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プライバシーステートメント
ミュージアム・ノート
侵入するニューメディア
光岡寿郎
 最近では現代美術の展覧会に足を運ぶと、ヴィデオインスタレーションやメディアアートに代表される、メディアに媒介された作品に出会わないということは稀になった。芸術作品におけるメディアの利用は、それ自体「芸術作品」という概念の変容を背後から規定してきたが、今回はミュージアムに組み込まれている、そして侵入してくるメディアという観点から話を進めてみたい。

ケータイはマナー違反か?
 近年ミュージアムでの使用が問題になっている新しいメディアがある。それは、「カメラつきケータイ」だ。自らカメラ機能のないケータイを選ばない限り、現在日本ではケータイを持つすべての人が潜在的にはいつでもどこでも写真を撮影することができ、そのメール機能の利用によって即座にその写真を転送することができる。技術決定論的に言えば、それはテクノロジーの発達による日常生活のさらなるメディアイヴェント化であり、その影響がミュージアムにも及んできたといった説明に落ち着くというところだろうか。一方で、その利用はミュージアムサイドから来館者のモラルの欠如として問題化されることが多い。私自身は以下のミュージアム観に肯定的ではないのだが、一般にミュージアムは来館者が静かに作品との出会いを楽しむ場として想定されてきたし、研究者や学生を除いてはミュージアムで写真を撮影することは倫理的に自制されてきた。そもそもフィルムベースのカメラなどは「毎日持ち歩く」メディアではなく、一般の来館者が展示室で写真を頻繁に撮るなどという光景は想定されてこなかった。しかし、近年展示室での「カメラつきケータイ」の使用は珍しいものではなくなっている。では、このミュージアムに新たに外部から侵入してきた「カメラつきケータイ」というニューメディアの使用は、果たしてなにを意味しているのだろうか?
ヴェネツィアビエンナーレ ドクメンタ12
左:作品をカメラつきケータイで撮影する来館者(美術館)
右:デジタルカメラで撮影をする来館者(科学博物館)
ともに筆者撮影
見ること、知ること、所有すること
 ミュージアムにおけるケータイの使用を来館者のマナーの問題に回収してしまうことは、重要な視点を見落とすことになる。なぜなら、ミュージアムにおけるケータイの使用は、ミュージアムにおける「見ること、知ること、所有すること」の歴史社会的な編成に関わるものだからだ。
 そもそも私たちはなぜミュージアムを訪れるのか? それは、珍しいモノを「見たいから」である。では、なぜ「見たい」のかと言えば、それは自身で「所有し」毎日見ることができないからである。故に、私たちはミュージアムに足を運び、展示物と出会うことでその欲求を満たしている。つまり、ミュージアムにおける「見る」という行為は、強く「所有すること」と結びついているのである。
 この三者のメタフォリカルな関係は、近代にミュージアムを成立させた主要因のひとつでもある。というのも、美術館史などで言われる立憲君主の私有財産だった美術品、文化財の集積所としてのミュージアムが、近代社会において民主的に一般市民に開放され根づくことになったという説明はいささか楽観的過ぎるからだ。私たちはそもそも価値がわからないモノや、想像をできないモノを欲望しない。例えば、多くの学生(私を含め)が広めの12畳の新築ワンルームに住みたいとは思っても、いきなり一万坪の豪邸に一人暮らししたいとは思わないだろう。つまり、もし近代に至るまで本当に展示物へのアクセスが王侯貴族や一部の富裕商人に限られていたのであれば、そもそも「一般市民」★1はミュージアムを欲求しないだろう。むしろ、近代社会において市民をミュージアムへと駆り立てたのは、広い意味でのメディア環境の変化によるのかもしれない。
 そのひとつには、19世紀におけるマスツーリズムの成立がある。トーマス・クックによるパッケージツアーが登場するのが19世紀の後半であり、鉄道網の発達や万国博覧会といったメディアイヴェントにも支えられ、「珍しいものを見にいく≒旅行」が労働者階級にまで普及したのが、ミュージアムが社会に受容されていく19世紀である。一方で、写真も含めた複製技術の発達によって、印刷メディア(雑誌や観光絵葉書など)によっても、人々が自分の町を離れることなく異国情緒あふれる風景やモノに憧憬を覚えるようになったのである。これは別稿を要する論点であるけれども、この意味ではミュージアムに展示されているモノの真正性はその成立から複製技術に負っていたとも言える。つまり、結局のところ鉄道や複製技術といった広い意味でのメディアの発達★2に支えられるかたちで、市民のあいだに「珍しいモノを見たい、所有したい」という欲望が醸成されていたからこそ、ミュージアムはその都市における代替空間として受容されたのである。また一方で、ミュージアムが「珍しいモノを周遊しながら見ること≒知る」というメディアの形式を、万国博覧会やパノラマといった当時の空間的な視覚メディアと共有していたことも指摘しておく必要があるだろう。

 つまり、カメラつきケータイによって展示物を撮影するという行為は、「見ることを通してモノを所有する」という、近代に市民がミュージアムを通して実現しようとした始原的な欲望に基づいていたのである。つまり、ケータイで「撮影する=見る」ことで珍しいモノを撮影された画像というかたちで「所有する」のである。そこで、最終回では今回の議論を補足しながら、ミュージアムというメディア形式について考えてみたい。

★1──但し、ここでは一般的な意味での「市民」のニュアンスとしてこの用語を使用している。というのも、近代における「市民」概念は、社会階層的にもジェンダー的にも偏差を持ったある意味での特権階級として成立したからである。
★2──一般的に鉄道はメディアとは考えられていないが、鉄道が私たちの地理・空間認識の変容に与えた影響を論じたものとして以下を参照。
ヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史──十九世紀における空間と時間の工業化』(法政大学出版局、1982)。
光岡寿郎
1978年生。博物館研究、メディア論。東京大学大学院文化資源学博士課程。論文=「ミュージアム・スタディーズにおけるメディア論の可能性」など。共訳=『言葉と建築──語彙体系としてのモダニズム』(鹿島出版会、2005)。
2007年12月
[ みつおか としろう ]
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