個人データが安全に流通する社会の実現に挑む「社内起業家」

IoT時代の到来を受け、パーソナルデータは「(デジタル世界の)新しい『石油』」(世界経済フォーラム2011年報告書)と称され、世界各国で個人情報利用の制度整備が進んでいる。

日本でいち早く、この流れに着目した会社のひとつが大日本印刷株式会社(DNP)だ。VRMビジネス企画開発部を率いる部長の勝島史恵がキーパーソンとなり、すでに2013年頃からパーソナルデータを個人主導で流通させる必要性に着目し、2017年度に閣議決定された「未来投資戦略」の「情報銀行」の制度設計に参加して成果を上げてきている。

個人情報は本来、個人に帰属するものだ。しかし、購買履歴や行動履歴などは交通機関やクレジット会社、流通・小売などの企業が把握しており、ネットの検索履歴などはGAFAと呼ばれるグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの米IT企業がほぼ主導権を握っている。勝島は、「企業などが持つパーソナルデータを個人に戻し、個人主導でパーソナルデータを流通させることにより、社会課題を解決していきたい。それによって個人にもメリットが生まれ、企業もビジネスになると考えました」と、個人から情報提供を預託される情報銀行を含む、新しいパーソナルデータ流通制度構築の意義について説明する。

新しい制度で想定しているのは、日々の食事やからだの変化に関するデータを分析して、一人ひとりに合わせたオーダーメイドの健康管理を可能にしたり、地域の人々や観光客の行動データを集約・分析して、意外な観光資源の発見や住民の困りごとを可視化し、より良い地域づくりを実現したりする、といった社会課題の解決だ。

始まりは「VRMを事業化せよ」との突然の指令

勝島が、所属部署名にも使われている「VRM(ベンダー関係管理、Vendor Relationship Management)」という聞きなれない言葉で何か事業を考えよ、という上層部からの指令を受けたのは2013年。VRMとは、「これまで企業側が管理していた個人情報を個人に戻し、生活者一人ひとりが管理・活用する」という考え方だ。入社して15年、「これまでのキャリア通りの道を進むだけで良いのか」という迷いが出てきた時だった。「社会的意義があるものでお金を稼ぐビジネスを考えていましたが、それには一つの軸が必要だと思っていました。VRMは正直、私が考えていたものとは違いましたが、研究していくうちに、それまで手がけてきたデータビジネスの実績を活かせると思い、可能性を感じました」と、すぐさま行動に出た。

この年の世界経済フォーラムで、生活者をエンパワーメントする(自主的・自律的な行動を促す力を与えていく)概念としてVRMが提唱されていたものの、勝島は専門家を探すのに苦労した。やがて、VRMは米国のジャーナリスト、ドク・サールズ氏がハーバード大学のフェローとして在籍した2006年当時に提唱したものと分かり、同氏の著書を読んで研究した。日本では東京大学産学協創推進本部の「集めないビッグデータコンソーシアム」がVRMの考え方の普及を推進していると知ると、すぐに電話をして参加した。

VRMの事業化に取り組む以前、勝島はCRM(顧客関係管理、Customer Relationship Management)を駆使し、企業の売上や利益率の向上等に関するコンサルティングを行っていたほか、データを使った地域活性化プロジェクトにも携わっていた。転機になったのは、2010年に「第1回 社会イノベーター公志園(こうしえん)」に参加し、都内の商店街の情報などを、普及し始めたスマートフォン等の携帯端末にリアルタイムで発信し、商店街への送客を図る「地縁への発展的回帰」の取り組みについて講演し、好評を博したことだった。社会問題の解決の重要さにも気付かされた。

その後、VRMの思想に出会うと、公志園で培った社外の人脈を活用し、他事業者とのパイプを作りながら官庁の動きとも連動し、パーソナルデータを個人の包括的同意に基づいて個人に代わって企業などの第三者に提供する「情報銀行」の制度設計に邁進した。勝島は以後、DNP内でも珍しい「社会課題を解決する“社内起業家”」の道を歩むことになったのだ。

「情報銀行」の制度設計や実証事業に参加し、パイオニアの地位を確立

図 情報銀行のイメージ
データ流通環境整備検討会AI、IoT時代におけるデータ活用ワーキンググループ中間とりまとめ(案)より引用

「情報銀行」の考え方は、政府の成長戦略である「日本再興戦略2016」に登場し、2016年12月施行の「官民データ活用推進基本法」に基づいて構想された。2017年度には、「未来投資戦略2017」などに「情報銀行」という呼称で盛り込まれ、閣議決定されている。
その仕組みは、まず個人がPDS(パーソナルデータストア)などのシステムを活用し、企業や医療機関などが保有してきた自身のパーソナルデータを一括して管理する。一人ひとりが情報銀行と「包括的同意」を結び、情報を預託し、情報銀行が妥当と判断した企業や団体などにデータを提供する。個人には、情報提供先事業者からのポイント付与といった直接的な恩恵や、個人が望むサービスを受けられる間接的なメリットが生まれる。(図 情報銀行のイメ―ジ)

政府は、2018年秋にも運用が始まる予定の「情報銀行」の業者認定の指針ver1.0を作成し、情報がどこに提供されたか個人が確認できるトレーサビリティの確保を事業者に課すなど、厳しいルールを策定している。パーソナルデータを安全・安心に流通させるための日本独自の制度だ。

日頃、見知らぬ企業からダイレクトメールが届くなど、自身の個人情報の流通に疑念を感じてしまうような生活者にもメリットが多いはずだ。自身がその流通を預託した情報銀行がどの企業に情報を提供したか、履歴が一目で分かるようになるほか、情報を提供したことでどのような効果が生まれるのかが分かるようになるからだ。

勝島は、自分の“will(意志)”に賛同した社内の人間を巻き込みながら、この制度設計に積極的に関与した。

政府との最初の関わりは、経済産業省だった。「情報が個人を起点に流通する社会の到来」を予測していた同省は2014年、企業が個人情報を囲い込む状況こそが日本でビッグデータが流通しにくい原因ではないかと考え、まずクレジットカード各社が個別に持つ決済ネットワークの効率化を考える検討会を立ち上げた。勝島は「集めないビッグデータコンソーシアム」だけでなく、この検討会にも加わり、事業者をまとめてVRMの考え方を広めようと努めた。その頃、インバウンド観光関連の需要が高まり、勝島は訪日観光客自身が個人情報を管理し、その情報の開示によって利用可能なサービスの事業者を選べる経済産業省の実証事業「おもてなしプラットフォーム」にDNPが参加できるよう、スキーム作りなどを進めた。この実証事業では、DNPが開発したVRMシステムが使用されている。

この実績により、勝島を含めたDNPの数名が内閣官房IT総合戦略室のデータ流通に関する検討会に参加することになる。勝島は、「パーソナルデータの主権を個人に戻し、新たなデータ流通の革命を起こすというDNPのVRMの考え方が国に採用され、法律や制度作りに関与できれば、市場は後から形成されると思っていました」と、政府の制度設計参加の意義を語る。

さらにDNPは2018年7月、総務省の2つの実証事業にも採択され、ビジネス化を視野に入れて活動を進めた。採択されたのは、JTB等と共同で行う「情報信託機能を活用した次世代トラベルエージェントサービス」と、中部電力等と共同で行う「地域型情報銀行(情報の地産地消による生活支援事業)」。DNP自身も「シェアリングエコノミー」や「医療情報」についての情報銀行実証事業を行っていく予定だ。

世界の潮流に出遅れ…その巻き返しを図る

勝島は、「ここ数年、日本でもVRMの考え方が認知され始めたが、世界的にみれば、まだまだパーソナルデータ流通後進国」だという。欧州連合(EU)で、個人データの保護を大幅に強化する一般データ保護規則(GDPR)が2018年5月に施行されたほか、英国や米国でもさまざまな施策の導入が進んでいる。フィンランドやエストニアなどでは、マイナンバーのようなIDを活用してパーソナルデータを個人が管理する先進事例も打ち出されている。

「日本の情報銀行の仕組みは、情報開示に関する個別の同意ではなく、包括的同意に基づいて、個人が情報銀行に第三者への情報提供を預託するもので、世界でも珍しい。また、情報のトレーサビリティを付与していることで安全・安心に運用できます。将来的には、このスキームを輸出できるのではないでしょうか」と、勝島は意欲的だ。

当初は、社内でもVRMの考え方を理解してもらうのに苦労したが、2015年9月、個人がデータを管理し、受けたいサービスごとに事業者を選定して必要なデータを提供していくフィージビリティスタディ(実現可能性調査)「Kirei-Safety(キレイセーフティ)」を開始し、VRM事業の課題を洗い出してきた。勝島が経済産業省の実証事業、政府の制度設計への関与を経て取り組んできたVRM事業、いわゆる情報銀行事業は社内で高い評価を受けるようになり、2017年には当時の北島義俊社長から、「ぜひ情報銀行をDNPの新たな事業展開の要にしてほしい」と言われるまでになった。

「情報銀行事業は、紙にインクを乗せる、いわゆる印刷とは全く関係ないようにみえるかもしれません。しかし、デジタル化、ネットワーク化に対するDNPの取り組みは早く、印刷技術と情報技術の掛け合わせによって、さまざまな価値を提供してきました。今後、情報銀行は、ビジネス環境がますます複雑化するなかで、社会課題を解決する新しい価値を提供すべくDNPが推進している『第三の創業』の、重点テーマのひとつになると考えています」

当面の課題は、より広く情報銀行の考え方を普及させていくことだ。現状は、人々が自身のデータを管理するという意識が薄い上、事業者も集めたデータを個人に戻して共有することに抵抗があるという。勝島は、「アピールの仕方などを考えていかなければなりませんが、最初に言い出したDNPだからこそ、なすべきものなのだと思います」と、今後の活動に意欲を見せる。

当初2人でスタートしたVRM事業だが、現在は20名以上に部員が増えた。後進を育てながら、社会課題を解決すべく、より安全・安心なデータ流通に寄与する事業を展開していく予定だ。

最後に、勝島は、「自身の“will”を貫き、日々努力を重ねれば、そこに仲間が集まり、更に大きな推進力となります。その体験を現実のものとし、後進に伝えていきたいと考えています」と締めくくった。

  • 公開日: 2018年9月25日
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