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写真集レヴュー 砂守勝巳『漂う島とまる水』(クレオ)
大島 洋

砂守勝巳の『漂う島とまる水』は、写真と写真との間に巧みに織り込まれた「物語」の中に、見る者をぐいぐいと引き入れてゆく、そんな不思議な力を持っている。この写真集の魅力と、その「物語」について語るには、なによりも写真家、砂守勝巳の半生を辿ることから始めなければならない。それがこの『漂う島とまる水』が撮られることになった動機であり、テーマそのものであり、魅力の根源でもあるからだ。

巻末に付けられた文章と写真の解説などから、略年譜風に列記してみると、まるで小説の主人公のようでさえある。砂守勝巳は1951年、沖縄本島の浦添村で生まれている。父はフィリピン人で、1948年、米軍の占領統治下にあった沖縄の、その米軍基地の軍事車輛のエンジニアとして31歳で入国した、多くのフィリピン人シビリアン(軍属)のひとりだった。同じ頃に母は、奄美大島から沖縄に働きに来ていて、父と知り合うことになる。しばらくして、米軍は基地恒久化のために、沖縄の中から労働者を雇い入れるようになり、フィリピン人シビリアンは解雇されるようになる。6歳の時に父も職を解かれ、已むなく母の故郷の奄美大島に引き揚げたのだが、そこでも容易に職につくことはできなかった。
 「ある日、父がぼくの視界から忽然と消えた」と、砂守勝巳は書いている。奄美に住んで2年後の8歳の時、父は単身で沖縄に引き返し、そのままフィリピンに帰国してしまったのである。さらに15歳の時に母も亡くなって、奄美の港からひとり大阪に出る。ここで彼は突然、プロボクサーになろうと志すのだ。リングネームは「サベロン砂守」、父の名前だった。ボクサーになろうと思ったのは、たまたまテレビのドキュメンタリーを見てからである。それはフィリピン遠征を夢見る大阪郊外の小さなジムのトレーナーの映像だったが、トレーナーの父はフィリピンで戦死していて、その墓参と遠征が彼の夢だったのである。それを見た砂守は、もし強いボクサーになってフィリピンのリングに立つことができたら、「リングネームに気づいた父が逢いに来てくれるかもしれない」、そんな夢につき動かされたのである。1971年、ウエルター級の「西日本新人王戦」でそのチャンスがめぐってくるのだが、戦わずして力の限界を感じ、「東日本の新人王と戦ったら絶対に負ける」と確信し、これも潔くというのだろうか、ともかく権利を放棄して、ボクサーの夢を断ってしまうのである。父と再会する道を失った挫折感だけが残った。
 こうして書き連ねていったら、それだけで紙数が尽きてしまいそうだから先を急ぐと、いくつかの転職の後にカメラマンとなるのだが、突然フィリピンの少女から一通の手紙が届く。「はじめまして、私はあなたの妹のジョセフィン・サベロンです」と書かれ、もうひとりの義妹と、父の写真も同封されていた。「まだ生きていたのか」と嬉しかったが、生活も苦しく、そのままになった。その後、写真週刊誌『フライデー』の創刊と同時に契約スタッフとなり、次いで創刊された『フラッシュ』に引き抜かれて東京に出て、そこで仕事として30年ぶりに沖縄に渡ったのを契機として、足しげく通うようになる。そしてアイデンティティーを探し求めるその彷徨は、当然のように、奄美大島とフィリピンへと拡大されてゆく。

空は青く晴れ上がっているのに暗く陰った海には、よく見ると、魚か貝でも捕まえようとしているらしい少年の姿がある。巻末を返してこの表紙の写真の解説を読むと、「子供の頃よく釣りをした名瀬湾」と書かれている。どのページのどの写真でも構わない、一端このように写真から解説へとページを返して読んでしまうと、私たちは引っ切りなしに、写真と巻末とを行きつ戻りつすることになる。たった1ページに書かれた「写真解説」が、こんなに意味をもつことは稀である。だからといって、その意味を抜きにして写真が成立しないというのでもない。写真とその意味とが発生させる、この微妙な揺らぎや、不思議な物語の感覚は、「ドキュドラマ」といってよいものである。
 ドキュメントとドラマを繋ぎあわせた「ドキュドラマ」という造語は、私のものではない。エド・ファン・デル・エルスケンが1955年に出版した写真集『セーヌ左岸の恋』について、自らそう呼んだのである。まだ第二次世界大戦の傷も癒えなかった1949年、生まれ故郷のアムステルダムからパリに出たエルスケンは、サン・ジェルマン・デ・プレ界隈のカフェや酒場に集まっていた同世代の若者たちを撮った。オーストラリアからパリに出てきて酒場で踊っていた、ヴァリ・マイアース(後に画家になる)を主人公にして、物語として構成された『セーヌ左岸の恋』は、確かにフォト・ストーリーであるばかりでなく、将来への希望を失い、不安や焦燥にかられていた、この時代の若者たちのドキュメントでもあった。
 『漂う島とまる水』は、『セーヌ左岸の恋』のように平易に、その「物語」を読み取ってゆけるわけではない。ひとつには、エルスケンの時代からすると、写真表現自体が大きく変わってきているということもあるのだが、それだけでなく、「物語」そのものがより複雑であり、さらにより私的であり、デリケートである。この写真集を「ドキュドラマ」と呼ぶのには、少なからぬ抵抗がないわけではない。私的ドキュメント、あるいは写真による私小説とでもいう方が、より適当なのかもしれない。しかし、それでも敢えて「ドキュドラマ」であるというのは、この写真集の魅力と成功の一端が、砂守勝巳の私的ドキュメントの中に、基調音としての「物語」が声高ではなく流れているからである。声高にならないのは、戦わずしてボクサーとしての自らの力を知ってしまったというエピソードにも表われているように、自分自身を距離を置いてみることのできる彼の資質によるものである。

「物語」は、生まれた時から素直に順に展開されているわけではない。それどころか、この写真集のページを捲っていっても、砂守勝巳の生いたちは何ひとつとして分からないだろうし、むしろそれを否定したような構成がされているといった方がよいかもしれない。それにも拘らず「物語」を読み取ってしまうのは、幼年の頃からの心の揺れやその軌跡が伝わってくるからである。
「かつてリングのかなたにはフィリピンがあった」、最初のページにはKOされてリングに伏せたボクサーの写真がある。名瀬湾の全景、沖縄の生まれた町、沖縄ロックを代表するシンガーのひとりである喜屋武マリー、アメリカ兵でひしめきあうディスコ、混血児の親子、漁師の家、マニラのホームレスの親子、ジプニーの少年、父に会いに行くことを勧めてくれたハード・ロック・バンド「紫」の城間俊雄、正男兄弟と黒人兵。彼らもフィリピン人との混血である。マニラの娼婦館。奄美、沖縄、マニラと、写真はまるで秩序を隠すアナグラムでもあるかのように並んでいる。
 そして初めて会う妹。再開した父。写真と巻末の「写真解説」とを追いながらこの写真に出会うと、砂守勝巳のカメラを見詰めるクローズアップされた父の顔に、心打たれる。スラム街で父と再開した時のことを、江成常夫とのインタビューにつぎのように答えている。「いつかお金持ちになって、僕を迎えに来てくれるって、ずーっと思ってましたから。自分の中に、どこかそういう意識がありましたから、アバラ屋を見た時には愕然としました」。
 書名の、「漂って」いるのは島ではなく砂守であり、「とまって」いるのもまた水ではなく砂守である。そうしてみると、島は砂守であり、水もまた砂守であるのだ。奄美大島から沖縄、そしてフィリピンへと続く海上の道に、ひとりの写真家の眼を漂わせることに託して、『漂う島とまる水』は、「戦争の落とし子」として生きた砂守勝巳の、ことばでは表わし難い自画像を描いている。

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