無量寺 様

紀州串本無量寺方丈 襖絵・壁画 55面

本州最南端の紀州串本無量寺方丈にある、写生派の祖・円山応挙筆の「波上群仙図」、「群鶴図」、「山水図」の3作品20面と、応挙の二哲の一人である、奇想の画家・長沢芦雪筆の「虎図」、「龍図」、「唐子琴棋書画図」などの6作品35面、計55面の紙本墨画淡彩・紙本金地着色の「襖絵と壁画」を「伝匠美」で再現しました。 経年にともなう虫食いや破損部分は監修者の指導の下、痕跡を残しつつ目立たないようにデジタル画像処理技術によるバーチャル補修を行いました。

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室中之間 長沢芦雪筆「虎図」

原本

伝匠美

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室中之間 長沢芦雪筆 「龍図」

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上間一之間 円山応挙筆 「波上群仙図」

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上間二之間 長沢芦雪筆 「ばらに鶏図」、「ばらに猫図」

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下間一之間 長沢芦雪筆 「芦辺に鶴図」

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下間二之間 長沢芦雪筆 「唐子琴棋書画図」

無量寺とは

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収蔵庫

本州最南端の地、和歌山県東牟婁串本町にある臨済宗東福寺派の別格寺院です。別名“芦雪寺”ともよばれ、江戸中期を代表する画家円山応挙の二哲の一人、長沢芦雪の「虎図」をはじめ、応挙・芦雪の作品を多数所蔵する寺院として知られています。
宝永4年(1707)の地震の津波で流失し、天明6年(1786)八世・文保愚海和尚が入院(じゅえん)後十数年辛苦の末、現在地に再建しました。再建成就の際、愚海和尚はかねてから親しかった京都の絵師・円山応挙に襖絵を揮毫するように依頼されました。当時応挙は南紀へ出向くことができず、名代として信頼する高弟、長沢芦雪を遣わせました。芦雪は約十ヶ月間南紀に滞在、温暖な風土の元で過ごすうちにその才能を一気に開花させ、多くの作品を描きました。
無量寺方丈障壁画群は自然災害、時には戦火の中を歴代の住職、地元の人々の弛まぬ努力と献身によって継承されてきました。
昭和36年(1961)当時の住職、十八世・湊素堂老師(建長寺・建仁寺両派前管長)の発願、地域の全面的な協力を得て当時では非常に稀有な寺院境内の美術館「串本応挙芦雪館」を開館、平成2年(1990)には国・県・町の補助を得て収蔵庫を建設、国指定重要文化財として手厚く保護されています。今日となっては単に「寺宝」「地元の宝」としてのみならず、国内外の多くの人々を魅了し、「世界の宝」と成りつつあるとも言われています。

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無量寺 方丈

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串本応挙芦雪館

長沢芦雪(ながさわろせつ)(1754~1799)とは

江戸中期、京都画壇に活躍した画家。名は政勝、または魚。芦雪は号。淀藩士の上杉家に生まれ、幼年期を淀で過ごす。
20歳代後半には京都の円山応挙に師事し、頭角をあらわしました。天明2年(1782)版「平安人物誌」に芦雪の名を載せ、画家として一家をなしていたといわれています。源琦と並んで応挙門下の二哲の一人です。
天明6年(1786)の暮れから翌春に制作された壮年期を代表する串本無量寺の「虎図」、富田の草堂寺の「岩上白猿図」など、南紀の寺院に多数の障壁画が残っています。
芦雪は紀州において、師の写生の祖、円山応挙の画風に墨守せず大胆な構図、奇抜な着想の才気あふれた奔放な画風をつくりあげました。
45歳、大阪で客死。京都回向院にねむる。

*平凡社 『日本美術史事典』 参考

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