酬恩庵一休寺 様

一休寺方丈 襖・壁画47面

江戸時代の巨匠・狩野探幽筆の「瀟湘八景図」、「陶淵明図」、「林和靖図」などの紙本墨画淡彩の5作品43面と、原派の祖・原在中筆の紙本金地着色・紙本墨画淡彩作品4面、計47面の「襖絵と壁画」を「伝匠美」で再現しました。 監修者の指導の下、原本に触れることなく、デジタルデータ上で汚れや破損部分、修復により劣化した部分の画像修正を施しております。

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室中之間から檀那之間を眺める

原本

伝匠美

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相之間 原在中筆 小襖

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衣鉢之間 狩野探幽筆 「山水図」

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檀那之間 狩野探幽筆 「陶淵明図」「林和靖図」

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書院之間 狩野探幽筆 「竹雀図」

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礼之間 狩野探幽筆 「松竹梅図」

酬恩庵一休寺とは

京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は霊瑞山。一般的には一休寺と称されます。寺の前身は鎌倉後期の正応年間(1288~93)、南浦紹明(なんぼじょうみょう)大應国師が中国で禅を学んで帰り、ここに妙勝寺を建立したのが始まりです。その後、永享年間(1429~40)、室町幕府六代足利義教の帰依により本堂が建てられました。
元弘の乱の兵火により荒廃・衰退したが、室町時代の康正2年(1456)、六代の法孫に当たる一休宗純(そうじゅん)禅師が宗祖を慕って堂宇を中興しました。師恩に報いる意味で「酬恩庵」と名付けられました。さらに、文明7年(1475)の一休禅師74歳の時、応仁の乱の戦火を避けるため、東山の麓にあった虎丘庵(こきゅうあん)をここへ移築しました。一休禅師は晩年この虎丘庵で過ごし、81歳で大徳寺(北区)の住職となっても、大徳寺に住まずこの寺から輿にのり通っていたと言われています。
一休禅師没後衰退していた方丈は、1650年(慶安3年)加賀藩・三代目藩主、前田利常の寄付によって再建されました。方丈障壁画は当時、数々の国家的プロジェクトを手掛けていた狩野派の巨匠・狩野探幽が49歳のときに手掛けたものです。

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酬恩庵一休寺

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酬恩庵一休寺 一休禅師の墓(左)と虎丘庵(右)

狩野探幽(かのうたんゆう)(1602~1674)とは

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慶長7年(1602年)、狩野孝信の長男として京都で生まれました。母は、戦国武将佐々成政の娘。名は守信であり、采女、探幽斎と称します。生明、筆法大居士、白蓮子の別号があります。

慶長17年(1612年)、父、孝信に伴われ、駿府で徳川家康に謁見。同19年(1614年)に江戸へ下って、二代将軍秀忠に謁見し、祖父永徳の再来と絶賛されました。元和2年(1616年)に江戸城紅葉山霊廟の天井、日光三縁山、東叡山の御宮霊廟に龍を描き、同3年(1617年)、16歳の若さで江戸幕府の御用絵師に任命されました。同時に、江戸城鍛冶橋門外に1033坪の屋敷を拝領し、「鍛冶橋狩野家」を興し、本拠を京都から江戸に移しました。

公儀の造営にともなう、大阪城内御殿障壁画、二条城障壁画、名古屋城上洛殿障壁画、増上寺安国殿障壁画、大徳寺本坊方丈障壁画、三度にわたり御所の障壁画などの大画面障壁画制作に旺盛な筆力を奮い、いわば当時の国家的プロジェクトを狩野一門を率いて一手に引き受け、江戸時代に於ける日本的絵画の創始者でありました。また、豪壮な桃山様式にかわる瀟洒な画風を確立し、400年続く狩野派の規範を築き完成に導きました。

寛永15年(1655年)に法眼に叙せられ、寛文2年(1662年)に後水尾院の尊影を描いて、当時の絵師として前例のない法印に昇進し、河内国に二百石の所領を拝領する。延宝2年(1674年)、73歳で没し、池上本文寺にねむります。

なお、探幽作品は、落款によって、「探幽斎」の斎号を得た寛永12年(1635年)、34歳を境に、以前の作品を「采女時代」、以後の作品を「斎書き時代」、60歳に至った寛文元年以降の作品を「行年書き時代」と大別され、酬恩庵一休寺方丈障壁画制作は慶安3年(1650年)、「斎書き時代」の探幽49歳の作品で、探幽の真骨頂ともいえる形象を簡略化して表現する「減筆体」という画法を確立する過渡期の作品であります。

原在中(はらざいちゅう)(1750~1837)とは

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江戸後期に京都で活躍した絵師。狩野派の流れを汲む石田幽汀に絵を学び、円山応挙の影響を受け、写生を基調に土佐派が描く大和絵の技法と装飾を加えて独自の画風をたて、原派を形成しました。山水画や花鳥画を得意とし、作品には障壁画も多く、相国寺・建仁寺・大徳寺塔頭三玄院などに残されています。天保8年(1837年)、88才で没し、天性寺(中京区寺町通三条上る)にねむります。

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