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香川 毛利義嗣
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福永信「迷子の迷子」展(結末部分)

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 まきは、さっきからずっと、おんなじ場所に座っています。
 ちっとも動かないで、じっと前を見ています。ときおり、あっと口をあけて、立ち上がったりしますけれど、すぐに首を振って、もとどおり、座ってしまいます。今だって、立ち上がったけど、もう座ってしまいました。期待はどうやら、またしても、裏切られたのでしょう。まきは、さっきからゆきの帰りを待っているのです。
 「もうちょっと、ここにいよう」
 自分の出した声が思わぬ反響をもつことに、まきは、ちょっと、びっくりしました。足もとにはたくさんのたばこの吸い殻が転がっていました。牛乳瓶もたくさん並んでいました。約束の時間はとっくに過ぎていました。でも、いっこうに、ゆきが戻ってくる気配はありません。
 裏切り、といった、残酷な言葉がふと、浮かびました。浮かんですぐ、打ち消します。それこそ、妹を裏切ることだ、そう思えたからです。
 ゆきじゃない、まったくの別人だったら、次から次へと、ひっきりなしといっていいほど、まきの前にやってきました。
 「お嬢さん。ひとりぼっちなの。ひとりぼっちはさびしいだろう。いっしょに、あっちへ行こう」
 話しかけてきたのは、まきのお父さんくらいの年齢の男の人でした。いつの間にか、となりのマッサージ機に座っていたのです。
 まきはぞっとして、マッサージ機から離れました。すると、ごくごく自然に、というように、立ち上がったまきの肩に手がまわされたのでした。
 「お嬢さん。迷子になって困っているの。お父さんを探しているんだろう。いっしょに探してやろう」
 まきの肩に手を回したその男の人は、立派なひげをはやしていました。そのひげはまだしめっていました。髪からもぽたっぽたっとしずくが落ちています。
 まきは、すかさずきんたまにアッパーカットを食らわせてやりました。立派なひげの男は、ウッウッ、とかすれた声を出して、倒れてしまいました。お父さんくらいの年齢の男の人はあわてて逃げてゆきました。でも、それでもまだ、まきに話しかけてくる人がいました。
 「お嬢さん。元気いっぱいだね。そんなに元気なら、すっかり、おなかがすいただろう。すっぽん料理でも食べにいこう」
 つるっぱげの、百歳くらいのおじいさんでした。さっきみたいにされても、ちっとも痛みを感じないんでしょう。
 こんなふうに、ひっきりなしに話しかけられたのも、よくよく考えてみれば、無理のないことかもしれません。といいますのは、まきは四姉妹の中でもっともお姉さんだったからです。
 次女のゆきはなまいきで、ずるっこく計算高いところなんかは大人っぽくもありますけれど、怖がりですし、実際、まだあどけない子供にすぎません。みきは月経はありますがへいきで子供運賃で電車に乗っています。末っ娘のまゆみについては、いうまでもないでしょう。
 それに、まきは、おへそも、出していました。
 四姉妹の中で、こんな大人っぽくてかっこいいファッションができるのは、まきだけです。しかも、さっき、おへそのまわりも、きれいに洗ったばかりでした。おへそにさわろうと手を伸ばす人がいたって、無理もないことです。
 窓の外はすでに薄暗くなっていて、いったい、どれだけの時間が流れたのか、数分なのかそれ以上なのか、わからなくなっていました。そのときでした。のれんの外のずっと先から、ゆきの姿がゆっくりと現れてきたのです。いや、ゆっくり、ではありません。こっちへ向かって走ってきます。そのうしろからは、みきが続いて走ってくるのも見えました。
 「おかえり」
 まきは手を振りながら外へ出ました。ふたりも笑顔で手を大きく振って答えています。
 「三人そろったわね。じゃあ、まゆみを探しに行きましょう」
 ゆきとみきに向かって、まゆみは、そういうつもりでした。
 「そして、森を探しあてて、早く、百億個のおかしを木という木につるしに行きましょう」
 そうもいうつもりでした。しかし、いいませんでした。やってきたふたりというのが、本当のゆきとみきではなかったからです。
 まきの前で、からだをかがめて、ひざに手をあてて、あらい鼻息をたてているのは、どうみても、どっからみても、ぬいぐるみ、でした。作り物の、合成樹脂でできた、ぬいぐるみです。たしかに、顔とか服装とかは、ゆきとみきにそっくりでした。だけど、体がずっと大きいのです。さっきのおじさんやおじいさんとちょうど、おなじくらいあります。
 「あなたは、みき?」
 ぬいぐるみに向かって、ためしに、そう問いかけてみました。みき、のぬいぐるみは、おおげさにうなずいてみせます。
 「あなたは、ゆき?」
 こっちのぬいぐるみも、激しくうなずきました。胸に手をあてています。
 ゆき、のぬいぐるみと、みき、のぬいぐるみは、まきの手を取って、出て来たばかりの銭湯へ向かって歩きだしました。まきは、もう一度、脱衣場へ戻りました。話しかけてきたふたりの男の姿はどこにも、見当たりませんでした。
 ゆきの表情にも、みきの表情にも、さっきからいっこうに、変化は見られませんでした。ずっと笑顔のままです。どう考えたって、これは、FRPです。まきはたばこをくわえて、マッチをしゅっとすりました。するとゆきとみきはさっと、まきのそばから離れてしまいました。
 「どうしたの」
 わざと、マッチの火をふたりに近づけます。
 「こわいの」
 とけるのを恐れているでのでしょう。ふたりは笑顔のまま、首を振って、後ずさりをするばかり、でした。
 ぬいぐるみの中に入っているのは、話しかけてきたさっきの男なのではないか。まゆみはそう思いました。
 ただ、気になることがひとつ、ありました。それはゆきが両手で大事そうに抱えている、箱、です。その箱はまゆみとゆきとみきとまゆみの四姉妹が人形から預かった、おかしが十億個入っているというあの箱にそっくりだったのです。
 「ちょっと聞くけど、その箱、どこで手に入れたの」
 まきがそうたずねますと、ふたりは、何かにつまずき、そろってひっくりかえってしまいました。さっきまきがアッパーカットしてうずくまったままになっている男に、足をとられてしまったのです。
 「その箱、私たちが預かったものにそっくりなんだけど」
 そういいますと、ふたりは横たわったまま、FRPでできた大きな顔だけこっちに向けてさっきとおなじように、激しくうなずきました。
 「じゃあ、返してよ」
 でも、まきが大きな声でこう言い放っても、ふたりは箱を離そうとしません。
 「私たちが預かったのよ、それ。あなたたちも認めたんでしょう。だったらこっちに渡して」
 やはり、男だからでしょうか、まきより腕力があります。いくらおへそをだしていたって、かないっこありません。
 ゆきとみきは、耳と口を近づけて、何やら小声で話しだしました。ちらっちらっと、まきを見ています。そして、おもむろに服を脱ぎ始めました。お風呂に入るつもりなのです。おかしが十億個入っているという箱とそっくりの箱は、ゆきがロッカーに入れてしまいました。
 「ひょっとしたら、ふたりはほんとうに、ゆきとみき、なんじゃないかしら」
 こう思ったのは、ふたりの服の脱ぎかたを見たからでした。ゆきは靴下を最後に脱ぐのがくせでした。みきは座ってじゃないと、服を脱げません。四人姉妹はずっと一緒にお風呂に入っているので、たがいのそういったくせに関してはとてもくわしかったのです。ちなみに、まゆみはひとりでは服を脱ぐことも着ることも、できませんでした。
 もし、この推論が正しいとすると、ゆき、のぬいぐるみに入っているのは、みき、みき、のぬいぐるみに入っているのは、ゆき、ということになります。なぜなら、ゆき、のぬいぐるみのほうが座って服を脱いでいて、みき、のぬいぐるみのほうが、靴下だけの姿なのですから。何らかの都合で、反対のぬいぐるみに入ってしまったのでしょう。
 ふたりがゆきとみきなのに、いっこうにまきに話しかけなかったのはとりたてて不思議なことではありません。ああいうぬいぐるみショーのぬいぐるみの声は、別の人がするのです。ぬいぐるみの中の人とはまったくの別人が別の場所で別の日に録音したカンパケのカセットテープにあわせて動くのです。それに、ぬいぐるみの口もとにかならずしも中に入っている人間の口があるわけではないのです。バイキンマンの中に入っている人は歯のあいだから見ている、という話を聞いたことがあります。もちろん、ぬいぐるみの中の人が直接、声を出したからって、それはぬいぐるみの声とはいえないし、むしろ、そっちのほうが別人の声と見なされてしまうでしょう。観客のちびっこたちは別々の場所にある物と声とを想像の中で結び付け、そこに、ぬいぐるみそのものをぬいぐるみとしてではなく、たとえばバイキンマンとして、実在させるのです。サイン会や握手会でバイキンマンがまったくしゃべらず、身振り手振りでしか自分に表現してこなかったとしても、ちっとも不自然とは感じないのです。
 とはいえ、ゆきとみきのぬいぐるみに入っているのがさっきのお父さんくらいの年齢の男の人やつるっぱげの百歳のおじいさんではないと、断言はできません。そこのところはしっかりと見極める必要があります。何しろ、正体は中に隠されているわけですから、慎重に判断する必要があるのです。忍者でないとさえ、いいきれないのです。
 (おしまい)
 
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