DNPのライフサイエンス事業を牽引するキーパーソン

大日本印刷株式会社(DNP)で研究開発を担う部長のひとり土屋勝則は2015年、自分達が開発したパターン培養基材の上に播いた幹細胞がわずか90日で腸の細胞に分化し、腸管になることを発見した。にわかには信じられなかった。

研究開発に勤しむ土屋

土屋達が作製に成功したこの立体臓器は、生体腸管と同様に、吸収能力や分泌能力を備えぜん動運動のような動きもすることから、「ミニ腸」と呼んでいる。大きさは最大直径1センチほどになる。
「ミニ腸」の開発は、国立成育医療研究センター(NCCHD)が、DNPや東北大学の研究者らと共同で行なっており、2017年1月には、その研究結果を米医学誌「ジャーナル・オブ・クリニカル・インベスティゲーション」で発表している。ヒトES細胞やiPS細胞から腸管機能を持つ臓器を試験管内で創成したのは世界初の快挙だった。
そして、この研究発表の裏で、DNPの印刷技術を発展させた、複数の機能性材料を薄く均一にコーティングする"薄膜多層化技術"を活用することで大きく貢献していた。

  • ぜん動運動:動物の消化管の運動で、ミミズなどの蠕形動物の移動運動などのように筋肉の収縮波を伴う運動
ES細胞から作られた「ミニ腸」のぜん動様運動

「DNPが保有する薄膜多層化技術を培養基材に応用することで、ES細胞やiPS細胞などの多機能性幹細胞を腸の様々な機能を持つ細胞に分化させ、同じ機能を持つ細胞が自己組織化する能力を引き出したのです。培養した細胞が目の前で人間の腸と同じようにぜん動運動をするのを見た時は、さすがに信じられませんでした」と、土屋は当時を振り返る。長年、インキやディスプレイ、電子ペーパーなどの開発分野で活躍してきた土屋が、生命科学の驚異を改めて実感した瞬間だった。

ES細胞やiPS細胞などの多機能性幹細胞は、すべての種類の細胞に分化する能力を持つ。新たな治療方法や新薬の開発に役立つ細胞を試験管内で作り出すことができると期待され、それらヒトの多機能性幹細胞を用いた再生医療の研究が世界中で盛んに行われている。近年は、オルガノイドと呼ばれる「生体に近い複雑な臓器」を試験管内で作り出す挑戦的な研究が進められてきた。

しかし、臓器の中でも、複雑な構造と機能を持つ腸のようなオルガノイドを作り出すには、いくつかの大きな課題がある。腸管は、消化、吸収、免疫の機能を果たしているほか、ぜん動運動も行っている。このような多くの機能を持つオルガノイドを試験管内で作り出すのは、極めて困難とされてきた。

DNPの技術が課題の解決に貢献

細胞パターン培養基板「CytoGraph®(サイトグラフ)」上でのミニ腸作製プロセス

それらの課題を解決し、ミニ腸というオルガノイドの作製の成功を支えたのが、DNPの技術だった。DNPが長年培ってきた製版(印刷用原版の作製)やコーティング(塗工)、パターニング(精密パターンの形成)などの技術を応用し、細胞を培養する基材を最適化したのだ。その応用法はこうだ。

ガラスやプラスチックの基材の表面に特殊な材料を数ナノ(10のマイナス9乗)メートルの厚さで塗り、その上に、細胞が接着しない高分子材料を同じく数ナノメートルの厚さで塗る(コーティング)。こうして作られた基材には細胞が接着しないが、任意の領域に紫外線を照射すると最上層の高分子層が除去され、細胞が接着する領域ができる(製版)。
そうして基材上に高分子層がある部分とない部分のパターンを作り、その上に細胞を播くと、高分子層がないため細胞の接着が可能な部分にのみ細胞が集まり、パターニングされた細胞の集合体ができるという仕組みだ。

ミニ腸

このように作製されたミニ腸は、栄養分を与えると試験管内での長期保存が可能であり、薬品の試験も継続的に行うことができる。そのため、NCCHDとDNPは、新薬開発における極めて革新的な被検体としてミニ腸の実用化を進めている。2021年までにミニ腸の安定的な作製技術の確立を目指しているほか、DNPにて2022年までに量産技術を確立し、製薬会社や検査会社への提供を開始することを目指している。

ミニ腸の作製メカニズムの解明は道半ばだが、DNPは国内有数の幹細胞研究機関であるNCCHDと共同で今後も解明を進めていく。

DNPのライフサイエンス事業の歩み

DNPの「薄膜多層化技術」を応用した細胞培養器材

DNPは、印刷技術でマイクロ(10のマイナス6乗)メートル単位、ナノメートル単位の加工を施した製品を数多く生産してきた。その技術を強みに、ライフサイエンス分野での事業開発に力を入れている。その歴史は1985年の「尿検査キット」に始まる。この時に開発した「酵素をインキ化する技術」を応用して、その後、唾液の試験紙や妊娠検査キットを製品化したほか、医薬品や医療機器の包装材も製造してきた。

DNPが本格的に医療分野での研究開発に取り組み始めたのは、2000年代の前半だ。2004年、東京医科歯科大学との共同研究で、DNPが持つフォトマスク(半導体製品の製造用原版)関連の技術を応用し、基材上にパターン培養した細胞を転写して直径10マイクロメートルほどの毛細血管をパターン化する技術を確立した。その後、2006年に東京女子医科大学先端生命医科学研究所と再生医療に関する共同研究を開始した。2008年には東京女子医科大学などと共同で、印刷技術を活用した再生医療用細胞シート培養フィルムの効果的な生産技術を確立したほか、東京医科歯科大学との細胞パターン化技術を発展させ、国内初の細胞パターン培養基板「CytoGraph®(サイトグラフ)」を製品化した。これは今回、ミニ腸の作製に使用した基材の基礎となった技術だ。

こうした実績に目をつけたのがNCCHDだった。それまで、DNPは細胞接着性に特徴のある基材を開発し、血管や心臓、骨などの生体由来の細胞を培養してきた。これに対し、NCCHDは多能性幹細胞をパターン培養することで、これまでにはない細胞の分化を制御できるのではないかと考え、本格的な共同研究が2011年に始まった。

説明をする土屋

その後、2014年に再生医療推進法が成立し、民間企業による再生医療分野への参入が後押しされるようになり、DNPもさらに細胞培養基材などのライフサイエンス分野の事業に注力することになる。

DNPが現在目指しているのは、ミニ腸を製薬会社に安定的に供給し、先天性の小腸の病気や潰瘍性大腸炎、クローン病に代表される原因不明の慢性炎症性腸疾患などの病気に対する新薬の開発に活用してもらうことだ。

ミニ腸が新薬開発に使えるようになれば、薬品メーカーとしても大幅なコストカットが期待できる。薬に使われる候補化合物のスクリーニング(取捨選択)において、極めて臓器に近い人体由来のオルガノイドを使って化学反応のデータを収集し、それを基に化合物を探索できるようになる。また動物を使わずに薬の有効性や安全性を確認することもできる。

実際、新薬の開発には巨額の投資が必要だ。医薬産業政策研究所が発行するリサーチペーパー・シリーズNo.59(2013月7月)に掲載された「医薬品開発の時期と費用―アンケートによる実態調査―」によると、創薬における研究・開発の1件あたりの総投資額は平均で500億円にも上る。また、動物を使った前臨床試験を経てヒトの臨床試験に進んだ創薬プロジェクトのうち、最終的に承認を得たのは5.6件中1件に過ぎない。つまり、巨額の投資をしても、薬として承認されるものはとても少ないのだ。

土屋が部長を務める研究開発センター、コンバーティング技術研究開発本部第3部は、ミニ腸の安定的な生産を目指し、2017年からDNP柏研究施設内で細胞加工施設(CPF)を稼働させて研究開発を進めている。この実験室では、菌が徹底的に管理されており、入室するまでに2回の着替えが義務づけられているほか、一度に入室できるのは2人までに限られる。

今後の課題はDNPの技術のさらなる応用

部署のメンバーと話し合う土屋

土屋の部署のメンバーのほとんどは、生物学や薬学などを専攻してきた生命科学分野の出身者たちだ。土屋自身はDNPで材料分野を専門としていたが、米国駐在(2005-2009年)時代にバイオベンチャー企業と仕事をした経験を買われ、2010年に現在の部署に異動した。「最初は状況が把握できませんでしたが、徐々に細胞に魅了されていきました。細胞が10個あると、それぞれ違った動きをする。センシティブなところと、なかなかコントロールできないところが魅力です」

土屋は、再生医療を推進する一般社団法人 再生医療イノベーションフォーラムの幹部としての顔も持つ。「こういった活動によって、再生医療の分野でDNPの存在感を高めるのが目的です」と、企業や省庁を訪問しながら再生医療の普及に奔走する。

土屋勝則

今後の課題は、DNPの保有する技術をさらに生命科学の技術と融合させることだという。「ライフサイエンスの分野でDNPの独自性を出すには、DNPが培ってきた印刷技術をこの分野でさらに応用することです。それには、研究者一人一人がその技術を十分に理解し、どのように技術を使うべきかを考えていくことが鍵になります」と、さらなるライフサイエンス分野の発展に意欲を見せている。

  • 公開日 : 2018年4月16日
  • 部署名や製品の仕様などの掲載内容は取材時のものです。予告なしに変更されることがありますので、あらかじめご了承ください。