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美術の基礎問題 連載第21回(最終回)
3.美術館を出て━━パブリックアートについて(2)
 

日本独自の野外彫刻

 日本に「パブリックアート」が導入されたのはいつごろだろうか。1992年にパブリックアート研究所を設立した杉村荘吉は、87年から公共彫刻の情報を収集する「パブリックアート・ライブラリー(PAL)」を始め、2年後にそれを公開している。杉村によれば「その当時の日本では、誰もパブリックアートという言葉を使っていません」とのことだ。
 出版物では、85年に出たM・A・ロビネットの『屋外彫刻[オブジェと環境]』(千葉成夫訳、原著は1976年刊)には、「公共芸術」の訳語はあるものの「パブリックアート」の語は使われておらず、現代用語集『イミダス』に初めて「パブリックアート」の語が登場するのが90年発行の1991年版。92年には第1回NICAF (国際コンテンポラリーアートフェア)の関連企画として「パブリック・アート・プロポーザルズ」がおこなわれ、世界のパブリックアートを特集したカタログを出しているし、建築雑誌の『SD』は同年11月号で「アートがつくる公共空間」を特集している。パブリックアート研究所の調べによると、93年にはパブリックアートの名のついた講演、シンポジウム、出版などが23件におよんだという。
 してみると、「パブリックアート」という言葉は80年代後半に日本に入り、90 年ごろから少しずつ浸透し始めたようだ。もちろん「パブリックアート」という言葉が使われる以前から日本の公共空間にも美術作品は置かれていた。明治以前のお地蔵さんや戦前の二宮金次郎などの銅像はともかく、今日のパブリックアートにつながるものとして「野外彫刻」や「環境美術」などと呼ばれた日本独自の公共彫刻があり、各地で盛んに設置運動がおこなわれていたことを忘れてはならない。
 そのはしりともいえるのが、60年代に山口県宇部市と神戸市須磨区で相次いで始まった野外彫刻展である。これは公募で彫刻作品を募って入選作を公園に展示し、優秀作を買い上げて街なかに設置する彫刻コンペ。いわゆる「宇部・須磨方式」と呼ばれるもので、70-80年代を通してこうした彫刻コンペは少しずつかたちを変えながら全国の自治体に広がっていく。そのころ(いまでもそうかもしれないが)野外彫刻といえばブロンズの具象彫刻、それもなぜか裸婦像が定番だったが、コンペ方式をとることによってより造形性が重視されるようになり、モダンな抽象彫刻が増え、素材も石やステンレスに多様化するなど質的な変化が見られるようになった。
 だが反面、こうした彫刻コンペの流行によって野外彫刻家や環境造形作家といった専門職が生まれ、作品のパターン化を招いたことは否めない。もとより公共的な場所に置かれる彫刻は安全性や耐久性の面で素材や形態などの制約が多いうえ、複数の選考委員の審査を経て不特定多数の市民の目にさらされることから、結果的に角のとれた最大公約数的な造形しか残りにくいのだ。
 しかしそれより大きな問題は、ほとんどの作品は現地制作ではなくアトリエで制作され、しかも設置場所を想定してつくられることもあまりなかったことである。つまりそれらは、不動産に固定されるとはいえ「動産美術」であり、サイトスペシフィックな「不動産美術」ではなかったのだ。だから、神戸の須磨離宮公園で開かれた第1回現代彫刻展(1968)で関根伸夫が発表した「位相−大地」は衝撃的だったのだ。これは深さ2,7メートル、直径2メートルの円筒形の穴を掘り、その横に掘り出された土塊を同じ円筒形に固めた作品で、まさに「不動産美術」というほかないものだった。
 別に公共彫刻は「不動産美術」でなくてはならないというつもりはないが、その場所となんの関係もない彫刻がいきなり置かれたら、住人にとっても彫刻にとっても迷惑になりかねないということは指摘しておくべきだろう。90年代になって「彫刻公害」とか「不幸なパブリックアート」という言葉がささやかれるようになったのは、こうした野外彫刻がバブル景気の追い風もあって80年代に全国的に乱立したからにほかならない。

90年代のパブリックアートの展開

 こうして陳腐化していく野外彫刻への反動からか、90年代に入ると大規模な建築や都市再開発にともない、公共彫刻が「パブリックアート」という新たな衣装をまとって再登場することになる。その幕開けが91年、新宿に竣工した「バブルの塔」こと新都庁舎の内外を飾るアートワークだ。
 ここに置かれたのは、佐藤忠良、舟越保武、村井正誠ら美術界の重鎮(当時の平均年齢69,7歳!)による彫刻や絵画30点に、公募入選作8点。その多くは既存作品の買い上げで、パブリックアートとしてはほとんど見るべきものがなかったのだが、注目すべきは1569億円にのぼる総工費のうち約1パーセントの16億円をアートワークに費やしたという事実である。このような作品に16億円もの大金を費やすことの是非は問われるべきだが、ここはとりあえず首都東京が1パーセントの範を垂れたことを評価したい。
 そして94-95年、ファーレ立川と新宿アイランドのパブリックアートが相次いで完成する。どちらも住宅・都市整備公団による再開発事業で、ファーレ立川にはジョセフ・コスース、ジャン・ピエール・レイノー、宮島達男ら36カ国92人、新宿アイランドにはリキテンスタインダニエル・ビュレン、長沢英俊ら10人によるパブリックアートが設置された。両者とも総工費に占めるパブリックアートの割合は0,3パーセントほど。それでも数億円規模だ。
 このふたつのプロジェクトの画期的なところは、規模の大きさや世界的なアーティストを起用したというだけでなく、立川では車止めや換気口といった設備に作品をからませることで作品に機能をもたせたこと、新宿では設計段階からアーティストがかかわり、建築と一体化したサイトスペシフィックな作品が実現したことである。その結果、これまでの当たりさわりのない公共彫刻とは違った、視覚的にもインパクトのあるパブリックアートが成立した。こうしたことが可能になったのは、複数の選考委員が決める委員会方式をとらず、立川は北川フラム、新宿は南條史生という見識のある美術専門家がコンセプトづくりから作家の人選まで一任されたからだろう。
 これらのプロジェクトは完成時期が近かったせいもあって、マスコミにもしばしばとりあげられ、その後のパブリックアートに決定的な影響をおよぼすことになる。たとえば臨海副都心のパブリックアート(1996)も、東京国際フォーラムのアートワーク(1997)も、横浜の上大岡のアートプロジェクト(1997)も、基本的にこの「立川・新宿方式」で進められたものだ。こうして日本でも急速にパブリックアートが定着していったかに見える。
 だが、ひとつの模範解答が示されるとどこもかしこも同じ解答を求めたがるのが日本人の悪い癖。そもそもパブリックアートは設置される場所ごとに目的も条件も異なっているはずだから、同じ解答が当てはまるわけがない。にもかかわらず、なぜ東京ビッグサイトの横にクレス・オルデンバーグの巨大な西洋ノコギリが突き刺ささっていなければならないのか、なぜ福岡の保健所の前にキース・へリングの真っ赤な犬が吠えていなければならないのか。楽しければいいといわれればそれまでだが、一時的にインパクトがあっても必然性の希薄なパブリックアートはいずれ飽きられてしまうだろう。こうして日本のパブリックアートは再び模索し始める。

コミュニケーションを求めて

 90年代後半以降の新しい方向性を暗示させるパブリックアートを3つあげてみよう。
 1996年、アーティストの島袋道浩は、愛知県岩倉市の歩道に金属でできた低い円筒形の台座のようなものを置いた。道すがら腰かけるにはちょうどいい高さだが、ふだんは台座のうえになにも乗ってなく、いかにもそっけない。これは、岩倉市がシンボルロード整備事業として「音」と「コミュニティ」をテーマに企画したパブリックアートのコンペで採用された作品のひとつ。ほかの採用作品はそれなりに作品然としているのに、島袋のだけはきわめて異色だ。なぜこんな作品が選ばれたのか。
 実はこれ、本当に台座で、島袋はときどきこの街にやってきて、ここに自分のつくった作品を置いたり、このうえでパフォーマンスしたりしていたという。島袋のコメント。
「僕は形が変わっていったり、町の人々が変えることのできるものを置くことを提案した。そして、誰かがそれを壊したり、持って帰ることも許容していた。それらは一種の積極的なコミュニケーションの方法だと考えていたから。岩倉市は僕の考えを採用した。僕は歩道に丸い台座だけを設置した。人々はこれを椅子としても使うことが出来る。鳥と一緒にそこへ行った。花やパイナップルや友達とそこへ行った。たくさん友達ができ、僕達はそこでパーティーをした。音楽を演奏した。そこは出会いとコミュニケーションの場所になっていった。そこはだんだん思い出の場所になっていった」
「未来の思い出」と題するこの作品を通じて島袋は、パブリックアートというものが必ずしも一定不変の形態をとる必要はないこと、パーティーや音楽の演奏もパブリックアートに含まれうること、そのことによって地域住人とのコミュニケーションをめざしていることを示したのだ(そのうえ「音」と「コミュニティ」というコンペの条件もしっかり満たしている)。つまりこの作品はこれだけで完結したパブリックアートではなく、地域コミュニティのための一種のコミュニケーションツールだといっていい。
 1998年、兵庫県芦屋市の南芦屋浜に震災復興公営住宅ができた。その中庭に2面のだんだん畑があり、住人たちが花や野菜を植えている。「南芦屋浜コミュニティ&アートプロジェクト」のひとつとして実現した、田甫律子の作品「注文の多い楽農店」だ。しかし、住人が耕すだんだん畑がなぜ「作品」なのか。
 ここに入居した住人は阪神大震災で家を失った人たちなので、これから新たにコミュニティを形成していかなければならない。そのひとつのきっかけとして、田甫は住人同士のコミュニケーションを誘発させるために畑仕事を立案したのだ。しかし、彼女はだんだん畑の形態とコンセプトを決めただけで、あとは住人の自主参加にゆだねたため、作品形態は少しずつ変わっていかざるをえない。田甫はいう。
「だんだん畑は作品ですが、作品の全てではなく、作品の始まりでもあるのです。普通はだんだん畑のような『もの』ができてしまうと作品は終わりだという明確な線引きが想定されますが、『もの』ができた後、その全てではないにしても、不可知なものを取り込んでいきたい。その意味では畑仕事が続き、住民の皆さんが集う限りずっと作品だという言い方もできます」
 実はそれまで公営住宅において住人の自主管理で田畑をつくった例はないという。それが可能になったのは、これが単なる畑ではなく「アート」として位置づけられているからにほかならない。
 2000年、さいたま新都心のアート計画のひとつとして、庁舎間をつなぐ700メートルもの長大なペデストリアンデッキ(歩行者用通路)上に、共生空間Psiによる「いきいきとしたもの いきているようなもの」が設置された。作品そのものは未見だが、カタログとビデオを見る限りパブリックアートとしての成り立ちがきわめて興味深いので、ここで触れておきたい。
 共生空間Psiは、「ペデストリアンデッキ・アート計画」のコンペのために編成された5人のアーティスト(大塚聡、中瀬康志、光井清陽、諸泉茂、吉川陽一郎)によるチーム。彼らは子供たちと共同で作品をつくるという市民参加型のパブリックアートを提案し、採用された。そこで98年から2年近くをかけて関東1都6県の計8ヶ所をまわり、それぞれテーマに沿って不特定多数の小学生とともに作品を制作。最初はワークショップをおこないながら相互のコミュニケーションをはかり、コラボレーションによって作品を完成させた。
 彼らの方法論のユニークな点は、まず作品がアノニマス(無名性)であること。これは田甫の「注文の多い楽農店」にも当てはまることで、市民参加型の必然的な帰結ともいえるのだが、共生空間Psiの場合、作者自身も5人のチームを組むことによっていっそうアノニマス性が強化されている。これに関して、パブリックアートの研究者の竹田直樹はカタログのなかで次のように述べている。
「パブリックアートが本来保持しなければならない美とは、『奇跡のような類い希なる才能』が生み出す美ではなく、1個人の1個性を超越したアノニマスな美であることは確かである。それは、アルタミラの壁画のような古代遺跡やかつての高水準の宗教美術がもつ美と同種または類似する美の種類だと思う」
 もうひとつユニークなのは、完成された作品よりむしろ、制作過程におけるコミュニケーションとコラボレーションを重視していること。ここでは、作品を設置された「物体」としてしか見ない従来のパブリックアート観からの脱却が意図されている。彼ら自身、この試みを「既存の『パブリックアート』というものに対する問いかけ」ととらえ、「このプロジェクトで重要なのは成果としてのこれらの作品ではなく、その制作過程にあるのではないかと考えています」と述べている。

開放系のパブリックアート

 これら3つのパブリックアートの共通点をもういちどまとめてみると、作品自体の美しさや完成度より人々とのコミュニケーションを求めていること、そのため作品を介して、あるいは制作過程にワークショップやコラボレーションを採り入れることで市民参加を促していること、その結果、作者がアノニマスな存在に近づくこと、などがあげられる。ひとことでいえば、作品が静的に完結せずに動的であり、開放系であるということだ。
 こうした傾向は先述したように、近年のアメリカのパブリックアートにも重なるものだ。だからといって別に、彼らがアメリカのパブリックアートを見習ったとか、彼ら同士が影響しあったというわけでもないだろう。
 彼らのうち、長くアメリカに住んでいた田甫はコミュニティのための作品を手がけた経験はあるものの、これほどの規模でコミュニティ形成をめざした作品づくりは初めてだったという。島袋は島袋で、「人々と一緒に幸せに生きていくために、美術をやっていこうとしている」という持論をそのままパブリックアートに当てはめたものだし、共生空間Psiはそれまでの「パブリックアート」に対する疑問から作品を発想していったに違いない。強いていえば、従来の固定的なパブリックアートの通念にとらわれない点が彼らの共通項かもしれない。それゆえに動的であり、開放系なのだ。
 そして開放系であることは作品形態にも表れている。島袋の「未来の思い出」は、そのうえにいかなる作品を乗せてもいいように(パフォーマンスをやってもいい)なんの変哲もない低い台座のかたちをしているし、田甫の「注文の多い楽農店」はいかなる植物を植えてもいいようにだんだん畑になっている。いってみればこれらは住人に開かれた一種の「器」なのだ。共生空間Psiの「いきいきとしたもの いきているようなもの」はまだ実見していないが、少なくともひとつの大きなかたまりではなく、ペデストリアンデッキ上にへばりつくようなかたちで数ヶ所に分散しているようだ。
 かつての大地に屹立するようなモニュメントはいうにおよばず、現在のパブリックアートの多くもこれ見よがしのマッチョな形態をとっているのに比べれば、これらは作品といわれなければわからないくらいひかえめで、しかも不定形である。だからこそだれでも受け入れてくれるのだ。
 これらのパブリックアートは、従来の美学的価値観からすれば作品としては「弱い」かもしれない。だが、パブリックアートの目的がコミュニティのため、あるいはコミュニケーションを誘発させるためにあるとすれば、こうした「弱さ」はむしろ積極的に評価されなければならないだろう。そこが美術館で観賞される美術作品とのいちばんの違いではないか。少なくともこれからのパブリックアートは、美術館に収まるような「動産美術」であるべきではないのだ。「パブリック」な「アートミュージアム」なら歓迎するが、間違っても「パブリックアート」の「ミュージアム」などつくってはならない。  


[主要参考文献]
・杉村荘吉『パブリックアートが街を語る』東洋経済新報社
・竹田直樹『パブリック・アート入門』公人の友社
・村田真「南芦屋浜の『パブリック』な『アート』」、図録『南芦屋浜コミュニティ&
 アートプロジェクトドキュメント展Part II』1999、芦屋市立美術博物館
・『別冊太陽パブリックアートの世界』平凡社
・図録『SHINJUKU I-LAND Pubric Art Project』住宅・都市整備公団東京支社
・島袋道浩『島袋道浩1991-1998』自家製本
・大西若人「田甫律子氏へのインタビュー」、図録『南芦屋浜コミュニティ&
 アートプロジェクトドキュメント展Part II』、前出
  ・竹田直樹「『いきいきとしたもの 生きているようなもの』のすごいところ」、
 図録『いきいきとしたもの いきているようなもの』共生空間Psi
・共生空間Psi「プロジェクトの成り立ち」、図録『いきいきとしたもの いきているようなもの』、前出
・村上隆+八谷和彦+島袋道浩「現代アート、バージョンアップ」、『国際交流』第91号
 (特集「現代アートの潮流」)、2001年、国際交流基金



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