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写真集レヴュー 倉田精二『トランスアジア』(太田出版) 大島 洋 |
『トランスアジア』は、倉田精二のアジアへの旅の成果である。成果と呼ぶにふさわしく、1976年の最初の旅に始まり、それから断続的に17年間にもおよんだというアジア行が、4センチ近い厚さと3キロほどの重さをもつ大部の写真集となっている。写真集の価値をこんなふうに、ぶ厚さや重量で表わすのが適当でないことは百も承知している。しかしこれ以上もなくシンプルな装丁で、ずしりと掌をとおして伝わるこの感触の実感でもある。写真集を見る前よりも、見終えた後のほうが殊にその思いは強い。 「アジアと戯れ/アジアに怖れ/そしてさらなる幻視へ/世紀末ロマネスク・アジア南北行」……『トランスアジア』の帯にはそう書かれている。なるほど、そのとおりだと思う。黄緑色の空、樹木と人の影とが赤く染まる大地に長く延び、小さな軌道橋の架かる川が写真の風景の裾を横断している。この川の流れも黄緑色を映している。帯一杯に広がった静かなアジアの農村風景、心に浸沈してくるこの不思議な黄緑色の空に、文字は白抜きされている。 『トランスアジア』の構成は国別に編まれていて、頭から順に列記すると、フィリピン、タイ、マレーシア、インドネシア、ミャンマー(ビルマ)、香港、韓国、中国、モンゴルである。それぞれの写真の場所や日付とかのデータは一切示されていない。B5判見開き一杯に余白のない、圧倒的な迫力のアジアの時の断片が、400ページにわたって続いている。それらの写真には、倉田精二らしい独特の光の捉らえ方があり、あるいは人の表情、踏み込んで踏み止どまる絶妙な距離、日常の時間の中の微妙な瞬間の不思議な静止、その静止したままの光景がこちらに向かって発光する写真の力、そしてなにより見る者の視線を撃つ強い視力がある。 倉田精二の写真は、しばしば暴力的であるとか、それよりもっと、倉田本人が攻撃的で暴力的な性格や眼差しの写真家ででもあるかのように評されるが、それは写真の中から撃ってくる視線の催眠にでもかかった的はずれというものである。確かに現実と向きあい、生の現場に身を置くことによって成立する写真は、被写体と写真家の関係を複雑にするし、まして倉田は『トランスアジア』を見ても、安全であるとは言いがたい場所にも頻繁に身を置き、カメラを向けている。しかしファインダーの中で人と視線を交わし、今まさに身体が晒されている風景にシャッターを切るということは、それだけで暴力的である。どんな被写体であれ、見るということが、すでにして暴力的なのである。写真の暴力性についてこれ以上多くを語ることはできないが、危険を身近にした写真家が、百メートル先の危険を察知して素早く逃げるのも勘であり、それを承知でさらに先へと向かうのも勘である。それは臆病とか無謀とか暴力性とは違う、写真家の勘なのであり、被写体と関わるとはそういう勘や、生まれ持った性格などによって瞬間に生じる信頼関係とか優しさとかであり、いわば人生と同義語、才能といってもよいものである。 この400ページの写真をサンドイッチするように、前後数十ページびっしりと旅行ノートの文字が埋められている。ざっと計算したら400字にしてなんと500枚ほどもあり、これだけでも充分に1冊の本である。はっきり言って、読みにくい。写真同様に旅の断片が唐突に、アジアの都市の喧騒と錯綜のスピードで語られる。先日、『Flash Up』の編集から『トランスアジア』まで関わった末井昭さんとこのことに話がおよび、「そりゃ倉田さんの文章は分かろうとしたら読めないですよ、詩だと思えばいいんです」と教えられた。なるほど、再挑戦してみると、ぐっと読みやすい。面白い。そればかりか、写真と渾然一体となっているのである。詩というか、倉田の書く言葉もまた写真のようである。 |
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