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美術の基礎問題 連載第20回
3.美術館を出て━━パブリックアートについて
 

「脱美術館」としてのパブリックアート

 パブリックアートとは文字どおり「公共的な美術」のこと。一般には、広場やビルの公開空地などだれでも出入りできる場所に恒久的に置かれた美術作品を指す。その源流をさかのぼれば、かつて広場に鎮座していた彫像や記念碑、あるいは教会の壁を飾っていたフレスコ画などにいきつくはずだ。すなわちそれは、民衆になんらかのメッセージを伝えるため公共的な場所に置かれ、土地や建築と一体化した美術の一様態であり、いいかえれば「不動産美術」ということだ。
 だが、今日のパブリックアートを単にかつての記念碑の延長と見てはならない。なぜならその間に美術館という制度が確立したからである。なぜ美術館という展示スペースをつくっておきながら、わざわざ美術作品を外に置く必要があったのか、そこに今日のパブリックアートの問題が集約されているように思えるのだ。このことを明確にするために、もういちど美術館から「脱美術館」への歩みを追ってみるのも無駄ではあるまい。
 そもそも美術とは、たとえ権力者が奴隷に命じてつくらせたものであろうが、逆にきわめて個人的な動機によって表現されたものであろうが、あるいはまた、いかに反社会的な意図をもっていようが、それが「芸術」として多くの人の目に供される限り公共的な存在といえる。というより、人々の共感を呼ぶ作品は公共的な価値があるからこそ「芸術」と呼ばれ、大切にあつかわれてきたというべきだろう。だからそれまで一部の権力者に占有されていた美術品は、美術館のなかに保護して一般公開されなければならなかったのだ。その意味で美術館もすぐれてパブリックな存在であるはずだ。
 ところが皮肉なことに、美術館という閉じた空間に囲い込まれることによって美術はしだいに外の世界との接点を見失い、むしろ社会的な関連を断ち切ったフォーマリスティックな作品こそ「純粋芸術」として尊ばれることになった。そこで、美術が本来もっていたはずの社会性・公共性を発揮させるには美術館の外に出なければならなかった。そのとき、公共的であることを強調するために、あたかも屋上屋を重ねるがごとく「アート」の前に「パブリック」をつけて差別化する必要があったのだ。だとすれば、パブリックアートは美術館に対する反動として生まれた「脱美術館」の動向のひとつということになり、ある意味で「不動産美術」への回帰ともいえる。パブリックアートの大半が「商品生産」ではなく「注文生産」(正確には「コミッションワーク(委託制作)」というべきだが)によって成り立っていることもそのことを裏づけている。
 つまりパブリックアートの「パブリック」とは、設置場所が公共的であるだけでなく、作品自体が公共的であることをめざし、制作費も公金によってまかなわれることを意味しているのだ。
 さらにもうひとつ、忘れてはならないのが地域コミュニティからの要請である。美術館は数が限られているうえ、いくら開かれた美術館といえども宿命的にグローバルな方向をめざすものだから、ともすればローカルな社会から浮いてしまう。そこで、もっと身近に親しめる「パブリック(一般市民)」のためのアートが望まれたのだ。
 いずれにせよ、パブリックアートには美術館批判が内包されていることは間違いない。そしてこのような「脱美術館」の文脈で見れば、パブリックアートは美術の単なる一様態ではなく、ひとつの新しい運動としてとらえることも可能になる。そうなると、パブリックアートは必ずしもパーマネントである必要はなく、テンポラリーな屋外作品もその場限りのパフォーマンスも、ポスターや電光掲示板でのメッセージも、ウェブ上での表現でさえそこに含まれてくる(それはまた、「脱美術館」的作品が「不動産美術」であるとは限らないことを示している)。
 このようにパブリックアートをひとつの運動としてとらえ、その概念を拡大させてきたのはアメリカである。アメリカが記念碑などの「不動産美術」の歴史が浅く、しかもフォーマリズムを推進してきた国であることは偶然ではない。試みに、アメリカ人によるパブリックアートの定義をひとつ引いてみよう。
「『パブリック・アート』とは、共同体(コミュニティ)のために制作され、そして共同体(コミュニティ)によって所有される美術品と最も広く一般に認識されている」(ロバート・アトキンス『現代美術のキーワード』)
 ここでは設置場所の公共性や作品の恒久性についてはまったく述べられていない。キーワードは「共同体(コミュニティ)」だけである。

アメリカのパブリックアート

 では、アメリカにおけるパブリックアートの歩みをたどってみよう。
 最初に、アメリカ政府の先駆的な取り組みとして触れておかなければならないのが、世界恐慌のあとを受けて1930年代におこなわれたWPA(Works Progress Administration=公共事業促進局)によるFAP(Federal Art Project=連邦美術計画)だ。これはルーズヴェルト大統領が始めたニューディール政策の一環で、公共事業にさいして美術家を動員し公共建築を飾るというプロジェクト。ただし、公共建築を飾るために美術家を動員したというより、美術家に仕事を与えることを目的とした芸術支援策だった。1935年から8年間に画家や彫刻家ら1万人近くが恩恵を受け、40万点以上の作品が生み出されたといわれている。
 これに参加した画家には、社会派として知られるベン・シャーンや、のちに抽象表現主義を形成するポロックデ・クーニングロスコらもいた。当時はリヴェラ、オロスコ、シケイロスらによるメキシコ壁画運動の影響もあって壁画が盛んに制作され、その経験が抽象表現主義の巨大画面に受け継がれたといわれている(その抽象表現主義の絵画からアメリカのフォーマリズム理論が打ち立てられたのは皮肉な話だが)。
 このようにアメリカでのパブリックアートは、美術家に公共的な仕事を委託し、市民に同時代の美術家の作品に接する機会を与えることを目的として出発した。
 第2次大戦後、1959年になると、フィラデルフィア市が「パーセント・フォー・アーツ条例」を制定。これは公共事業の実施にさいし、建設工事費の1パーセント前後を美術作品のために費やすことを義務づけたもの。以後この条例は60-70年代をとおして全米の自治体に広まっただけでなく、ヨーロッパの各都市にも波及し、パブリックアート隆盛の起爆剤となった。
 1965年には、あらゆる芸術分野の活動を支援する連邦政府の独立機関としてNEA(National Endowment for the Arts=全米芸術基金)が設立され、各地の自治体とマッチング方式(たとえば自治体が1万ドル出せば基金からも1万ドルが支出されるという方式)でパブリックアートに助成を始める。その最初の例が、1967年にグランドラピッド市の再開発計画のさいに設置されたアレクサンダー・カルダーの彫刻だった。このころから各地にパブリックアートが林立し始める。

 また、60年代後半から盛んになったアースワークが70-80年代をとおしてパブリックアートに合流していったことは前述したが、そのせいか、ケタはずれにスケールの大きな、まさにアメリカならではのパブリックアートが出現。たとえばイサム・ノグチが各地で手がけた庭園をはじめ、マヤ・リンによるワシントンD.C.の「ベトナム戦争戦没者追悼記念碑」(1982)、メアリー・ミスら美術家や建築家が協力してバッテリーパークに完成させた「サウスコープ」(1988)などだ。
 これらの例からもわかるように、このころまでは土地と密着した「不動産美術」型のパブリックアートが主流だった。ところが80年代に起こったある事件をきっかけに大きな転換点を迎えることになる。それが、彫刻家リチャード・セラの「傾いた弧」をめぐる論争である。

セラの投げかけた問題

 1981年、セラはGSA(General Services Administration=公共事業局)の依頼で、ニューヨークの連邦プラザに「傾いた弧」を完成させた。高さ3,7メートル、長さ37メートル、厚さ6センチ強のゆるいカーブを描く巨大な鉄板を、ほんの少し傾斜させて広場に置いたものだ。
 この作品は、いまにもこちらに倒れてきそうな恐怖感を与えるうえ、視界や通行の障害にもなることから、近くのオフィスに通うひとりの裁判官が苦情の手紙を出し、撤去を求めるキャンペーンを開始。彼はこの作品を「錆びた鉄のバリア」と呼び、ニューヨーク・タイムズ紙も追従して「『傾いた弧』は市内でもっとも不快な屋外作品」と評した。
 こうしたキャンペーンを受けて、GSAはみずから委託したにもかかわらず撤去やむなしの方針に傾き、作者にほかの場所への移動を勧告。それに対してセラは、「『傾いた弧』は連邦プラザというひとつの特別な場所のために委託され、デザインされたサイトスペシフィックな作品だから、ほかの場所に移動することはできない」として、これを拒否。両者の争いはメディアを巻き込んでの論争に発展し、裁判所にもち込まれたものの、結局1989年に政府の決定により撤去されることになった。
 この論争をめぐって、法学者のジョセフ・L・サックスは次のように述べている。
「こうした論争には関係者全員が納得するような解決策はありえない。(中略)芸術家の諸権利に関して言えば、もし(セラの「傾いた円弧」のような)大きな彫刻が公共の、不可避的に人出の多い場所に保存されねばならぬとするならば、実際上の結末がそうなるように、彼らの諸権利は、気の進まぬ人々にも遥か遠い将来にわたり無理矢理に彼らの作品を観賞させる権利を含むところまで大幅に拡張されねばならぬだろう。そうでなければ、こうした状況下で芸術家は自由な表現の権利を持たぬことになる」
 芸術家の表現の自由が保障された民主主義の社会にあって、パブリックアートが公共的な場所にパーマネントに設置される限り、こうした問題は避けて通れないのだ。そのため、これ以降パブリックアートをつくるときには、地域コミュニティの合意をとりつけなければならなくなった。ロバート・アトキンスが「共同体(コミュニティ)」をキーワードにしたのはこのためである。
 また80年代後半以降、設置期間を限定したり場所を固定しない作品、あるいはパフォーマンスや映像といったその場限りのパブリックアートが急増していくのも、この事件がひとつの契機になったと考えられる。半年から1年程度のテンポラリーな作品に助成するパブリックアート基金や、ニューヨークのタイムズスクエアに作品を設置する非営利団体クリエイティヴ・タイムの「42丁目アートプロジェクト」など、期間限定、場所限定のパブリックアート支援団体もこうした動きをバックアップした。ジェニー・ホルツァーによる電光掲示板を使ったメッセージ・アートも、彼らの助成によって実現したものだ。
 こうして見ると、セラの「傾いた弧」は作品そのものは消えてしまったが、その論争をとおしてパブリックアートに対するまさにパブリックな関心を高め、結果的にパブリックアートのあり方さえ変えてしまったという意味で、多大な功績を残したのである。
 さらに、「ポリティカル・コレクトネス」や「マルチ・カルチャリズム」が提唱された1990年ごろから、パブリックアートは人種的マイノリティや低所得者、同性愛者、エイズ患者といった抑圧された人たちに対する社会的関心を喚起するものになっていく。代表的なものに、公共建築の外壁に批判的な映像を映し出す「パブリック・プロジェクション」や、ホームレスのために設計された「ホームレス・ヴィークル」など、クシュシトフ・ウディチコによる一連のプロジェクトがある。
 だが、ウディチコのプロジェクトはまだ「アート」としての体をなしているが、なかには「なぜ、これがアートなの?」と聞きたくなるような、社会奉仕や市民運動と変わりのない活動までパブリックアートと呼ぶ風潮が出てきた。また、安易にポリティカル・コレクトネスに迎合した最大公約数的表現ほどつまらないものはないし、地域コミュニティの意見を尊重するあまりポピュリズムに陥ってしまった例もある。つまり「パブリック」を優先すればするほど「アート」がないがしろにされてしまうのだ。
 これに関連して、最近話題になった例をあげたい。2001年のニューヨークのテロ現場に設置される予定だった記念像をめぐる騒動だ。
 朝日新聞(2002年1月21日)によれば、3人の消防士が瓦礫の山に星条旗を掲げる写真をもとに、市の消防本部が彫刻会社に粘土による試作品をつくらせた。ところが、もとの写真は3人とも白人だったのに、マイノリティに配慮して彼らを白人、黒人、ヒスパニックに置き換えてしまった。これに対して、ポリティカル・コレクトネスの推進者は歓迎したものの、一般からは「人種の逆差別」「事実の歪曲」と反対の声があがり、記念像の計画自体が撤回されたという。
 そもそもこの記念像自体「彫刻会社」に発注されたというくらいだから、昔ながらの記念碑となんら変わりのない陳腐な代物。こうした国家的な事件のあとで国民の心をひとつにするには、美術家のオリジナリティが前面に出る「現代美術」より、保守的でわかりやすい「具象彫刻」のほうが効果的だと思われているらしい。ただ具象といってもこの場合、写真をもとに政治的操作をくわえているのだから、きわめてプロパガンダ色の強いものだ。だからこそ広く一般の関心を集めたわけだが、残念ながらセラの「傾いた弧」が提供したような「パブリック」と「アート」をめぐる生産的な論争に発展せず、瑣末なあげ足とりに終始したあげく、なにも残らなかったのだ。
 やはり朝日新聞(2001年9月19日)が伝えるところによると、テロ直後から現場に近いユニオンスクエアでは、ワシントン初代大統領の銅像に「いまこそ愛を」「戦争にノー、復讐にノー」などと落書きされたり、「悲しみは、分け合うと半分になる」といったメッセージを書いたTシャツが、そでを縫い合わされて柵にかけられたという。これらを「アート」と呼ぶにははばかられるが、しかし記念像と比べてどっちが「パブリックアート」らしいだろうか。
 どうやらいまのアメリカは、少なくとも超保守に回帰した9・11以後は、パブリックアートにとって受難の時代なのかもしれない。  


[主要参考文献]
・岡崎乾二郎「真の『パブリック・アート』はいかにして可能か」、『美術手帖』1996年11月号
 (特集「都市とアートの真相」)、美術出版社
・小倉利丸「都市空間に介入する文化のアクティビスト」、『現代思想』1997年5月号
 (特集「ストリート・カルチャー」)、青土社
・ロバート・アトキンス『現代美術のキーワード』杉山悦子+及部奈津+水谷みつる訳、美術出版社
・吉本光弘+片岡真実「芸術は都市をよみがえらせる――米国における芸術の経済効果と
 パブリック・アートを中心に」、『調査月報』1994年9月号、ニッセイ基礎研究所
・ロナルド・タムプリン編『20世紀の歴史11 芸術(上)』多木浩二監修、井上健監訳、平凡社
・柏木博「パブリック・アートはなにを気づかせるか」、『美術手帖』1993年8 月号
 (特集「だれのための美術なのか」)、美術出版社
・柏木博+小倉利丸+内田繁「(鼎談)パブリック・アートを考える」、『東京造形大学』1995年
・edited by Clara Weyergraf-Serra and Martha Buskirk‘The Destruction of Tilted Arc:Documents’
 The MIT Press
・ジョセフ・L・サックス「『レンブラント』でダーツ遊びとは」都留重人監訳岩波書店
・山中季広「NY消防士像立たず」、朝日新聞2002年1月21日夕刊、朝日新聞社
・近藤康太郎「テロへの報復に『?』印」、朝日新聞2001年9月19日朝刊、朝日新聞社



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