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日本近代絵画の特異性と「現実性の寓意」のありか
高島直之
東京都現代美術館 東京藝術大学大学美術館
「再考:近代日本の絵画──美意識の形成と展開」展
会期:2004年4月10日(土)〜6月20日(日)
会場:東京藝術大学大学美術館、東京都現代美術館
 「再考:近代日本の絵画──美意識の形成と展開」展は、東京藝術大学、東京都現代美術館、セゾン現代美術館の三者が主催者として共同で企画したものであり、出品協力に東京国立近代美術館を迎えての「日本近代絵画」の回顧展である。各館所蔵の作品から厳選のうえに並べなおし、19-20世紀の日本の美術を新たな視点から見直そうという試みは、世紀転換後の現在にあって重要な意味をもつはずである。
 対象となる歴史スパンは、洋画導入期の19世紀半ばから現代までであるが、貿易振興を柱とする産業品としての「美術」の位置から、洋画・日本画の制度化=アカデミズムの誕生までを「第1部」として、東京藝術大学大学美術館で展示され、印象派の受容から前衛美術を経て戦争画へ、さらに戦後・現代絵画までの流れを「第2部」として、東京都現代美術館で開催されている。

対象との距離と〈物質〉性
東京都現代美術館、展示風景
東京都現代美術館、展示風景
 日本における〈絵画の近代〉といえば、近代化イコール〈西洋化〉、つまり油彩画という新技術の受容過程で論じられる次元があり、その文化波及のプロセスを〈近代〉とするのも理由なしとしないが、やはり〈絵画の近代〉というならば市民社会の下で、その画家が感じたことを自由に描くことができ、かつそれが一般の人々の感情にフィットしえたかどうか、という指標を差し挟む必要があるだろう。
 わたしは、その後者の点において、本展に並べられた「日本画」作品の構想力と技巧を背景とする、表現の根源性を認めざるをえなかった。後に作品例に挙げる速水御舟や土田麦遷の仕事は、ヨーロッパ近代における人間中心主義の世界像である、作家(主体)と対象(客体)との距離を超越して、対象としての〈物質〉の在り方にこだわったために、「距離」の発生の元である光の位置を無視していくのである。
 あるいはまた、ヨーロッパ近代を規範とすると、その美の思考回路には、古典主義(新古典主義)かロマン主義(リヴァイヴァリズム)か、つまりは合理主義かピクチャレスクか、といった対立的関係が市民の美的判断基準に埋め込まれているが、近代日本ではそういった思考回路を前提としてもってはいない。それは世界史のなかでの日本の近現代史の位置を再び考えさせる。
 資本主義の発達において、日本ではブルジョワ革命として「明治維新」があったが、市民階級が未成熟のままに大衆社会を成立させた。明治とともに始まった近代天皇制は、1945年までに軍事ファシズム国家として進み、戦後に「国民の象徴」となって、高度な大衆消費社会を成立させていったのである。そこでの「全体主義」の行方、「民主主義」のありかをどう捉えるかの問題が浮上する。
 ここでは一般論を超えて、日本近代の芸術家が「戦争」や「自由と平等」をどう受け止めていったのか、それを自らの時代の表現としていかにして押し出そうとしたのかが、重要になってくる。絵画が画布に乗った絵具の連なりだとすれば、それ自体は歴史的「現実」足りえないが、その視覚化されたヴィジョンは「現実」の先を見透かしていく能力をもち「現実性の寓意」として立ち働くのである。
 しかしながら、本展の構成は歴史貫通的に作品が並べられており、鑑賞者一般に通史的理解をもって貰おうという企画意図が優先されている。それはそれとしての価値があり、鑑賞者それぞれが、これらの歴史的メニューから自由に〈美〉を感じ取っていくべきことなのかも知れない。

光源の喪失とマチエール
高橋由一《鮭》
高橋由一《鮭》1877年
東京藝術大学蔵
 たとえばわたしは、高橋由一の《甲冑図》(1877)の、布地や漆細工品などの材質の描き分けの正確さに感心した。物質そのものに張り付き、その表情に張り付いている内に光源の位置が曖昧になり、手と物質の関係だけが優先され、主体と客体との距離を喪失していく危うさが伝わってくる。そういった流れから絵具とマチエールが合致していく同《鮭》(1877)の特別な位置も再確認した。また、同じ画題の坂本繁二郎の《鮭》(1949)は、ジャコメッティともモランディとも違った対象への肉薄ぶりがあり、肉薄しすぎて対象が溶解し、ついにあるユーモアさえ漂わすところに素直に感動させられた。
 速水御舟《鍋島の皿に石榴》(1921)、土田麦遷《蔬菜》(1924)のふたつは、ある究極の表現だと思う。速水の描く鍋島(焼物)の地肌・質感、土田は物質感というよりも、デザイン的で緊密な構成や微細な筆遣いの繊細さ、そして色彩対比の妙、といい、それぞれ作品面積は小さいながらもそれが掛けられた空間がキュッとしまってみえた。速水は岸田劉生の影響を受けているが、思えば、この展示コーナー近辺に、由一《鮭》、岸田《壺の上に林檎が乗って在る》(1916)、速水、土田、坂本と並んでおり、わたしには、このあたりに日本近代絵画の奇抜かつ特異な性格が露出しているのではないか、思われた。
この企画展をめぐるシンポジウム「日本近代絵画の核心」で浅田彰は、「現実性の寓意」以外に「ほどよいシンボリズム」と「物質的残余」が近代絵画の要件である、とまとめていた。日本の近代は、主体と客体の距離が曖昧で、油彩で表現できる線遠近法的距離感や明暗法などの表現力は脆弱であることが、この展覧会から伝わってきた。しかしある基準からみて「脆弱」であるとしても、反面それは「特異性」でもある。そういった日本の特異な点を見つけ出しそれを線として繋げていきながら、それがいかに「現実性の寓意」とどう取り結んでいったのかをあらためて考えていく必要がある、と思われた。

[ たかしま なおゆき ]
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