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見えないデザイン−2
仕切のデザイン
柏木博

新宿のOZONEで毎年、日本の住まいのデザインに関する展覧会を行なっている。 これまでに、「くつぬぎ」「たたみ」という展覧会を行なったが、今年の新しい展覧会では「しきり」がテーマになる。この企画に関わりながら、仕切というものが、実は、可視的なものだけではないということが、思っていた以上にはっきり認識できた。
 「空間の仕切」には、人間関係の仕切、空間の持つ機能性(たとえば寝室やダイニングといった空間の機能)の振り分け、あるいは時として祭事や神事に関わる特別な領域(たとえば、俗な空間に対する聖なる空間)を成立させるといったことに関わっている。そして多くの場合、仕切は人間関係を仕切るものであるとともに、空間に与えられた機能性を振り分ける装置となっている。
公共空間と私的空間の仕切は、多数の人間と個人との関係を切り分け、そのことを意識化させる。公共空間と私的空間との仕切は、近代的な公私の分離を意味する。ヨーロッパで公私の分離が行なわれるのは、18世紀あたりからのことであると、フランスの歴史家フィリップ・アリエスは指摘している。この公私の分離は、単に個人と社会を意識化しただけではなく、家族の内部においても家族のメンバーに対して個人を分離することを意識化させた。こうした公私の分離が日本の住まいにおいて必要であることが主張されるようになったのは、大正期から昭和初期にかけてのことである。
 仕切が人間関係(社会的関係)を仕切る装置であるという言い方は、結果的なこととしてある。むしろ、私たちの人間関係(社会関係)がどのように考えられているかが仕切に反映されていると言った方がいいかもしれない。どのような仕切であれ、内部と外部という領域の関係を形成する。してみれば、仕切は、ある社会において、またある時代において、人々が何を自らの内とし、何を外としたのかを反映している。
フィリップ・アリエス著
『子供の誕生』
ヨーロッパにおける近代的な公私の分離の思想は、近代的な概念としての「社会」意識を映し出すものであった。簡単にいえば、社会は契約によって成り立つものであり、人々はその契約を主体が許す範囲において守る義務を負い、その結果として誰にも従属・支配されない個人の権利が守られるという「社会」意識である。
 しかし、これまでにも少なからず指摘されてきたことだが、日本の近代はそうした社会意識を持っていなかったのではないか。そうした中で、個人と公的な空間(あるいは社会)とを分離するヨーロッパ的な間取りをそのまま導入したといえよう。たとえば、阿部謹也が指摘しているように、日本には近代的社会の概念ではない、「世間」という概念が存在した。この「世間」とはいわば「そと様」である。「世間が許さない」という表現からもわかるように、この世間は、家庭の外の場合もあるし、ある集団やある村の外の場合もある。つまり、内と外を仕切る「世間」概念は、自在に動くものなのである。頑強な壁ではなく、ちょうど、屏風による仕切のようなものだといえるかもしれない。また、日本の仕切は、かならずしも強固な物質によって明確にされていない場合がある。わずかな、紐、素材のちがい、また、垂直な壁ではなく、水平な段差などによって、意識的な仕切を暗示している。仕切は非物質的なデザインによって暗示されることが、いまだに少なくない。
阿部謹也著作
『中世の星の下で』ちくま文庫、1986年
『中世の窓から』朝日選書、1990年
『教養とは何か』講談社現代新書
『「世間」とは何か』講談社現代新書
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