reviews & critiques
reviews & critiques ||| レヴュー&批評
home
home
topics
メセナ日記−3
熊倉純子

9月×日 「メセナは死語」?

ある日パーティで名刺交換をしたら、「メセナ、ですか。(2秒の沈黙)死語ですよねー」といわれてしまった。デザイン関係のお仕事だそうで、文化をビジネスとする人には「企業のアート・サポート」なんてちゃんちゃらおかしいのか、悪びれる様子もないだけにやるせない気分になった。

9月△日 「メセナは死語」それでいいのか

ある日の産経新聞の読者欄でも投稿者が「メセナは死語」だと断定している。「死語」にしてしまって嬉しいのは誰だろう。一方には原理主義者たちがいる。つまり、ゲイジュツの純粋な世界に「無教養な」サラリーマンなんかはいってくるなという人々だ。もう一方にはかたくなな企業不信論者のマスコミがいる。企業がやることはなんでも悪い、メセナなんてきれいごといってないで早く尻尾を出せ、というわけだ。でも、企業のメセナ担当者は「メセナ」を死語にするつもりはない。いや、もはや出来ないと思っている。

9月○日 アートは今の日本社会に必要なのか?

企業も政治も学校も、これまでよくも悪くも機能していた日本のシステムが失速している。社会は組織であり、組織の血液がコミュニケーション、つまり表現だ。何を、誰に、どう表現するのか。これがおかしなことになっている。企業倫理の問題も情報公開もの問題も、とどのつまり表現方法がちぐはぐなんだという気がする。表現という人類に根元的な術に、実社会とはちがう角度から専門に取り組んでいるのがアートである。「心の教育」なんて教訓めいたことよりも、社会の一員として自分の表現方法を問い直すことが急務なのなら、今こそアートの出番じゃなかろうか。アートといっても教養としての高級芸術でもないし、暇つぶしの道楽でもない(そういうものがあっちゃいけないという意味ではない。念のため)。同時代を思索するアウトサイダーたちをシステムの内部に招き入れ、企業や学校や行政の視点とは異なる見方を通じて、これまでシステムの内部で課されていたのとは表現の可能性を模索することだ。

9月×日 アートでサラリーマンが市民に戻れる?

新たな表現方法の模索のためにアートと接点をもとうとするのは別に企業の専売特許じゃない。行政も「ハコを建てちゃったからなんかアートをプロデュースしなくっちゃ」と焦る前に、なぜ市民がアートと接する意味があるのかをちゃんと考えた方がいい。そうすれば、誰にどんなアートをどのように開いてみせるのか、おのずと身の丈サイズの事業が明らかになるだろう。ただ、日本人には多くのサラリーマンが含まれる。彼らが「市民」に戻るためにも、企業は文化支援を含むフィランソロピーに取り組まざるをえないし、フィランソロピーが単なる「罪滅ぼし」からシステムへの「風穴」へと変貌するとき、アートこそ重要なファクターとなりうることを企業の担当者は身をもって感じているのだ。
 メセナが死語になって得をするのは、既存のシステムの恩恵に浴しているか、そのほころびをつまみ食いして生きている輩なのである。

メセナ日記−1 | −2 | −3−4−5−6−7−8

top
review目次review feature目次feature interview目次interview photo gallery目次photo gallery





Copyright (c) Dai Nippon Printing Co., Ltd. 1997