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森川嘉一郎
[もりかわ かいちろう/建築意匠論]

『フェイト/ゼロ Vol.1「第四次聖杯戦争秘話」』表紙
『フェイト/ゼロ Vol.1「第四次聖杯戦争秘話」』表紙
 1冊の小説本を買うために、2時間半も並ぶという体験をした。ピーク時は3時間待ちだったらしい。2006年末の第71回コミックマーケットを皮切りに発売された、虚淵玄『フェイト/ゼロ Vol.1「第四次聖杯戦争秘話」』(TYPE-MOON、2006)である。発行元のTYPE-MOONはいわゆる出版社ではなく、小さなゲーム制作会社。しかも4年前までは、単なる同好会だった。ゲーム開発用フリーソフトの登場やCD-ROMプレスの低価格化とともに、個人や同好会でパソコンゲームをつくり、それをパッケージソフト化することが容易になってきた。そうした背景もあって、ゲームをつくるアマチュアサークルが急増している。さらなる要因を加えるとするなら、それはまさにTYPE-MOONに代表されるスターサークルの出現だ。
 TYPE-MOONが制作した伝奇ビジュアルノベル・ゲーム『月姫』は、コミックマーケットなどの同人誌即売会で尋常ではないヒットの仕方をし、テレビアニメ化までされるという、同好会の作品としては前代未聞の革命を引き起こした。会社化したTYPE-MOONは、続いて発表したゲーム『フェイト/ステイナイト』を一般商業流通に載せ、古参のメーカーを圧して2年連続で同ジャンルのPCゲーム販売数ナンバーワンを記録している。この作品もやはり、テレビアニメになった。その快進撃は、それ自体が同人誌即売会から生まれた最も大きなサクセスストーリーのひとつを紡いでいる。
 『フェイト/ゼロ』は、『フェイト/ステイナイト』の前史を描いた伝奇活劇小説である。興味深いのはこの小説が、出版社や取次を経由せずに同人誌即売会や漫画専門店、通販などを通して販売されているということである。TYPE-MOONの過去の小説作品『空の境界』は、すでに講談社ノベルズ化されて大きな売り上げを出しており、劇場用アニメ化が進行している。今回の『フェイト/ゼロ』も、コミックマーケットの3日間で捌かれた部数だけで明らかに書店流通の多くの出版物を凌駕している。TYPE-MOONにその気があれば、大手出版社を使って一般書店で売ることも造作なくできたことだろう。しかし、双方の販売チャンネルを知る彼らは、里帰りをするかのように同人誌系の流通を選んだ。ネットやそれによる通販網の整備によって、全国の書店に配本されずとも、すでに必要十分に読者に届くようになっている。加えて出版社や取次に中間マージンが取られない分、皮肉なことに、商業流通よりも同人誌系のチャンネルで売ったほうが、同じ部数を出してもよほど実入りが大きい。ネットの普及とともに旧態依然とした商業構造がバイパスされ始めることは昔から評論家らによって予測されてきたが、この本はそんな新しさを声高に主張したり自己目的化したりすることなく、ドライにそれを実践してしまっている。

 もちろん、このような同人誌系のチャンネルは、一般書店に流通しない膨大な種類の同人誌の供給と、さらにそれを買い求めようとする分厚い客層に支えられた、大きな「市場」の存在によって成立している。秋葉原では昨年、同人誌の委託販売を中心とする漫画専門店が、電気街中央通りのサトームセンの跡地に、8階建ての新築ビルを建てた。そのような「市場」と「場」の形成にもっとも大きな役割を果たしてきたのが、先述の「コミックマーケット(コミケ)」である。漫画・アニメ・ゲームなどのファンによる同人誌即売会の中心的存在にして、おたく文化圏最大の祭典。現在は8月と12月の年2回開催され、3日間で40〜50万人が参加する。日本最大の展示場である東京ビッグサイトで行なわれるイベントのなかでも、1日当たりの集客数にして優に最大規模を誇っている。
 そのような大規模かつ日本のキャラクター文化を下支えしている存在でありながら、一般にはその内容がほとんど知られていないという断絶も、このイベントを特徴付けている。その成立と発展については、1975年に初回が開催されて以来30周年を機に刊行された、『コミックマーケット30'sファイル──1975-2005』(コミックマーケット準備会編、コミケット、2005)に詳しい。これは書名の通りコミケの記録集でありながら、単一のイベントの発展史にとどまらない性格を帯びている。現在出ている本のなかで、おたく文化の歴史をもっとも総合的かつ多角的に描き出したものは何かと問われたら、筆頭にこの本を挙げる。コミケは、その突出した規模と運営方針により実現されている出展ジャンルの多様性によって、メジャー作品の盛衰からマイナージャンル群の萌芽にいたるまで、その時々のおたく趣味の状況を広範に見渡せる場であり続けてきた。加えて、89年の宮崎事件後には犯罪者予備軍の温床であるかのようにテレビ報道されるなど、メディアでの取り上げられ方も、おたくを巡る社会の温度を如実に反映し続けている。

 もともとコミケの誕生は60年代末から70年代前半にかけてのミニコミブームを背景のひとつとしており、個人でDIY的なメディアを持つことを可能にしようという目的意識があった。それを、おたくというマイナーな人々が、メインストリームから外れた独自の文化を育む土壌として拡大させてきたわけだが、その30年以上にわたる過程のなかで、担い手であるおたくの人々の性格や性質も、年代が下がるごとに変化をみせつつある。その現代のおたくの人々の実態を総括的に記述した本はまだ出ていないが、外側からそれをうかがい知るうえで現状でもっとも参考になるのは、おそらく、昨年末に完結した漫画、木尾士目『げんしけん』(講談社、2002-2006)である。おたくを描いた漫画はいくつか出ているが、おたくの読者を対象にした自虐ネタが主体のものが多いなか、本作は一般向けとしても読めるバランスになっている。そこには、80年代ほどに偏屈でマニアックでもなければ、90年代ほど劣等感に苛まれてもいない、まだ屈折してはいるものの、以前ほどネクラではなくなった2000年代のおたくたちの群像劇が描かれている。
 そうしたおたくの人たちにとって、同人誌や同人ゲームはもはや、体制的メディアに対抗するための手段ではなく、またメジャーデビューする前の下積み用の媒体としての性格も薄れてきている。それは、商業出版物や製品と並列化された「スタイル」としての性格を強くしつつある。『げんしけん』の6巻と9巻は、この同人誌のスタイルを模した別冊を付録としてつけた限定特装版が併売された。これまで一般流通する漫画やアニメの二次創作が主体だった同人市場の作品がテレビアニメ化される一方で、同人誌を模倣したパロディ商業誌が一般書店で売られるという逆転までもが、起こっているのである。
森川嘉一郎
1971年生。桑沢デザイン研究所特任教授、早稲田大学理工学総合研究センター客員研究員。意匠論。著書=『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』(幻冬舎、2003)、『おたく:人格=空間=都市 ヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展日本館-出展フィギュア付きカタログ』(幻冬舎、2004)など。共著=『シリーズ都市・建築・歴史10──建築・都市の現在』(東京大学出版会、2006)など。
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