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写真集レヴュー 小林紀晴『DAYS ASIA』(情報センター出版局)
大島 洋

小林紀晴の『DAYS ASIA』の写真の中に挟みこまれてある、短かいエッセイがとても気持ちよかった。これは私にしては珍しいことである。
 旅行記や紀行についての文章であるなら、これまでも選り好みしないでよく読んだし、ドンキ・ホーテやガリバーや、ベルヌの『地底探検』など、空想の旅の物語だって大好きだった。しかし、ことアジアの旅についての文章となると、積極的になれない。説教臭いというのか、悟っている風や、モラリスティックな物言いが鼻につくことが、とても多いのである。たとえば、日本と比較して、インドではこんなに素晴らしい考えや生き方をしているのに、日本人はどうして誰もみな、人が生きるということの本質や人類への愛を見失っているのか、といった言説であったりする。あるいはアジア諸国に対する戦争責任論や経済侵略についての批判であったりするのだが、言っていることは正しいとして、しかしそれは必ずしもアジアへの旅に出なくとも、日本の中にいたって、一歩も外へ出ないで部屋の中で転がっていたって、同じことは考えられるのである。
 そして写真家が書いた旅の文章となると、さらにその警戒感は強くなって、できるだけ関心から遠ざけ、その本などを手にすることにも、いたって消極的になる。多くの場合、旅する写真家の行動の美学とアジアへのモラルとが一緒になって、しかも写真を撮ることとそのモラルとの間の避けられない矛盾の、つじつま合わせが各所に感じられてしまったりするのである。写真を撮るための旅をしたことのない人であったら、あるいは気がつかなかったり感じないでもすんだような、ほんの些細なことでも、困ったことに気に障ってしまうのである。そして、そんなつじつま合わせのときほど、文章のダンディズムは勢いづくことが多いような気がする。

『DAYS ASIA』は、小林紀晴にとって初めての写真集である。写真を見ているつもりが、大きな字で書かれている写真に挟まれた小さな文章を、最初は腰が退けながらも「2ページたらずだし……」、と思っているうちに、文章だけのページを拾い繋げるように読んでしまった。ときに物語のようであったり、旅のエピソードであったり、日記のようであったりもする。スタイルが定まっているわけではないし、とりたてて何かスゴイ出来事や感動的な体験が語られているのでもない。それなのに読んでいてなぜか感動した。それも、もの凄く感動したというのではなく、なに式火山といったか忘れてしまったが、じわじわと噴火を続けるタイプの火山、そんな感じだった。そして気がつくと、文章からだんだんと写真に引き寄せられていたのだった。
 アジアについての旅の文章を好きになったのも確かに珍しかったが、若い写真家の文章に惹かれて、それから出版されている小林紀晴の本をすべて買って読んでしまったというのは、さらに珍しいことだった。『DAYS ASIA』は小林にとって最初の写真集であったが、その以前に『ASIAN JAPANESE』『ASIAN JAPANESE 2』の著作がある。アジアを旅し、あるいは生活している日本人の若者たちについて書いたこの本が、若い人たちの共感をえていることは知っていたが、前述のような警戒心があって、手にしていなかったのである。やはり文章はよかったし、文章の中に書かれている日本人の若者たちの肖像もよかった。
 小林紀晴は1968年生まれである。アジアを旅しながら、やはりアジアを旅する同世代の若者たちに出会い、その旅の時間を気負いのない文章で書いている。決してカッコよくアジアを旅している若者たちではないし、小林もまた、旅する自分自身の心許なさや内心の揺れを隠さない。「アジアは素晴らしくて、日本はダメ」式の若者ではなく、揺れ続ける若者たちがいる。小林が生まれた頃の日本の若者たちの旅も、同じだったと思う。つまり私と同世代の20代は、こんな旅だったようような気がする。私が嫌いになったアジアを旅して書いた文章の多くは、たとえ貧乏旅行記にしても、結局のところ、この頃からの急激な高度経済成長に支えられた、経済日本の奇妙な自信が可能にしたものではなかっただろうか。ともあれ、『ASIAN JAPANESE』に書かれている日本の若者たちの生き方や考え方の多くに共感できるし、小林の撮ったその肖像が心にとまるのは、彼らの顔の魅力がなによりの力となっているからだろう。
 『DAYS ASIA』の出版のあと、さらに『ASIA ROAD』と『東京装置』という二冊の本が出ている。前者はアジアの国々の若者たちであり、後者は東京の若者たちである。いずれもその多くは、ここでも小林と同世代の若者たちであるのだが、若者に擦り寄ったり理解を示したような、若者たちのルポルタージュからは一線を画している。旅で偶然に出会ったり、取材のために通訳も介したりしながら会った人たちを、こんなに彷彿とする魅力でことばにできるのは、文章力であるばかりではなく、もっと小林紀晴の人柄の魅力であると考えるべきだろう。それは彼らを撮った写真の魅力や屈託のない表情からもそう思われるのである。

ところで、『DAYS ASIA』は写真集であって、文章の本ではない。初めてこの本のページをパラパラと捲ったとき、正直にいって、そんなに心にとまらなかった。露出を切り詰めたアンダーな写真は藤原新也を思い出させたり、東松照明や倉田精二など、インドやタイなどを撮った幾人かの写真家を思い出させたりもした。あるいはピントを合わせずに撮ったりボケている写真には、森山大道やその時代の写真家たちも連想させた。この短かなレヴューでこんなことを書くのは、著者に対して失礼であるような気もしないではないが、小林紀晴の包み隠さぬ、それでいて居丈高でない、抑制のきいた質のよいモラルのある文章を読んでいると、少しの間でもそう思ったことを書かないでいるのは、さらによくないような気がしたのである。ハノイの駅でシクロを運転する男とのやりとりの中でみせる、理にかなわない旅のモラルと、とっさに矛盾した行動をしてしまうデリケートな旅の感性には、「そうだ、そうだ」と思ってしまうのである。そんな共有できる旅のモラルや矛盾とが、小林紀晴の文章を読んでいると随所にある。これだけではハノイのシクロの話の筋が何もわからないかもしれないが、これはかい摘まんで書きとめるより、『DAYS ASIA』を読んでいただくのが一番だと思う。
 『DAYS ASIA』の写真は、『DAYS ASIA』の文章がスタイルをもっていないのと同様に、スタイルがないのである。スタイルを持とうとはしていないのだと、いったほうがよいかもしれない。それは写真に個性がないということではないし、アンダーにしたりブレたりボケたりすることで、表現の枠を越えようというような気負いもない。文章と同様に自然体なのである。ある時には、手ぶれをなくして撮ろうとカメラを三脚に取りつけて撮るのだが、ある時にはピントも合わさずに撮ろうと思うのである。その折々の直感にしたがっているのだ。スタイルの放棄こそが、いま写真に求められているものだと、この何年か私は思っている。文章を読んで、その文章を挟み込んでいるたくさんの写真を見ていると、だんだんと抑制のきいた文章と同質の魅力が写真にあるのだということに気がつかされる。

心にとまった言葉をいくつか書きとめておこう。 「いままでカメラを持たないで旅に出たことは一度もない。もし持たないで出たとしても、もはや旅そのものが成立しないだろうとさえ思う」。
 「シャッターを押すという行為に、言葉は時に追いつかない。それは、写真が意味というものを求めないからだ。ぎらぎらと太陽が照る路上に座った男の前を、痩せた犬が通り過ぎ、その影がくっきりと足元の土の上に刻まれる。僕はそこにカメラを向ける。でもその光景に何かの意味があるわけではない。そして、それを求める前にすでにシャッターは切られている」。
「日記帳や、スケッチブックを無造作にザックに放り込んで旅している人に出会うたび、なんだか自分のしている旅がとてもさめたものに思えることがあるのだ」。

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