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音楽は複数の消失点を目指す
――フィルハーモニア管弦楽団 演奏会
伊東 乾

クリスチャン・テツラフのヴァイオリン・ソロでギェルギ・リゲティの「ヴァイオリン協奏曲」を聴いた。92年に現在の版が完成して未だ6年目だが、一体何度この作品の演奏に立ち会ったことか。多くの演奏家の努力にもかかわらず、未だこの作品が作曲者の意図に沿って演奏された例を殆ど聴かない。今回も全体としてはその例に漏れなかった。しかし、ソリストに任されている全曲末尾のカデンツァについて今回は特筆しなければならない。クリスチャンは何をしたか。彼は各楽章のソロの楽句に取材して、小さく滑らかな全曲のサマリーを行なったのだが、その中で「正しく間違った」音程の重音奏法を響かせたのだ。
この作品では、通常のオーケストラの様に単一のチューニングで全楽員の音程を合わせるのではなく、相異なる複数の音律組織が併存している。その結果、全体の響きは平均率的な安定感、言ってみれば一点消失の古典的遠近法に似たヒエラルキーを逸脱して、複数の響きのシステムが併存する。それらが関わり合う中で、新たな響きの関係が生まれる様に作曲されている。ソリストや弦楽器奏者たちは理屈以前にそのことを合奏の反射神経で知っている。だが伴奏の指揮者がこのことに十分の配慮を払ったアンサンブル・メイキングをしている例は、ブーレーズを除いて一人も知らない。今回のペッカ・サローネンも例によっての大味で(そこが彼の良い所でもあるのだが)残念ながら「いま・そこ」で鳴っている総体と作品の成り立ちとは無縁だった。僕が直接耳にした他の演奏には、残念ながらこの本質的落とし穴から逃れたものがない。だからテツラフが「正しく」狂った7度や9度を響かせているのを聴いたとき、とても嬉しくなったのだ。最近は「絶対音感」が流行りになっているが、こういうところでこそこの言葉は使わねばならない。クリスチャン自身がリゲティの理論的根拠に精通しているとは思わないが、彼の耳は練習や合奏の課程で「正しく」別の響きを捉え、それに遠いエコーを聴かせたのである。
僕はnmpでもっぱら美術評論を書いているが、それには戦略的な根拠がある。もう5年ほど前のこと、とある音楽コンクールでリゲティに審査されたことがある。結果的にはプルミエ・プリを貰ったけれど、僕は彼から厳しく批判されて、その場では僕もかなり強固に反論したりした。「音楽的な基礎が完璧なのは悪いことではない。ただ、より強力なオリジナリティがなければ新しい作品を書く意味がない」「いや私はこれこれこのように全く新しく考えたのだ」「もっとより新しくなければいけない」「そう思うのは貴方の古さが原因なのだ」「いや、君は数学や物理の背景があるのだから、もっとそういう所から新しい仕事ができるはずだ」「具体的にはどんなことが考えられるというのか」「ことばでそれが言えるなら簡単だが、私自身正直なところそれを探している。ヒントになるものはいろいろある」「例えば?」「ピラネージやエッシャーの騙し絵や、コンピュータ、数学、ある種のミニマル・ミュージック、コンロン・ナンキャロウの音楽……」こんなやり取りがたくさんあった。その場では反論したけれど彼の指摘には一応しっかりした根拠があるし、何より彼の誠実さは印象深く、むしろ宿題を抱えてしまった。という訳で、騙し絵、コンピュータ、騙し絵、コンピュータ……と考える毎日が始まった。そこから、3Dイリュージョンや錯視の認知科学に行き着くには大した時間はかからなかった。下條信輔氏の所でコグニティヴ・サイエンスの基礎を学び始め、並行するアプローチで聴覚を扱っているNTT基礎研の柏野牧夫氏を紹介されて、知覚と世界との関わりを90年代の視点(政治的背景から技術的基盤に至る)から再度捉えなおす作業を開始した(*1)。僕なりに3年ほどやってみるうち、自分なりの方法が見つけられ始めた。96年ごろからはそういうスタンスで仕事をして、去年から今年にかけては大きなブレークスルーがあったのだけれど、音の話は現場に来ぬ限り判って貰えないことが多い。そこで百聞は一見にしかず、という訳でもないけれど、感官=モダリティが違っても似たような問題意識の話題を美術やシネマ、あるいは他のパフォーミングアーツに話題を取って、この場で、つまりnmpで展開してみることにした。もちろん音楽の事は音楽で解決している(*2)
(*1)
聴覚の認知科学の基礎的な話題を柏野君が『インターコミュニケーション』25号P.142以下で解説している。併せて参照して頂ければと思う。



(*2)
実はリゲティは亡くなった武満徹の依頼で今年東京オペラシティの作曲コンクールの審査を依頼されたのだが、演奏に値する作品なしという結論になったらしい。その直後に、強く勧めて下さる方があって、僕は [ いまさらコンクールか、という声もあったが] 同じ公募の次の回に、長らく考えていた [ということはリゲティの宿題も含むわけだが] 大きな編成の仕事を出してみた。査読者はルチアーノ・ベリオで、演奏する価値はあるという判断らしく、本稿に関わる内容を含む仕事を1999年の5月9日にオペラシティで鳴らす予定になっている。他の自主公演やコラボレーションも根は完全に繋がっている。ネットから派生して、実際に現場で聴いて頂ければ嬉しいのだが……。
この演奏会には言うべき事が幾つもあるが、話題を絞ることにしよう。プログラムはドビュッシーの「イベリア」、上述のリゲティのコンチェルトと、同じくリゲティの作品「Melodien」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第二組曲の4曲であった。オーケストラの水準は高かった。指揮は荒かった。観客は少なかった。演奏会周りの仕事には疑問が多かった。解説書も、湯浅譲二氏の頼もしい発言等と前後して、目を疑うような記述も印刷されていた。例えば、これは誰の責任かは知らないが「Melodien」を「管弦楽のためのメロディ」と訳している。物事を本質的に全く理解していない典型だ。他にも某サマー・フェスティヴァル等でしばしば類似の例を見るが、どうしてこういうことが起こるのか。オペラシティの場合、地上に存在しないドーナッツの穴を中心に、スケジュールだけが回転する今の状況に起因するのだろうか。これがいつまで続く訳でもなかろうが、本質的に実を欠いた、空虚な営みと感じない訳にはゆかない。「Melodien」に話をもどせば、この作品はリゲティ自身のフーリエ展開的な「マイクロ・ポリフォニー」の経験と、ミニマルのリミット・サイクルが「聞こえ」のパターンを生成する聴覚的錯覚の事実を背景に、幾つもの断片楽句の関係性の中から、聴覚上まるで古楽のホケトゥスの様に複数の旋律線が浮かんだり浮かばなかったりする作品だ。この旋律の「複数性」は聴く人の認知によって一定しないという程にまで徹底してドラスティックである。これこそが重要なのだから、曲のタイトルは「メロディーエン」若しくは英語で「メロディーズ」日本語なら「複数のメロディたち」と言わねばならない。尤もペッカ・サローネンは「ゲシュタルトの複数の創発」といった問題と無関係な棒を振っていたから、この誤訳は当夜の演奏に関する限り正鵠を射ていることになる。とは、何たるレヴェルの皮肉というべきか。事態はそんな牧歌的な状況ではなく、音楽は複数の消失点に向かって今や疾走し始めている。理念でなく行為の段階で、その事に気づきが走らねばならない。だから空虚な無限遠点としての指揮者は必然的に、また厳密に消去されねばならない。そして当夜のクリスチャン・テツラフの様に、駿敏な耳と技とが、複数の時間と空間とを切り出して行くことになるだろう。
COMPOSIUM 1998
エサ=ペッカ・サロネン指揮/フィルハーモニア管弦楽団演奏会
会場:東京オペラ・シティ、コンサートホール
会期:1998年5月26日〜28日
問い合わせ:toccf@po.infosphere.or.jp Tel.03-5353-0770

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