題について】
 ……………………●槻橋 修


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Toru Takemitsu, his music and philosophy
http://www2a.meshnet.or.jp/
~moyse/

Toru Takemitsu
http://www.io.com/~glenford/
Takemitsu.html

Fluxus Online
http://www.panix.com/
~fluxus/

FLUXUS INDIAN MUSEUM
http://www.rust.net/
~museum/

John Cage Reference Page
http://www.artincontext.com/
listings/pages/artist/
l/3gsaebzl/menu.htm

Erik Satie Homepage
http://shift.merriweb.com.au/satie/

Erik Satie: homepage
http://www.af.lu.se/~fogwall/
satie.html

FUTURISM MENU
http://pharmdec.wustl.edu/
juju/surr/futurism/
FUT-MENU.html

Intonarumori
http://www.amz.com/bands/
Intonarumori/

アクティヴな場に立ち会う
〜秋山邦晴氏を悼む〜

●柿沼敏江

 

実践から打ち出す独自の視点

日本の現代音楽界を武満徹氏らとともに担ってきた、音楽評論家で詩人の秋山邦晴氏が、8月17日、長い闘病生活のすえ亡くなった。柴田南雄氏、武満氏にひきつづいて重要な柱ともいうべき人をあいついでなくし、現代音楽界は大きな痛手を蒙ったことになる。
  秋山邦晴氏は、たんに音楽会批評を手掛ける評論家たちとはちがって、つねに作曲家とともに運動を起こし、実践していくタイプの評論家であった。そしてその実践のなかで、じかに触れた体験や、肉眼で見きわめた現実に対する独自の視点を打ち出していった。
  早稲田大学在学中に武満氏や湯浅譲二氏らとともに〈実験工房〉を結成し、前衛運動のまっただなかにおどり込み、創作の現実を評論のなかに反映させていったことはよく知られている。武満氏の初期の作品が、ある大評論家に「音楽以前」と切って捨てられたときには、反論の筆をとり、作曲家の真意と新しい音楽運動の価値を世間に訴えた。秋山氏は、芸術の傍観者ではなく、その当事者としてつねに行動する人であった。 60年代のニューヨークで、ネオ・ダダの芸術集団〈フルクサス〉の運動が華やかなりしころ、カーネギー・ホールで「フルクサス・オーケストラ・コンサート」が開かれたことがある。短い作品ばかり30ほど並んだプログラムのなかに、靉嘔の「レインボー・ミュージック」という作品、すなわちオーケストラの各楽器がつくったシャボン玉を、指揮者がタクトで割っていくパフォーマンスが含まれていた。このときの指揮者が、ほかでもない秋山氏であった。

実践の担い手としての評論活動

新しい芸術や音楽に対する秋山氏の嗅覚には、じつに鋭いものがあった。1940年代の終わりころには、ジョン・ケージの活動にはやくも関心を寄せるようになり、62年のケージ初来日の折にも、演奏に加わるなどして協力し、ケージの紹介に努めた。最近、注目を集めるようになったモロッコ在住の作家で作曲家のポール・ボウルズにも、きわめてはやい時期から関心を抱いていた。1956年にボウルズがはじめて日本を訪れた際には、銀座のゲイバーを訪れた作家の様子を『美術批評』誌にレポートしている。
  ユニークな楽器を制作したことで知られるアメリカの作曲家、ハリー・パーチにもかなり早くから目をつけていたようだった。「いちど会おうと思ってカリフォルニアに会いにいったことがあるんだけれど、ちょうど公演旅行中で留守だったし、それからしばらくして亡くなってしまったから結局会えずじまいだった」と残念そうに語っていたこと がある。
  秋山氏は、コンサートのプロデュースも熱心に手掛けていた。なかでも、心に残るのは、70年代に渋谷のジャンジャンで行なっていた《エリック・サティ連続演奏会》である。秋山氏の企画構成、ピアニストの高橋アキさんなどの演奏によって、あの不思議な感触の音楽が毎月つぎつぎと紹介されていったのである。ジャンジャンの前には長い行列ができ、あの薄暗い地下の空間は若い学生たちの熱気でむせ返るほどであった。こうしてあのサティ・ブームが生まれることにもなった。教鞭をとっていた多摩美術大学の学生たちとともに、イタリア未来派の芸術家、ルイジ・ルッソロの騒音楽器「イントナルモーリ」を復元、試演するコンサートを開催したこともある。
  コンサートのプロデュースというのは、じつに容易ならざる仕事である。書くことにだけに集中しがちな評論家のなかにあって、秋山氏はおそらくもっともすぐれたプロデューサーでもあった。いま知らなくてはいけない作曲家とその音楽をとりあげ、分かりやすい解説をまじえながら、そのナマの音を紹介する。こうして、世に知られるようになった内外の作曲家は数知れない。
  こうした幅広い活動を可能にしたのは、秋山氏が作曲家や演奏家とともにつねにアクティヴな場に立ち会うという姿勢を保ち続けていたためであろう。たやすく情報が入手でき、頭だけの理解が優先されがちな最近の状況にあって、じっくりと芸術の実践に関わろうという者は、めったにいなくなっている。しかし、芸術はまさに実践から生まれ、育っていくものである。その生きた現場に立ち会わなくては、「批評」そのものもその力を失っていくであろう。秋山氏にとっての「批評」とは、そうした実践を含めての広い意味での批評活動であった。いま求められているのは、そうした実践の強力な担い手であろう。

[かきぬま としえ/音楽評論家]

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b)【同潤会代官山アパートメントハウス
 ―都市空間の保存問題について】
 ……………………●槻橋 修



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