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「デジグラフィ」を巡って、
飯沢耕太郎
飯沢耕太郎『デジグラフィ──デジタルは写真を殺すのか?』
中央公論新社、2004
飯沢耕太郎『デジグラフィ──
デジタルは写真を殺すのか?』
中央公論新社、2004
『美術手帖』2004年6月号
『美術手帖』2004年6月号
 先日、『デジグラフィ──デジタルは写真を殺すのか?』と題する本を中央公論新社から上梓した。講演を依頼されたり、『美術手帖』(2004年6月号)が「フォトグラフィから[デジグラフィ]へ」という特集を組んだりするなど、この種のやや硬めの評論集の割にはいろいろ反響がある。誰もが疑問と不安を感じていた事象について、まがりなりにも正面から取り組んだ、そのタイミングがよかったということだろう。
 なぜ、この本を書こうと思ったかといえば、ここ数年の写真を巡る状況がドラスティックに変化したためである。「デジタル化」の波が写真界を大きく呑み込みつつある。今やデジタルカメラの出荷量はフィルム使用のアナログカメラをはるかに超え、その差は年々拡大しつつある。カメラ付きの携帯で撮影したり、送信したりする光景も見慣れたものになった。ニュース写真や広告写真の分野では、デジタルカメラなしでは仕事にならない。新聞社では、もう数年前から暗室が完全に姿を消してしまった。
 にもかかわらず、僕が主に扱ってきた「表現としての写真」の領域では、なかなかそのような状況に対応できずにいる。僕自身がデジタルカメラを使ってみて強く感じたのは、そのイメージ生成と使用のシステム自体が、従来のアナログカメラとはかなり違っているのではないかということだった。あえて「デジグラフィ」(digigraphy)という「フォトグラフィ」(photography)と対応する造語を使うようにしたのもそのためである。つまり「デジタルカメラによって記録された画像、あるいはアナログカメラによるものでもスキャニングによってデジタル化された画像の使用、及び表現のプロセス全体」を「デジグラフィ」と呼ぶことにしたのだ。

「デジグラフィ」の5つの特徴
 では、「デジグラフィ」には「フォトグラフィ」と比較してどんな特徴があるのだろうか。それについては5つの指標を挙げて論じている。(1)改変性、(2)現認性、(3)蓄積性、(4)相互通信性、(5)消去性の5項目である。
 改変性というのは「デジグラフィ」の画像を自由に変更できるということ。「デジグラフィ」は印画紙やフィルムのような物質と結びついて存在しているアナログ画像と違って、数値化された電気信号がその本質であり、それらを組み替えたり、他のデータと結びつけたりする操作を簡単に行なうことができる。フォトショップのようなソフトを使えば、フォト・モンタージュのようなこれまで写真家たちが大変な苦労をしてきた作業が、あっけないほどのスピードと正確さで実現してしまうのだ。
 現認性は撮影した画像をその場で確認できるということ。現像や焼き付けのプロセスを経ないと画像を確認できないアナログカメラと違って、デジタルカメラの液晶ビュアーには撮影済みの画像をすぐに映し出すことができる。このことは撮影の現場でのカメラマンの姿勢を大きく変えつつある。失敗したら撮り直せばいいということになると、「決定的瞬間」を狙ってファインダーを覗いていたカメラマンの緊張感が緩み、画面に締まりがなくなってきているのではないかという指摘もある。
 蓄積性は記録媒体の真価によって、これまでとは比較にならないほど大量に、しかも場所を取らずに画像を蓄積できるようになったということ。相互通信性はいうまでもなくインターネットなどを使って、画像をどんな場所からも即時に、大量に、正確に送受信できるということである。もちろんパソコンを電話回線に接続できればという条件付きではあるが。
 「デジグラフィ」の表現について考える時、僕にとって最も重要と思えるのは5番目の消去性である。記録された画像を、ボタンを押したりパソコンのキーをクリックしたりすることで、一瞬のうちに消去できるということだ。僕自身がデジタルカメラを使ってみて、一番びっくりしたことのひとつがそれだった。これはむろん「デジグラフィ」が物質ではなく、非物質的なデータであることによる。そしてこの消去性ゆえに、「デジグラフィ」の画像はわれわれに脆さ、儚さ、寄る辺のなさといった不安定な感情(デジグラフィ的不安)をもたらすように思えるのだ。

「デジグラファー」の登場/その表現
 このような改変性、現認性、蓄積性、相互通信性、消去性といった「デジグラフィ」の特質を生かすことで、いわば「デジグラファー」と称することができそうな表現者たちが登場してきた。まだデジタルカメラが一般化していなかった1990年代前半には、その改変性を活かして、現実にはありえない画像を構築していくようなタイプの作品が注目を集めた。名画のなかの人物の位置に自分自身を嵌め込んでいく森村泰昌や、「エレベーターガール」のシリーズで、日常と非日常が交錯する都市のエアポケットを描き出したやなぎみわの仕事などがそれにあたる。
 ところが1990年代後半になると、デジタルカメラやインターネットの普及にともなって、むしろ「デジグラフィ」の蓄積性、相互通信性、消去性といった機能を積極的に取り入れた仕事が目立ってきた。彼らの作品の発表の場として主に使われているのはインターネット上のウェブ・サイトである。たしかにクリックひとつで次々に生成、消滅を繰り返していく「デジグラフィ」のあり方を体現する場所として、最もふさわしいのはウェブ・サイトかもしれない。
 小林のりお高橋明洋内原恭彦永沼敦子といった「デジグラファー」たちのウェブ・サイトを覗くと、そこに活気溢れる表現の現場が形作られつつあることがよくわかる。彼らの多くはデジタルカメラで日々大量に撮影した画像を、タイムラグなしにウェブにアップしていく。最近では静止画像と動画とを併用する試みもある。またインターネット上を浮遊している無数の画像(たとえば「行方不明者」の顔写真)などが、無差別に取り込まれる場合もある。ウェブ・サイト上の「デジグラフィ」の表現のうごめきは、これから先も大きなうねりとなって多くの「デジグラファー」たちを巻き込んでいくのではないだろうか。

「フォトグラフィ」の未来
 では、「フォトグラフィ」は今後どうなっていくのか。「デジタルは写真を殺すのか?」という疑念は、多くの写真関係者によって共有されているのではないかと思う。むろん先のことはわからない。だが僕自身は「フォトグラフィ」の未来について必ずしも悲観的には捉えていない。なぜなら写真には「デジグラフィ」にはない表現上の特質があり、置き換え不可能な魅力が備わっているからだ。
 「フォトグラフィ」のプリントの「モノ」としての深みや存在感、われわれの感情や記憶を細やかに定着し、保存していくその卓越した能力、被写体を凝視することで見えてくる思考の蓄積──写真家たちが発明以来160年以上にわたって積み上げてきた「フォトグラフィ」の表現可能性は、「デジグラフィ」の出現によって逆に純化され、研ぎ澄まされていくことが期待できるのではないだろうか。かつて写真と絵画がそうだったように、「デジグラフィ」と「フォトグラフィ」が互いに刺激を与えあいながら、交流し、展開していく、そんな未来図が描けるのではないかと思っている。

[ いいざわ こうたろう ]
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